壱 異界に降り立つ
何もない暗闇を歩いていた、そこは光明の一筋も無い漆黒の帳に覆われた世界であった。
真実の闇というものは身体の平衡を保てないのだな、と男は他人事のように考えていた。
左右によろめく、不安定な動きながら男は交互に足を動かしてゆく。
自分は何物なのか思い出せず、また何故このような場所にいるのかも分からない。何も分からないのに何故歩いているのか、何処へ向かっているのか。
とりとめもなく考える、そのうちそんな事はどうでも良い事のように思われた。
空に浮遊したような不可思議な感覚で男は覚束ない足を一歩また一歩踏み込んでゆく。
行き先も目的も無いまま、ただただ歩く。
何も変わらずに闇のみがあった。
もうどれ程の時間歩いたのだろう、一日か或いは一瞬なのか。
時が流れる感覚は既に無く、夢の中に身体を持って入り込んでしまった感だけがあった。
疲れは無く何処までも歩いてゆく気力が体に満ちている。
何処までも、何処までも。身体が朽ち果て行ける処まで。
ふと足が止まる。
始まりが唐突であれば終わりもまた唐突であった。
闇の紗幕が裂ける様に空に亀裂が走り音も無く左右に割れてゆく。
音無き雷が闇に走る。
眩い光が暗闇に慣れた眼を焼く。
光は闇を忘却の彼方へ追いやり男を飲み込んだ。
真っ先に五感を刺激したのは樹木の香りであった。
濃密な緑の匂いが男を包む。漸く視力が戻った目に映されたのは鬱蒼と茂った見渡す限りの樹木、そのどれもが男が見たことも無い巨樹で天に向かって屹立していた。
天地を支える柱が聳え立つような大森林であった。
天幕の様に空を覆う枝枝越しにうっすらと太陽が出ているのが見える。
その大きさゆえ枝の広さも広範囲に渡って伸びており大地には日の光が僅かしか届いていない。
周辺は薄暗く日光を必要としない苔が地面に密生している。
男は闇から解放され淡い太陽の光の下、大地を踏んでいた。
自分が誰なのか思い出す、が何故このような処に立っているのか皆目見当もつかない。
己の身体を見れば着物を着、刀を差している。
鼻を突く濃密な樹木の臭気、ひんやりとした肌に纏わりつく空気
天を衝く巨樹が根を張る大地、そのどれもが夢ではない事を主張する。
突如全く見知らぬ土地に立ちながら、この現所にある感じ。これは話に聞く神隠しにあったのではないか、男はそう思った。
如何なる怪力乱神の仕業か、日の本から斯様な場所に出でようとは。
森林の巨大さから来る圧迫感を受けながら男は感嘆と嘆息を同時に込めた息を吐く、と
地響きがした。
地震程ではない、大地を巨大な質量を持つ何かが動いているかのようだ。
音のする方に目を向ければ見上げるような大きさの蟻がこちらへ向って来るではないか。
速い。
巨樹を、そして高低のある台地を三対の足を巧みに使い速度を落とさず迫ってくる。
六本の足を高速で動かし突進してくる勢いのまま巨大な鎌のような牙で男を銜えようとする。
震動から目の前に迫る迄、刹那。
「ぬおぅ」
突然の怪異にも男は怯むことも竦む事も無かった。腰に差した刀を抜き今にも己を飲み込もうとする常識外れの巨大な口に向かって振り下ろす。
高い激突音が周囲に轟く。
それは鉄と鉄が高速で衝突したような響き。
なんと男は自らの数倍はある巨大蟻の突進を刀で受け止めていた。
一対の大鎌が両側から男を銜えんと左右に動くが男には僅かに届かない。
巨大蟻が六本の足で大地を押す。
男の足は地面にめり込みだす。
全身に力を込める男の身体が小刻みに震える、命の綱引きはまだ終わっていない。
両者の力は拮抗しているようだった。
両断には程遠い浅く切り込んだ刀に男は更に力を込める。
蟻もそうはさせじと巨大な体格を頼みに全身で圧拉ぐ。
両腕両足身体中の筋肉と言う筋肉が瘤の様に盛り上がり男の桁外れの膂力が刀に伝わる。
「ぉぉおおおお」
嫌な音がすると蟻の頭盾と大顎が両断された。
斬るのではない、力任せに押し潰した。
刀が仄かに光る。
蟻は何の痛痒も感じず潰れた大口から液体を男に向かって吐く。
が男は呼吸をする間もなく蟻の横に回りこむ事でかわし、然程損傷を受けているように思われない頭を胴体から切り落とすべく刀を振るう。斬ッ。
甲皮ではなく頭部と胴体を繋ぐ節を狙った一撃であったが容易く断ち切った、一抱えする程の大蟻の頭が緑色の体液を零しながら大地を汚す。
地面には蟻が吐き出した蟻酸が悪臭を放ち沸々と音を立て煙を上げていた。
まともに浴びていれば肉が溶けていたかもしれない。
六本の足から力が抜け大木のような胴体が音を立てて崩れた。
暫くは足が小刻みに動いていたが、やがて巨大蟻は動きを止めた。
男は軽く息を吐き血振りをし周囲に気を配る、どうやらこの一匹だけのようだ。
男から熱気が溢れ大気を歪める。
「くっく、この様な怪異が存在するとは面白き世に跳ばされたものだ」
男はさも楽しそうに嗤っていた、命を賭けた今の戦いも男にとっては娯楽に過ぎなかった。
己の命と魂の全てを擲って戦う、それこそが男が唯一渇望したものだ。
誰が聞き届けたのであろうか、神か仏か、悪鬼羅刹の類なのか、なにものでもいい。男は心の底から感謝の意を捧げる。
我知らず強く握り締めた拳に意識がいき、ふと腕が目に入った。
幾百万幾千万と目にしてきた己の腕、記憶していた物との違いに気付き目を見張る。
それは骨と皮だけの先ほどまでとは明らかに異なる瑞々しい力溢れる若人のものであった。
隆々とした瘤が絡みついたような大きく強い腕がそこにはあった。
その腕で体を触る、筋骨逞しい胴、腕と同じく太い筋で覆われた両足を感じられた。
そういえば身体が軽い、これほど身体の調子が良いのは一体何時以来であろうか。
全身からは気が満ち溢れている。
止め処も止め処も決して尽きぬこんこんと湧き出す泉の様に。
これはまるで
まるで盛りを迎えた頃のものではないか
男は驚愕していた。
と同時に確信した。
何かが、人智を超えた何かがあの慟哭を聞きつけたのだ。
そして如何なる故あってか我が望みを叶えたもうた。
己の全て、生涯を費やして磨きに磨いた技を存分に振るう。
この滾りをぶつけ受け止めてくれる存在がこの地にはいる。
このような蟲程度ではなく祖国では終ぞ叶わなかった己以上の圧倒的な力を持つ何かとの邂逅。
男は身に余る歓喜に耐えられなくなったように深く息を吐いた。