その⑤
その④から翌日へと場面が変わっています。
状況が分かりにくくなってしまい、誠に申し訳ございません。
朝食の後、釣り場で準備があるということで、神楽笹は一人で釣り場に行ってしまった。僕と沙紀は昼食のサンドイッチを作って神楽笹の後を追って家を出た。
時間は午前九時。
涼しげな夏霧が散って、目にも鮮やかな青の下、山間の村は急き立てられるように温気まとう。
「テッペンハゲタカ」
「て、てっぺんはげ?」
差した日傘を傾けて、鮮やかな空に映える緑の山の頂を見上げながら沙紀が言った。
鳥が鳴いている。昨日の夕方から聞こえていた鳴き声と同じである。僕はその鳥の名前を何の気なしに沙紀に聞いた。すると沙紀が言った言葉が「テッペンハゲタカ」であった。
「そんな変な名前の鳥なのか?」
そんなふびんな名前があるものか。怪訝に思いながら、僕が聞く。すると、
「違うよ、名前じゃない」
沙紀は笑いながら言った。
「鳴き声がそう聞こえるだろ。ほら、テッペンハゲタカって」
「て、てっぺんはげ……」
森の奥から響く鳴き声は、なるほど、そんな風に聞こえなくもない。先入観があればなおさらで、少なくとも今日一日は、僕はあの声を「テッペンハゲタカ」と聞き取るだろう。
「しかし、間広は物を知らないな」
日傘をくるりと回しながら、沙紀は笑顔をこちらに向けた。
「代表的な夏鳥だぞ」
「夏鳥ねぇ」と、僕は声に出した。
夏鳥と聞いて僕が唯一思い浮かべるのはツバメだけである。それにしても神楽笹の名前だから印象が深いというだけで、僕は夏の鳥の種類をほとんど知らない。
「あれはホトトギスだ」
少し自慢げに沙紀が言う。
「へえ、あれが」と、僕は感嘆の声を上げた。
ホトトギスという鳥の名前は、もちろん僕も知っている。いろいろな歌に詠まれているし、確かそう、正岡子規らが関わる有名な俳句雑誌の名もホトトギスだったように思う。
歩く速度はゆっくりと、急がず、他愛のない言葉を交わしながら、僕たちは神楽笹の待つ釣り場へ向かった。
「どれくらい登るんだ?」
山と村とをつなぐ橋を渡り切ったところで、沙紀が言った。
日傘をたたみ、恨めしそうに空を仰ぐ。汗をかき、眉をひそめたその顔には明らかな疲労の色が見て取れた。
「少し休む?」
僕が聞くと、
「大丈夫」
と、沙紀は顔をほころばせた。
沙紀の様子を、僕は新鮮な心地で見た。
何といっても、昨日は神楽笹の釣行に付き合っていたのだ。酷暑の中を動き回っても、ほとんど疲れを見せない。日に焼けるのもいとわず、むしろ隠さず嬉々として炎天下に肌をさらす。僕の疲れた様子を見ると、呆れたようにそれを揶揄する。そんな神楽笹を見ることに慣らされていた僕にとっては、沙紀の様子は新鮮で、とても愛らしく思えた。
「沙紀はかわいいな」
僕は思わず声に出す。
「ん?」と、沙紀が不思議そうにこちらを見た。
僕は軽く咳払いをしてごまかし、これから行く渓流への登り口に目をやった。
「もう少しだな。ここから二、三分も行けば釣り場だ」
「二、三分か。もう一息だな」
沙紀はほっとした表情を浮かべ、手の甲で額の汗をぬぐった。
釣り場へ登る山道はアスファルトによる舗装がされていない。道幅は狭く、人二人が並んで歩ける程度である。渓流に沿って作られており、片側は山肌である。この道をずっと行けば山の山頂に至る。
僕が少し先を歩き、沙紀がすぐ後ろを付いてくる。
沙紀は日傘をたたみ、山肌の点々と湧き出ている石清水をタオルに取って、首筋にあてながら歩いていた。頭上を雑木が覆っているため直接あたる日は薄い。川風も吹く。アスファルトの道路とは桁違いに涼しく、僕の汗もすぐに引いた。
「ムニエルとさつま汁、どっちがいい?」
不意に沙紀が聞いた。
「今日の夕飯、どっちにしようかずっと迷ってるんだ。五十センチもあるニジマスだろ。シンプルにムニエルもいいが、川魚のさつま汁もなかなかおつだと思うんだ」
「ふむ」と、僕は少し考える。
ちなみに、さつま汁はこの地方の郷土料理である。焼いてほぐした魚の身と炙った麦みそをすり鉢ですり、骨で取った出汁でのばす。そこにネギやゴマなどの薬味を入れ冷やし、麦ごはんにかけて食べる。
「僕としてはさつま汁を推したいところだけど、神楽笹の意見も聞かなきゃな」
何と言っても、釣るのは神楽笹である。主役の意見なしに、僕一人で魚の調理法を決めるわけにはいかない。
「そうだな」と、沙紀も納得したように言った。
川の流れが激しくなってきた。水音も大きくなり、沙紀の声も聞き取り難くなる。振り返ると、沙紀は少し怖がるように、二メートルほど下を流れる激流を見ていた。
「あとちょっとだよ」
僕は少し大きな声で言った。沙紀は、はっとした様子で僕を見て、不安そうな表情のまま軽く返事をした。
歩くペースを落として、僕と沙紀は山道を登る。
少し行くと開けた場所に出て、すぐ近くに大きな岩が見えた。そしてその上に人影が見える。じっと川の流れに目をやって動かず、長い髪の先端付近だけが、川風に吹かれて揺らめきながら遊んでいる。
神楽笹は、昨日と全く同じ場所に立っていた。
「神楽笹」と、僕は岩の上の人影――神楽笹に向かって叫ぶ。
神楽笹はちらりとこちらに視線をやって、ぐっと大きく伸びをした。
「やっと着いたか」と、安心したように沙紀が言った。
しかし次の瞬間、その表情はまた凍りつく。
神楽笹が岩の上から跳躍したのだ。岩と僕たちのいる場所の間には溝があり、落ちれば激流に飲み込まれる。しかし、そんなことは意に介さずに神楽笹は跳び、まるで猫のような軽やかさで僕たちのいる開けた山道へ降り立った。
「待ちくたびれましたよ、お二人とも」
神楽笹が言った。その声はいかにも快活で、今まさに犯した危険などは意に介さず、余裕綽々といった具合である。
対照的なのは沙紀の表情。
「燕。おまえ、よくそんな恐ろしいことができるな」
非難めいた口調で言った沙紀の顔は引きつっており、恐怖と怒りが入り混じっている。顔色は青白く、息は少し荒かった。ついでに言うと、僕も沙紀と似たような心境だったが、昨日のこともあるので、そこまで驚かなかった。
きっと神楽笹にとって、この程度の跳躍は、道端の水溜りを飛び越える事と大差ないのであろう。沙紀の言葉を受け、
「うにゃ?」
神楽笹は、なぜ非難されたのか本気で分からない様子で首を傾げる。
「ま、無事ならいいか……でも、あまり無茶をするなよ」
言いながら、沙紀は大きくため息をついた。そして、手に持っていた日傘を足元に置き、激流に視線を移す。
「昨日はここで釣ったのか?」
沙紀が聞くと、神楽笹は嬉しそうに首肯した。そして神楽笹も激流に目をやる。
「手ごわい相手ですよ」
真剣な声で、神楽笹が言った。
「もしかすると、お二人が来るまでに釣り上げられるかもって思ってたのですが、甘すぎましたね。完全に警戒してる。昨日と同じ方法では、全く釣れる気配はないですね」
「例の仕掛けの準備は終わったのか?」
僕が聞くと、
「もちろん、抜かりなく」
神楽笹は得意そうに返事をした。そして、
「では、早速始めましょうか」
言うが早いか、先ほど立っていた大きな岩の隣にある、少し小さな岩に向けて跳躍した。 今日は、あの場所から狙うらしい。沙紀はまた顔をひきつらせたが、今度は何も言わず、無事岩に降り立った神楽笹を見て、安堵の表情を浮かべた。
「あ、そうだ」
沙紀が思い出したように声を上げた。そして、豪快に響く水音に負けないように声を張り上げて、
「今日の夕食、ムニエルとさつま汁、どっちがいい!」
神楽笹に尋ねた。
「両方!」
振り返らないまま、間髪入れずに神楽笹が大声で答える。
「聞くまでもなかったな」
沙紀は苦笑しながら僕を見た。
お読みくださり、ありがとうございます。
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