その④
沙紀は僕の声に弾かれるように僕を見る。不意なことで驚いたのだろう。返事はなかったが、きょとんとした表情を浮かべている。
部屋に入る月の光は頼りなく、それに照らされる沙紀の姿もぼんやりとしていて、あるいは虚ろで、どことなく幻想的で現実味がないように思えた。
網戸から入る微風が、濃緑に色づく夏草の香りを乗せてくる。暗がりの部屋に鳴る虫の声は忙しい。そして、それに負けないほど、僕の鼓動は早く激しく打っていた。
僕は沙紀に歩み寄る。緊張はしていたが、もちろん迷いはなかった。
「どうした、間広?」
沙紀が言った。僕は窓のすぐそばで歩みを止めた。手を伸ばせば沙紀の体に触れられる距離である。
僕は男にすれば背が低いほうである。対して沙紀は女性にしては少し背が高い。相対すれば、僕のほうが僅かに大きいが、ほとんど目線が同じ高さに来る。
僕は沙紀のほうに体を向ける。沙紀も体を僕に向け、僕の顔を見た。微かな不安と緊張が見て取れる。
思えばそう、こんなにも近くで沙紀の顔を見たことは初めてのように思う。いや、沙紀だけでない、僕は今まで、こんなにも真剣に人の顔を見つめたことはない。
嬉しかった。もちろん僕にも不安や緊張はあったが、それ以上に興奮と歓喜が僕の気持ちを高ぶらせた。きっと相手が沙紀以外であれば、こんな気持ちは抱かないだろう。
僕は沙紀が好きなんだ。
ひどく今更な話だが、僕はそれを再確認した。そして、
「沙紀」と、僕はもう一度、沙紀の名前を呼んだ。
「僕は君が好きだ」
感情のまま僕は言った。何も考えることはなかった。それはきっと僕の人生の中で、最も純粋で偽りのない言葉だった。
沙紀の表情は硬かった。少しうつむき目を細め、口を閉じ、耐えているかのようにギュッと手を握っている。
風が吹き込み、沙紀の髪を揺らす。
「私も」と、沙紀が声を漏らした。
ほんの僅かな沈黙が、僕と沙紀の間を流れた。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。クイナだろうかヨダカだろうか、鳥に詳しくない僕には分からないが、それはやけに切なげに部屋に響いた。
沙紀が顔を上げ、僕を見た。そしてふっと顔を緩め、
「私も間広が好きだ」
笑顔で言った。
その言葉を聞いた瞬間、僕は全身の毛が逆立つほど興奮し、有頂天になった。嬉しさで泣きそうにもなった。今すぐにでも沙紀の体を抱き寄せたい衝動に襲われたのだが、それをしなかったのは、
「でも」と、沙紀が言葉を続けたからである。
「でも、どうしよう……どうしよう……私、燕も大事なんだ……」
言うごとに、沙紀の瞳が潤んでくる。
「私、間広のことが好き……でも、きっと燕も同じで……私、燕のこと裏切れない」
そして瞬きをしたとき、涙が一粒、沙紀の目からこぼれた。するとせきを切ったように沙紀は泣き始めた。消え入りそうな嗚咽を漏らし、辛そうに顔をしかめ、ぽろぽろと涙を流している。
よもや本当に神楽笹は僕のことが好きなのでは、と、僕に思わせるほど、沙紀は本気で思い違い、そして真剣に思い悩んでいるようだった。
この誤解を解くには、一番は、神楽笹自身がネタばらしをしてくれるのが良いのだが、この状況でそれは望むべくもない。
ネタばらしは、どうやら僕がするしかないようだ。きっと沙紀は怒るだろうが、もとはと言えば僕が悪いのだ。僕が告白に二の足を踏んでさえいなければ、沙紀にも神楽笹にも、こんな思いをさせることはなかった。
「今日、神楽笹に怒られたんだ」
僕は言った。顔を伏せて泣いていた沙紀は、
「うん?」
と、涙をためた目を僕に向ける。
「燕が怒るのは珍しいな。なんて怒られたんだ」
無理に笑顔を作り、沙紀が僕に聞いた。
「僕にしても、沙紀にしても」と、僕は、昼間の神楽笹の言葉を思い出しながら答える。
「自分の気持ちにもっと正直にならないと、ずっとすれ違ったままですよ。だってさ」
沙紀はそれを聞き、眉を寄せた。言葉の意味を読み取れず、迷っているような表情である。僕は言葉を続ける。
「離れるまでは自分でも分からなかったけど、僕は中学生の時からずっと沙紀のことが好きだった。沙紀はどう?」
突然の問いに、沙紀は驚いたように目を開いた。そして、
「私も」
少し恥ずかしそうに続ける。
「うん、中学生の時から好きだった。あの頃は気づかなかったけど、今になって思うと、きっと好きだったんだと思う……でも、どうしてそんなこと」
と、沙紀が言ったところで、僕は沙紀の両肩にそっと手を伸ばした。恥らいながら言う沙紀を見ると、僕は堪らなくなっていた。抱き寄せようとすると沙紀は少しためらったが、すぐに体を僕に預けてくれた。
僕も少し恥ずかしかったが、部屋の中には僕と沙紀しかいない。誰にはばかることもないし、それよりも、僅かな恥じらいくらいでは、この感情を抑えることは不可能なように思えた。
「神楽笹は中学生の頃から気が付いてたよ。僕と沙紀が両想いだってことに」
沙紀を抱きしめたまま、僕は言った。
「え?」と、沙紀が声を漏らす。
「南上村に来て、僕らのことをいろいろ考えてくれてたらしい。僕と沙紀を二人っきりにしてくれたり、雰囲気を作ってくれたり。でも、それでも僕が告白しないから、内心イライラしてたんだと思う」
「でも、私の前ではそんなこと一言も言わなかったぞ。それどころか、あんな思わせぶりな」
そこで何かに気付いたように、不意に神楽笹は言葉を切った。
「もしかして私、釣られたのか?」
声を震わせて沙紀が言った。そして乱暴に僕を付き離し、赤く充血した目で僕を睨む。
「燕は私がジェラシーを感じるように、わざとあんな態度を取ってたのか?」
「た、たぶん。燕が具体的に何をしているのかは知らなかったけど、なんとなく仄めかすような、それらしいことは言ってたし」
「酷い!」と、沙紀は声を上げた。
「私、辛かったぞ。疑って、嫉妬して、自分のことも燕のことも嫌いになりそうで……すごく、辛かったんだぞ」
「ごめん」
怒りでまた泣きそうになっている沙紀の目を見て、僕の胸は締め付けられた。
「僕のせいだ。僕がいつまでも迷っててかりで告白できなかったから。神楽笹にも気を使わせて、沙紀にも辛い思いをさせて……」
沙紀はしばらく息を荒げていたが、やがて一つ、大きく息を吐いた。そして、窓の外に目をやる。ちょうど月がよく見える位置にあり、沙紀はそれをじっと眺めた。
「いや、私も悪かったのかな」
落ち着いた様子で、沙紀が言う。
「燕のやつ、きっと私に対しても怒ってたんだな。私だって自分の気持ちに気付いてたはずなのに、意気地がなかった。気持ちを伝えても拒否されるんじゃないかって怖がって、結局、間広に気持ちを伝えられないでいた」
沙紀の目にはまだ涙が見えた。でも表情は落ち着いていて、微かに笑みすら湛えている。
「燕流の荒療治だったのかな」
沙紀は言った。穏やかだった。さらさらと、夏草が風に揺らされる音が聞こえる。青白い月の光に照らし出される沙紀の姿は幻想的ではあるが、先ほど感じたように虚ろではなかった。微笑むまま僕の目を見すえ、沙紀はしっかりとここにいた。
「ごめんね、少しびっくりしたから」
そして、沙紀は両手を僕に伸ばす。
「こっちこそ、ごめん」
僕は、沙紀を抱き寄せた。沙紀もまた、両手を僕の背中に回す。沙紀の呼吸と体温が感じ取れた。僕の心臓は高鳴っていたが、しかしやはり穏やかで、いつまでもこうしていたい気持ちになった。
「燕にお礼を言わなきゃな」
囁くように沙紀が言った。
「うん」
と、僕もまた囁くように答えた。そして、
「でも、神楽笹が帰って来るまで、まだ少し時間がある」
少し上ずったような声で続ける。
「ふっ」と、沙紀が小さく笑った。
「少し恋人らしいことしたい?」
「したい」
沙紀が言って、僕が即答する。
そして――。
「おめでとうございます!」
いやに元気のよい声が部屋中に響いた。そして間髪入れずガラッ軽快な音と共に網戸が開け放たれて、にまにまと満面な笑みを顔に張り付けた神楽笹が、外から上半身を差し入れた。
僕は凍りつく。沙紀も凍りつく。抱き合ったまま、僕と沙紀は呆気にとられ、氷像と化す。そんな僕らを横目でうかがい、いかにも得意そうに、
「愛の告白は無事完遂されたようで、よかったよかった」
神楽笹が続けた。
「お気づきでないかもしれませんが、実は私もいろいろと気を使っていたのですよ。いや、苦労した甲斐がありましたねぇ。で、二人とも、いつまでそうしているつもりです?」
僕と沙紀は慌てて体を離す。
落ち着け。
落ち着け。
状況を整理しよう。
神楽笹が出て行って、僕と沙紀は二人っきりになった。
僕は沙紀に、愛の告白をした。
少し誤解もあったが、僕と沙紀は晴れて恋人同士になった。ちょっといい雰囲気になったところで、突然、神楽笹が窓から飛び込んできた。
「神楽笹!」
僕は声を荒げる。
「お前、そこで何やってんだ!」
「のぞきですが?」
「サラッと言うな!」と、僕は声を震わせて叫ぶ。
「大体お前、釣りの仕掛けを作ってるんじゃなかったのか! それが何でのぞきなんだよ!」
「作りましたよ。でも二十分で終わってしまって、暇になってぶらぶらと庭をさまよってたところ、部屋の電気が消えているのを発見しまして。これはまさか破廉恥な展開になってるんじゃないかと部屋をのぞいたところ、まさにこの状況だったわけです」
「破廉恥とかいうなよ……」と、沙紀が片手で顔を覆い隠し、うつむいたまま呟いた。
「まあ恋人同士なわけですから、エロい事をするのはいいですが」
「エロいとか言うなよ……」
沙紀の声は泣きそうだった。しかし神楽笹は、全く意に介さない様子で続ける。
「しかしそういうことは、これ以後も私のいないところでこっそりとやってくださいね。うっかり親友同士の濡れ場に遭遇しちゃったら、軽いトラウマものですよ」
「もういいよ……」
沙紀はあきらめた様子で呟き、とぼとぼと部屋の中央まで歩く。そして電気の紐を引き、パチッと部屋の明かりをつけた。
「では、改めて玄関から入ってきます」
そういって神楽笹は体を外に引っ込める。そして網戸を閉め、がさがさと草をかき分けながら、窓を離れて行った。
沙紀は大きなため息をついた。僕もつられて、大きなため息をつく。
「続きはまた今度、か」
「だな」
僕と沙紀はお互いの顔を見合わせて、そしてまた大きくため息をついた。
「スイカ切ってくる」
「僕も手伝おうか?」
「大丈夫。燕と一緒に待ってて」
言って沙紀は、やや重たい足取りで台所に下りて行った。入れ替わるように玄関の戸が開いた。そして軽い足取りで、神楽笹が居間に上がってきた。
「あれ、沙紀さんは?」
「スイカ切って来るって」
「いいですねぇ。スイカ大好きですよ」と、神楽笹は嬉しそうに両手をすり合わせた。畳の上にどっかと胡坐を組んで座り、また嬉しそうな表情のまま僕の顔を覗き込む。
「告白はうまくいったみたいですね」
なぜか小声で神楽笹が言った。
「ああ、おかげさまで」
「どちらが最初に告白したのですか?」
「僕だ」
「へぇ」と、神楽笹は意外そうな顔をした。
「なんでそこで驚くんだよ」
僕はちょっとムッとして言った。「ああ、ごめんなさい」と謝り、神楽笹は軽く頬をポリポリと掻いた。
「実は私、沙紀さんに対して少しえげつないことをしていましたからね。私がいなくなったらすぐにでも間広君に気持ちを伝えるだろうなって思ってたんですよ」
ばつが悪そうな風に神楽笹が言う。
「気を使わせて、すまなかったな」と、沙紀の声がした。ふと見れば、半月状に切ったスイカを三つ乗せた皿を持ち、沙紀が土間まで来ていた。僕は立ち上がり、沙紀のもとへ歩く。
「持つよ」と、僕が手を伸ばすと、
「ん、ありがと」
沙紀は皿を僕に渡し、靴を脱いで居間に上がった。
「でも、少しやりすぎだ」
気まずそうに眼をそむける神楽笹の前に座り、沙紀は静かに言った。
「自分のことも、燕のことも嫌いになりかけてんだぞ。私、ちゃんとするから、もうあんな気の使い方はやめてほしい」
「ご、ごめんなさい」
胡坐をかいたまま、神楽笹は深くこうべを垂れた。僕はそれを横目に見ながら、二人の間の畳の上にスイカを乗せた皿を置いた。
「食べようか」と、僕が言う。
「うん」
沙紀が少し小さめのスイカを取って一口齧る。おずおずと顔を上げた神楽笹は、
「では私も」と、遠慮がちな声を上げ、しかし、中でも一番大きなスイカを取って、大きな口でかぶりついた。僕も後に続いて残りのスイカを取り、齧る。
「まあ、色恋沙汰は置いといて」
沙紀が言った。
「明日の釣りの仕掛けはうまく出来たのか?」
「もちろんですよっ」
口いっぱいに頬張ったスイカを飲み下し、ぱっと明るい表情を湛えて神楽笹が答える。
「明日はきっと、面白いものが見れますよ」
「普通の仕掛けとは違う?」
スイカを食べながら、僕は神楽笹に問いかけた。
「ええ、かなり違います。少々トリッキーな仕掛けですので、私自身うまくいくかどうかわからないのですが、きっと大丈夫でしょう」
「それは楽しみだな。期待してるぞ」
沙紀もスイカを食べながら、楽しそうに言った。
「うんうん、期待していてください。なにせ、私だけフラれっぱなしってのは嫌ですからねぇ。明日は見事大物を釣り上げて、お二人をあっと言わせて差し上げますよ」
得意げな顔を浮かべて、神楽笹は、また大口でスイカに齧り付いた。そして種も一緒に飲み下し、恍惚の表情を浮かべる。
穏やかな風が網戸から吹き込んで、僕らの頭を触って行った。
かくして僕の告白は、見事成功に終わった。なんとなく僕自身が一番苦労をしていない気がするが、特に気にしないことにする。
にぎやかな虫の声が部屋に響いている。夜も更けてきたというのに、名前の分からない鳥が元気よく鳴いて、山村の夜のしじまに、自己の存在を高らかに主張していた。
お読みくださり、ありがとうございます。
告白の話はここまでとなります。
次話かその次の話が最終話となります。釣りの話です。
では、次回も宜しくお願い致します。