はじまり
月の蒼き眼差しが照らす静まり返った山深き処にそれはあった。
鬱蒼と茂る木々の中に口を開けた洞窟からは薄く光が漏れている。
ゆらゆらとたゆたう様なそれは自然の物ではない。
洞窟の中には一人の老いた男がいた。
男は無念無想で書をしたためていた。
顔は皺に埋もれ手足はひび割れている。
老年であるその顔には死相が浮かんでいた。
淡い蝋燭の揺らめく炎の下、手を動かす男の影は洞窟の壁に踊っている。
書を書き終えると静かに筆を置いた。男は細く息をつき目を瞑る。
自らの命が尽きようとしているのを感じていた。
今こうしている間にも命の灯火が失われてゆく。
齢六十余年 思えば波乱万丈の人生であり
剣と共に生きぬいた人生であった。
男には子がいない、技を継ぐ弟子もいなかった。
そこに後悔は微塵も無い。
全てを飲み込み歩んできた人生である。
若き頃は「我が剣は我のみのもの」などと嘯き教えを請われ様が取り合わなかったものだ。
その考えは今もって変わってなどいない。
己の剣は己以外のものが扱える剣ではないという自負。
されどそれ故、此処で朽ち果てるという皮肉。
男が到達した剣境は誰にも知られること無く時の流れに消え逝くのは自明であった。
それでも時代に、歴史に己が剣傷を刻み遺したいと言う漠然とした思いはあったのだろう。
何時か己が達した境地を理解する者が現れるやも知れぬ。
そう思い書を書き残す事に没頭した。或いは迫り来る最後の時までの退屈凌ぎだったのかも知れない。
そしてその書も今書き終えた。
書が世に出るかは天のみぞ知る。
このまま誰にも知られること無く洞窟の中で土に還るならそれでも構わなかった。
最早思い残す事などあろうはずもない。
男はその人生において後悔をせず感じず、あるがままに己がままに生きた。
己が進む道は剣で開き歩んできたのだ。
その道も終わりが見え、手には最早何も握られてない。
振り返れば錆び付き鉄粉となった剣の残骸がさながら人生の軌跡となって落ちている事だろう。
後は静かにその時を待つだけ。
だが死を前に静謐とした空気の中、心の奥底、内奥の内奥に幽かな燻りを感じる。
忙しなく揺れる蝋燭の火が男の心を照らす。
本当にそうなのだろうか、本当に何も思うところは無いのだろうか。
ではこの疼きは何なのだろう。
澄み切っていた心を突如沸いた汚濁が侵食を始める。
熾火のようにじりじりと炙るように少しずつ少しずつ。
疼く、心が疼く
腕が足が体が疼き始めた。
無性に剣を振るいたくなった。
無性に人を斬りたくなっていた。
分からない、分からぬ、何故か
そのような我欲からはとうに解き放たれたはずだった。
死闘の果てにあるのは虚無
残されるのは憎しみそして哀しみ
戦いの末、男の手に残ったものは僅かながらの名声のみ
剣で身を立てる時代はとうの昔に終わり
時代の波に取り残され、それを受け入れられず悪足掻きをした者同士の命を懸けた遊戯
道化師、そう悟り人殺しの剣を置いた筈であった。
手足には既に肉は無く皮と骨だけのものになっている。
これでは満足に剣を握ることも出来まい。
年を経るごとに躰からは力が失われ技が残った。
さらに月日を重ねればその技さえも消える。
なんと人の儚きことか。
人は終世をかけて積み上げてきたものさえも失う定めなのだ。
全てを捧げようと容赦なく奪い去る。
人の無常を嘆く心を膨れ上がった欲望が飲み込んでいく。
燃え盛る我執の前では悟りなど消し飛んでいた。
足りぬ、まだ足りなかったのだ
己と言う存在全てをかけた戦いを
血と肉と魂の全てをかけた戦いを自分は欲していたのだ。
獣が見える、己の最も昏き場所に数十年の永きに渡って息を潜めていた大きく黒い獣だ。
その獣が炎の縛鎖を食い千切り解き放たれた
滾る、血が滾る
闘いへの渇望を糧に獣がより強くより大きくなって男を支配する。
おぉ何ということだ
今際の際になってこのような妄執に晒されるとは
男が吠える。
あと一日、いや半日先であったならば
自らの人生に一片の曇りなく逝けたものを
幾人もの命を断ち修羅道を歩んできたこれは報いなのか。
神仏を頼まずとも尊んできた男の目には
神をも殺す憤怒の炎が灯る。
男の嘆きは洞窟を抜け森閑の山野に響く。
それは獣の咆哮であり、また慟哭であった。