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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
降誕編
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参 飢餓と渇き

 空を見上げるが朧気に月は見えても星星の輝きは巨大な枝葉によって遮られていた。

 これでは動かぬ星を基にして方向を確認し進むと言う事が出来ない。

 いやこの地について星はおろか全く知識が無い上、森羅万象が日の本と同じ理で動いてるとは限らない、分かったところで何の意味も無いのかもしれなかった。

 夜の森は闇と化し僅かに零れ落ちる月の光だけでは先も見通せない筈であったが不思議と形を認識する事が出来た。

 俺はこれほど夜目が利いたか、と思わず自問していた。

 若返りか或いは気が体に及ぼす障りなのかと漠然と答えを出す。

 如何に夜目が利こうが松明を用いようが五里霧中の現状、闇雲に歩き出すのは愚の極。、男は暗くなる前に起こしていた火に当たって一晩を過ごそうとしている。

 火起こしには根腐れか何かの要因で倒れた巨樹を刀で解体し木片に斬ったものを利用した。小さな棒状にした木の先を尖らせ両手で挟み錐揉み上に木片に摺り合わせた。

 凄まじい勢いで廻った棒は一瞬で火種を作る、後はそれを消さないよう巨大な枯葉を粉々にし火口として火を育てた。


 火が獣や蟲を呼び込む事になるかも知れぬ危険性と寒空の下、身体の不調を招く可能性を天秤にかけ、傾いたのは後者であった。

 夜ともなれば冷えた。薪をくべながら、ひんやりとした空気に緑の濃密な臭気、火が爆ぜる音と温度に木が燃える匂いを感じていた。

 篝火からの音のみが辺りを支配する中、腹の虫が鳴った、強い空腹感が襲う。


 周りに気をやると思いがけないほどこの森には命が芽吹いているようだ。

 地上に生きるもの、地中に住まうもの、遥か頭上の枝葉に生きるもの、大小様々な生命の息吹を感じ取る事が出来る。

 座禅を組み森羅万象を知覚する、気を沈め自然と同化してゆく。

 大地の一部と化した男の前を見た事もない蟲が興味を示す事無く通り過ぎる。

 蟲にとっては石か土にしか認識できなかったであろう程、男の気配は薄れ溶け込んでいる。

 この森にとって男は異物ではなく一部となっていた。

 火が消えそうになれば薪をくべ、何かあれば何時でも動けるよう意識を半ば残し瞑想に戻る、その繰り返しで危険を回避し

 やがて夜が明ける。





 緑の幕を通した鈍い光が天から落ちてくる、日が昇ってはいるが森は闇の紗幕で覆われているかのように薄暗い。

 早朝の冷え込みは篝火によって遮られる、辺りには朝特有の樹木の吐き出す香りが漂っていた。

 静かに目を開ける、森の一部から異物へと戻った男が先ず感じたのは強烈な空腹感であった、飢餓感と言い換えてもいい。

 考えてみればもう丸一日水も食べ物も口にしていない。口腔も酷く渇いている。

 気怠さを伴う朝であった。

 そういえば未明、半ば覚醒した意識に強大な気を持ったものが引っかかった気がしたがあれは夢であったのだろうか。分からぬ。

 それにしても異常なほど腹が減っていた。

 おそらくこの森には人が食し飲むに適したものは存在しないであろうと男は考えている。

 であるならば一刻も早くこの大森林を抜け出るしかない、昨日とは打って変わって重くなった身体を起こした。

 衰えぬ火勢に土をかけて消し男は歩き出す。


 人は迷うと同じ道を巡るという。

 さてどうするべきか。

 目印をつけて歩くほか思い浮かぶ策は無かった。

 だが一体何を目印とするのか、巨木に切れ込みを入れたとて僅かな距離を離れればもう目に付かなくなる。


 思案にふけ何も映していなかった目を薄暗い大地にやれば、信じられないほど大きな蛭が数匹身をくねらせていた。どのような理屈で感知しているのか分からぬが、時折男に環状に牙がついた大きな口を向けてくる。豪胆な男を持ってしても怖気が走る光景であった。



 良策が思いつかず倦怠感が襲う中、轟音が辺りに響く、巨蟲だ。

 昨日から何度となく遭遇していたが戦う事無く気配を消してやり過ごしていた。

 切りが無かったからである、それ以上に巨大蟻と蜘蛛、百足との戦闘で著しく体力を消耗していた。

 水も食べ物も無く睡眠も満足に取れてない今、体力の回復は望めない。


 今回も気を静め周囲と同化するが巨蟲の起こす爆音は一向に遠ざかる気配が無い。

 それどころか近づいてくる、大樹の陰に潜んでいた男の目の前に六尺はあろう巨大な蚊が羽音で大気を鳴動させていた。男は改めて何もかもが巨大なこの森に脅威を覚える。

 視覚でも聴覚でも気配でもないそれ以外の何かで獲物を捉えてるとしか思えなかった。


 羽音を轟かせて巨大蚊は近づくなり男に向かって口吻を飛ばした。

 己と変わらぬ大きさの蚊に血を吸われれば命は無い。

 迫ってくる槍のような口吻を身体を左に捻ってかわし、右足で一歩踏み込み居合。

 鋭い男の左薙ぎを巨大蚊は羽音を響かせ、一瞬で上へと移動し躱す。戻した口吻を再び男の身体へ突き立てるべく頭上から放ってくる。

 顔をずらし最小の動きで避けたつもりが僅かに頬を掠めた、浅くない裂傷を受け血が飛び散る。

 動きが鈍い、身体も重く感じる。

 全身を覆う気も薄く淡くなっている、身体の不調に比例するように気もまた減衰していた。

 しかしやらねばやられる、相手はこちらの体調など慮ってなどくれない。

 気力を振り絞り男は巨大蚊と相対する。蚊が三度みたび口吻を突く気配を見せた、だがあまりにその動きは単調に過ぎた。

 男は蚊の動きの先を制し、口吻が突くより速く懐に入りその胴体を真っ二つに断っていた。

 粘つく透明な液体が断面より漏れ地面に落ちて糸を引く。

 頭に響くほど五月蝿かった羽音が漸く止む。

 男は倒れる様に両手両膝を大地に突くと肩で息をしていた。


「がっ、はっ」


 肺に残った空気が吐き出され、頬から滴った血が大地を濡らす。

 思った以上に衰弱していた、たかが一日の絶食と徹夜でここまで身体に応えるのは初めてであった。

 老体ならまだしも、今の身体は若返り、若人の、それも盛りの時を迎えているはず。

 解せなかった。


 握っている刀に目をやれば光を帯びてない、そうか、と思った。

 気だ、と。

 気を使ったからだと。

 であればこの状態も説明がつく。

 尋常ではない大きな力を伴う代わりに体力を激しく失うのだ。

 異常な飢えも渇きも気怠さも気を使ったからこそ齎されたものなのだ。


 これはまずい事になったと男は思考する。

 何も考えずに気を使い過ぎていた。

 慣れてないのもあるだろうが数回、気を練り行使した程度でこれほど衰えてしまってはあと幾度も戦えないであろう。

 水も糧食も睡眠も全て足りない上、これから先も補給は期待出来ない。

 森に生きる蟲は食べるに適さず、流れる川も汚濁に近い有様であったのを確かめている。

 迂闊であった、気と身体の異常をもっと早く結びつけて考えなければならなかった。

 しかしもう遅い、なるだけ巨蟲との遭遇を抑え森を出るしかない。がそれも今となっては望み薄と言わざるを得なかった。


 川の水は飲めない、川、川か。男は思考する。

 もしかしたら川に沿って下れば、何れ開けた場所、或いは海に辿り付くのではないか。

 迷った時は下るのではなく、尾根を目指し辺りを一望すべきとも聞いた事がある、が見ず知らずの土地でどれほどの意味があるのか。

 此処に至っては上ると言う選択肢は残されていない。頂上まで上る、そしてそこから下る労力。途中で蟲に出くわす確率、様々な要因を考慮し、そんな体力は残されていないと判断を下す。

 滝があろうが崖があろうが下るしかない、記憶を頼りに汚濁が流れる川へと向かう。四半刻も歩かぬうちに迷わず辿り着いた。下に臨む川は相も変わらず淀み、辺りには鼻を衝く臭気が漂う。

 沢へと降りると、更に匂いはきつくなった。どす黒く腐臭がする水が流れる先に、何かがあるようには見えない。男は覚悟を決め川沿いに一歩を踏み出す。




 絶えず鼻腔を刺激する異臭に辟易しながらも下ってゆく。

 既に日は空高く昇っているが、緑の天幕が日差しを遮断し薄暗い。

 頬の傷は漸く血が止まっていた。

 無心に歩いていると、突如として地面から何かが跳びかかって来るのを察知し、刀を抜いて斬りつける。酷く柔らかいものを斬った手応えがあった。

 滑りと光沢のある黒い身体に赤い斑点を持つ巨大な蛭が紫色の汁を溢れさせ、二つに分かたれ蠢いている。

 見れば三尺はある巨大蛭が何十匹と一面を黒く照らす。

 おぞましい光景がそこにあった。

 黒い流水と蛭の体色が同化し川の一部に見せていた。それにしても何時もならばもっと早く気付いたであろうが、身体の不調はいよいよ深刻であった。


 巨大蛭が鎌首をもたげるように立ち上がり、円環状に並ぶ刃のような歯を男に向ける。胴体を撓めると、濁った水で抜かるんだ大地より次々と襲い掛かってきた。

 跳躍中に軌道が変わる事はないので避けるのは造作も無い。

 躱して斬る、避けて刀を振るう。しかし二匹目からは切断する事が出来なくなっていた。

 蛭の滑りのある体液が刀身を覆い、切れ味を削いだのだろう。

 既に気を練る体力的な余裕は無い。

 斬るのではなく叩きつけるように振るっていたが蛭の攻勢は尽きる気配が無い。

 打撃に対し相当な耐性があるらしく、刀で激しく叩かれ弾き飛ばされても、然して損傷も無いようで何度も襲い掛かってくる。

 このまま戦いを続けても無駄に消耗するだけと、更に重くなった身体を無理に動かし走る。暫くは身体を蠕動させ追ってきた巨大蛭は、やがて諦めたのか姿を消した。

 背後を振り返って追って来ないのを確認すると疲労のために膝を突く。

 体力は底を尽き掛け、飢餓は増し、水への渇望は限界を超えている。

 加えて寝不足がたたり、頭痛までしていた。

 今また襲われたら赤子の手を捻るように倒されるだろう事は容易に想像できる。

 とにかく息が整うまで座り込んだ。

 余りの渇きに思わず黒い水に手が及んだが、残った自制心が押し止める。

 飲めば想像もつかぬ無いほどの苦痛を味わうことは、火を見るより明らかであった。


 漸く呼吸が落ち着くとよろよろと立ち上がり歩き出した。

 とにかく歩くのだ、一歩でも半歩でもそれが己の生存に繋がると信じて。

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