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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
放浪編
13/104

拾弐  幼女と楂古聿

一刻 二時間

半刻 一時間

四半刻 三十分

 男は飢えていた。

 もう丸三日、腹に何も入れていない。

 口にした物と言えば水のみである。

 路銀はとうの昔に使い果たし、金を得る手段も無い。

 いや、ないことはないのだが男の風貌が異国の者であったため雇ってもらえなかった。

 宿はおろか買い物さえ拒否される事もあった。

 言葉が通じているのに聞き取れないといった身振りを大仰に示す者もいた。

 誰もが胡乱げな目で男を見ている。

 この地では異国のものに対して厳しい偏見と差別があるようだ。

 剣で言う事を聞かすと言う手もあったが、その手段は取らなかった。


 弱者に刃を向けると言うのは男の矜持に反していたし、剣を抜くのは命が脅かされた時と強敵に邂逅した時と決めていたからだ。

 男にはまだ理由を考える余裕があった。

 だがそれも日を追う毎に失われてゆく。

 それでも何とかこの場まで歩いて来た。

 しかし次の宿場までどれだけの道のりがあるのか、男には分からなかった。

 何故なら尋ねても誰も口を開こうとしなかったからだ。


 今、男は隠れるように山に潜んでいる。

 眼下には往来が見える。

 人間の足で踏み固められただけの道だ。轍の後も残っている事から商人の馬車も通っているのだろう。或いは農業のための馬車かも知れなかった。

 だが今、人の姿も馬の姿も無い。


 男は背に腹は代えられぬと追剥おいはぎをするつもりであった。

 そんな事をせねばならないところまで追い詰められつつある。

 男の性根は決して悪ではない、だが善でもない。

 進んで悪事を働く気など毛頭無かったが、事、此処に至っては已む無し。

 己の命がかかっているような場面で他者を優先する気など更々無かった。


 一刻ほど空腹を友にし待っていると人の気配がした。

 気を辿ってみれば小さな子供を連れた親子連れであった。

 僅かの逡巡の後、男は行動する。





「きゃぁ」


 突然山から現れた男に、小さな娘を連れた母親は驚いて声を上げた。

 咄嗟に娘を背後へと隠す。

 立ち塞がる男を見れば、みすぼらしい異国の衣服を纏い、藁か何かで編んだような粗末な履物を履き、腰には武器が下げられていた。太い眉の下にある獣のような目からは炯炯と光が毀れ、鼻から下は濃い髭に覆われている。

 見るからに堅気の人間ではない、母親には盗賊が襲ってきた様に思えた。

 事実その通りだったのだが。





 一方、男もまた戸惑っていた、目の前の母娘連れが自分と変わらぬほど薄汚れていたからだ。

 母も小さな幼子も痩せており、満足に食べていないのは自明であった。

 この有様では食べる物など何も持っていまい。


 得体の知れぬ男の強い視線を受けて、母親はどうしてよいのか分からず娘を強く抱きしめる。目の前の異国人が襲ってきた時は何としても娘だけは逃がす覚悟を決めて。


 男は諦めて口を開く。幾らなんでも、この親子から何かを奪う気にはなれなかった。


「驚かせてすまぬ」


 そう謝罪の言葉が男の口から漏れた時、腹の虫が大きく鳴った。

 母親は瞬時に頭を働かせていた。

 異国の男は今確かに言葉を喋った、アンブリヌ語である。

 意思の疎通が出来る事は母親の不安を僅かだが和らげた。

 人とは不思議なもので会話を交わせば何かしらの情を感じる生き物だ。

 それが例え奪う者と奪われる者の関係だとしても。

 自分達の境遇を話し情けをかけて見逃してもらう、それが力を持たない母親の唯一の武器であった。

 女が恐る恐ると言った呈で男へと話しかける。


「お腹が減っているのですか、申し訳ありませんが見ての通り私どもも人様に差し上げる余裕はないのです。どうかお許しください」


 懇願する母親の影から娘が男に好奇心旺盛な目を向けてくる。

 顔は埃に塗れていたが愛らしい顔をしていた。 


「何もする気は無い、邪魔をした」


 男の言葉に母親は安堵した表情で娘を抱きかかえる。

 頬がこけた顔と今の腹の音、男が略奪を企てていた事は明らかであった。

 何が男を翻意させたのかは定かではなかったが。


 その時、男の鋭敏な感覚は、山の奥に動く人の気配を捉えていた、それも多数の。

 貧しい母娘を驚かせた償いなのか、或いは気紛れなのか男は言葉をかける。


「このまま行くのは止めておけ、おそらく山賊が待ち構えておる筈だ。命が惜しくば道を変えるなり引き返すなりせよ」


 如何に山賊とてこの親子から取れるものはないだろう。、だが母親は痩せて薄汚れてはいても顔立ちは整っていた。

 美しい女と言う事が山賊にとって何よりの収穫かも知れない。

 母親は無言で頷くと娘を促して歩き出した、男がその山賊の仲間なのではないかと言う一抹の不安と共に。

 娘が何やら母親に話しかけている、母親は戸惑ったような顔で男と娘を返す返す見る。

 すると娘が母親の手を離し男へと駆けて来た。

 衣嚢いのうから抜いた小さな手を男に向かって開くと、そこには紙で包まれた小さな長方形の品が現れる。


「あげる」


 幼子は物怖じすることなく、盗賊めいた風貌の男へと告げた。

 男は母親へと目をやると、よいのかと尋ねた。

 母親は困った顔の後、娘の気持ちを尊重する事にした様で、どうぞ貰ってやって下さいと男に返した。


 男は膝を曲げ娘の視線に合わせると


「かたじけない、してこれは如何なる物か。食い物か」


 と尋ねた。娘は舌足らずな口調で答える。


「んとね、甘いの、あとすごく甘くて、ちょっとにがくて美味しい。ショコラゆうの」


「しょこら」


「ちがう、ショコラ」


 男の発音が違うらしい。娘は可愛らしい口を大袈裟に開き男に教える。


「ショコラ」


「そう、うまくいえた」


 教師となった娘は教え子を導けた事に満足気だ。


「貰って良いのか」


「うん、困ってる人は助けるの、お父さんゆってた」


「そうか。出来た親父殿だな。娘よ名は何と言う」


「ソフィユ」


「ソフィユよ、我が名は武蔵。この恩は何時か返そう」


 幼子に向けられる男の目は思いの他温かい。

 うんと頷くと娘は母親のもとへと戻ってゆく。

 母親の手を掴み顔を見上げると誇らしげに微笑む、娘を見る母親の目も慈愛に満ちていた。


 男は親子が見えなくなるまで、その場を動かなかった。

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