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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
降誕編
12/104

拾壱 出立

 払暁前。暗闇の中、旅支度を終えた男の姿が屋敷の前にあった、そして男を送り出す二つの影も。


「世話になった」


 大陸で最も通じるアンブリヌ語で男は別れの言葉を述べる。

 

「ふふ、僅かな間にすっかり喋れるようになって、まだ若干訛りがありますが何処へ行っても通じますよ。教師が良かったからですかね。で、これから何処へ向かうのですか」


 小柄な影から若い娘特有の高い声が漏れる。少女は数ヶ月の間、教師役として男にこの世界の言語、常識、文字、魔術の知識を感応の魔法を通じて教えこんだ。長い時間を共にしてきたが、男はこれからどうするのかと言った事に関し何も語らずにいた。

 そんな男が突然村を離れると言い出したのは五日前の事であった。

 前触れもなく明日出てゆくと言った男を、旅の準備もせずに出発して森の二の舞になるつもりかと強引に引きとめたのだ。男も苦い経験を思い出したのか渋々了承した。

 それからの数日は男の旅支度を整えるために慌しく過ぎていった。


「先ずは人が集う都へ行こうかと思う。其処でなら俺がこの世に跳ばされた因を知っている者がおるやも知れぬ」


 男は彼方に目線をやり、若々しく重厚な声で少女の問いに答える。


「それがいいかも知れません。アンエィルには私など及びもしない知識を持つ魔術師も数多くいる事ですし」


 少女の賛同に男は黙って頷いた。残された最後の一人が口を開く。精悍な顔をした青年であった。


「ムサシ、貴殿との修練の日々、私は決して忘れぬ。長い間目の前に立ち塞がっていた壁が崩れてゆくのを実感した日々であった。心から感謝する」


 言葉にはムサシと呼んだ男への尊崇の念が込められていた。青年の目には数ヶ月の間、武蔵に教えを請うた光景が蘇っている様であった。

 武蔵は頷く。


「お主らには本当に良くして貰うた、この武蔵受けた恩は決して忘れぬ」


 武蔵は見送る二つの影、リレティアとヴィジルの目を見据えた。

 東の空が紫色に染まり始める。


「ではさらばだ」


 別れの言葉を告げ武蔵は二人に向かって頭を下げると、踵を返し街道へと歩き始める。


「えぇ、また何処かで会う事もあるでしょう、その時まで」


「そうだ、私もこれでお別れとは思ってないぞ、また会おう、ムサシ」


 武蔵の背に別れの言葉が投げかけられるが、応じることも振り向く事も無く去っていった。

 歩く速度が早いのか、あっという間に見えなくなる。

 地平線が赤く染まり顔を覗かせた太陽が、黙って佇む二人の姿を照らしていた。


「一度も振り返らず行ってしまったぞ。まったく、感傷のかの字も無いお別れだったな」


 形の良い眉を顰め、ヴィジルがぼやく。


「あのムサシが涙を流して別れを惜しむとでも思っていたのですか、それこそあり得ないでしょう」


 リレティアが青年の言葉を揶揄するように返した。


「分かってはいたがこうも淡々と去られると言うのもな」


「そうですか?寧ろ私はこれ以外ないだろうって言うぐらい想像した通りのお別れでした」


 ヴィジルは淡々としている少女を見つめ若干あきれた風に言葉を吐き出す。


「お前は冷めているな」


「貴方は浪漫主義者ですものね」


 リレティアが青年の言葉に薄ら笑いを持って応える。


「違う、情に厚いと言ってくれ。仮にも命を助け助けられ、数ヶ月寝食を共にした仲なのだ。決して夢や妄想に現を抜かす戯けではないぞ、私は」


 少女の態度に腹を立てたように青年の声が大きくなる。


「分かっていますよ、一寸からかっただけです。貴方はもう少し余裕を持つ事を心がけるべきですね、お坊ちゃま」


「生意気な娘だ。私の方が年上なのにお前はいつも私を子ども扱いする」


 不満そうに応える青年と、楽しそうに返す少女のやり取りが、全身を現した太陽によって明るくなりつつある大地へと吸い込まれていった。新しい一日の始まりであった。

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