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男は意気地なしね、いざとなると

作者: ゆで くろ太

 彼女は夏目漱石のファンだ。彼女と少しでも話したいがために、僕は手始めに、こゝろと、夢十夜を読んだ。といっても、理系の僕にはさっぱりで、国語の授業を受けてもさっぱりであった。


 以前、彼女に、自分の思いを打ち明けたことがある。好きだと一言告げた。すると彼女は、夏目漱石はお好きですか、とだけ返した。廊下の窓から差し込む夕陽に照らされた彼女と、鈴の音のような彼女の涼しい声に、ただ棒のように立って黙るしかできなかった。そんな僕を一瞥し、長いセーラーのスカートと共に身を翻して彼女は去ってしまった。歩くたびに、揺れきらめくまっすぐな髪が目に焼き付いた。


 そして、今日再び彼女にこの胸が締まるような僕の恋心を伝えようとおもう。彼女にはただの迷惑であろうことは承知しているが、伝えずには身がもたない。前と同じ時間、同じ場所に、僕と彼女はたっていた。僕は目の前の彼女に向かって好きだと一言声を発した。前と同じく。

「夏目漱石はお好きですか」

 鈴が凛と鳴った。

「こゝろと夢十夜は拝読しました」

 彼女は紅を塗ったかのような真赤な唇の両端をふっと持ち上げ、真黒な瞳に僕をはっきりと写した。

「あなたは大胆だ」

 自分は頭を目一杯に回転させ、ああ、先生の台詞か、と理解した。しかし、ただの知ったかぶりの、下心しかない夏目漱石ファンの僕には上手い返しが出来そうもなかった。

「僕は、真面目です。」

「本当に真面目なんですか。はらの底からですか。」

 彼女は間髪入れずに答えを返した。僕は戸惑った。彼女の瞳は僕を試していた。相変わらずに微笑を浮かべながら、僕の目をしっかりと見ていた。僕は負けた。


 それから幾日かが過ぎて、席替えがあった。僕は乱暴に千切られたノートの端切れで奇跡を手に入れた。くじに書かれていた数字は彼女と同じであった。席は真ん中の一番前で、決して人気ではない位置であったが、そんなことはどうでもよかった。教師たちには僕の緊張がそんなどうでもよいことからきているのだと思い込まれ、どの授業でもからかわれる羽目となった。しかしそんなことも僕にはどうでもよかった。時間がたつだけで、彼女への思いは増した。僕の心臓が持つうちに、と席替えした一週間後に3度目となる愛の告白をした。また同じ時間、同じ場所だ。もうあたりは暗い。僕は少し違うアプローチをかけることにした。


「月が綺麗ですね」

 彼女は少し驚いたように顔をあげた。同時に、伏し目がちだった瞳に僕を写した。しかし、それもほんの少しの間で、また彼女は長い睫毛を下に向けてしまった。

「…もう、死にます」

 彼女は静かに、ぽつりと呟いた。僕はなんと言っていいのか分からなかった。なぜ彼女がその言葉を選んだのか、理由が見当たらぬままに男を演じた。

「そうですか、死ぬんですか」

 自分が今云うべき言葉じゃないと頭でも心でも理解していた。でも、僕はなりきるしかなかった。

「死ぬんじゃないでしょうね」

 すると、「でも、死ぬんですもの、仕方がないわ」と震えた声で彼女は言った。まるで、第一夜そのものじゃないか、僕は夢の中にいるのだろうかと錯覚に陥り始めていた。

「日が出て、沈んで、赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、あなた、待っていられますか」

 彼女は、僕が知っている女そのものだった。彼女が女を演じている間は僕も男を演じなければと使命感に駆られた。しかし、そんな奇妙な心地の中で、僕の理性は問いかけた。彼女は本当に女を演じているだけなのだろうか。女の言葉を借りているだけなのではないだろうか。そう考えると、僕は容易に肯けなかった。

 僕の困惑を感じてか、彼女は女を演じることをやめ、彼女自身の口で彼女の言葉を紡いだ。そこには、何の色もなかった。

「…私、今日の夜に、父の都合でロンドンへ発つの。」

 僕に顔を向けた彼女は、両目からぽろぽろと涙を零していた。もう、あたりは夜だ。学校近くを通る道路から、信号機やら車のライトやらの光を反射して、涙は光の粒のようにきらきらしていた。


「私も、貴方と見る月が特別綺麗に見えました」

 彼女は最後に、もろく崩れそうな、淡いひかりを放つ笑顔を僕に向けながら、それだけを言い残して、逃げるように去ってしまった。走っていく彼女の髪はなりふり構わない様子で乱れていたが、風を受けた長い髪は繊細で、月明かりに照らされた美しいものだった。


「…待っている」

 一歩もさっきの場所から動かずに、一人言葉を零した。彼女を追いかけられなかった僕に、この言葉を彼女に伝える資格はない。

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