弐 気の高まり
空一面の緑の天幕の隙間から淡い光が漏れ落ちる。太陽が沈み月が昇っていた。男は夜空を見上げている。枝葉から透けて見えるそれは日の本で見るより僅かに大きく蒼みがかっているように思われた。日が沈めば暗くなり、昇れば光が世を照らす、夜の空には月が昇り、日の光を淡く投げかける。こちらの世でも日の本と同じく、日輪と月は理通り、滞りなく運び行われているようであった。
巨大蟻を倒して後、巨大蜘蛛、巨大百足に襲われたが、それらを屠り森の中をさ迷っている。そのどちらもが僅かの気の緩みで命を落とす強敵であったが男は退けていた。
男にもこの樹海の中で当てなくさ迷う事は、愚行という認識はあったが、捜索してくれる者が居る訳でもなく、此処が何処かも分からぬ以上歩くよりなかった。祖国では見たことも無いほどの巨樹、そして蟲達の大きさから見て、この森も想像がつかないほどの大きさの可能性が高い。男には水も食料も無い、早いうちに何とかしなければ生命の危険がある。蟲が食べられないかと探ってみたが、とても人が食す物とは思えない異臭があり、ほんの少し口に含んでみると、耐え難い苦味と口の中を刺激する痛みに襲われ吐き出した。
水に関しては、此処まで歩いてくる途中に川があり、渇きを癒せないものかと寄って見ると、黒く澱んでおり且つ腐臭がし、とても飲めたものではなかった。さてどうしたものかと考えに耽っていたが良案は浮かばない。思索に耽る薄暗い闇の中で、ふと己の身体に目が行く。
身体の若返りと共に、もう一つ気付いた事があった。仄かに光る水気の様なものが身体から陽炎の如く溢れ出ているのだ。不可思議なこれは一体何か、男には思い当たるものがあった。今それを試す。
息を深く吸い長く吐く。幾度か繰り返し明鏡止水の心境まで持ってゆく。抜刀し、身体の赴くまま刀の赴くまま振るう、振るう。気が体内で練り上げられ高まってゆく、何処までも何処までも果てが無いように。
男の身体をぼんやりとした淡い光が包んでいた。それは粘りのある靄を身に纏っているかのような感覚。
気をこの様に実体として感じたのは初めてであった。身体のうちより止め処なく、それこそ無尽蔵と思えるほどに溢れ出てくる。内に収めきれなくなり一気に身体の外へと発した。
瞬間。
大地が、聳え立つ巨樹が、大気が震えた。音にならない音が鼓膜を揺らす。
「おぅ」
思わず息が漏れる。それでも尚、身体から揺らめき毀れ出る気は、巨樹の天幕の僅かな隙間より零れ落ちる、蒼い月の光に映し出され幻想的な美をみせていた。
確認を終え巨蟲との戦いを振り返る。蟻も百足も鉄の如き甲殻であったが、仕留める事が出来た。蟻では僅かに気が動転し感じられなかったが、蜘蛛とそして百足との戦いでは明確に気が身体に、そして刀に帯びているのが感じられた。それは蟻の頭部には通らなかった刃が、百足の甲殻にはすんなりと沈み込んだことでも明らかであった。戦いの後、刀を検めると不思議な事に刃毀れ一つ無く、これはあれほど硬いものを斬ってあり得ない事である。
今も振るう刀が仄かに光っているように見える。これが気の力なのであろう。何故この様な力となって現れるのかは分からぬ、が鉄を断ち刃が欠けぬ現実がある。男はそのままを受け入れた。そして確信する。
この力があれば
神もを斬れる
「神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん、か。まさか己で試す時が来ようとは」
男の目には天に刃を向ける叛逆の炎が燈り、口元には神をも畏れぬ笑みが張り付いていた。