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その③

 先につまみ食いしているくせに、がつがつと、神楽笹は目の前の魚をすぐに平らげた。爽快な食べっぷりだが、味わっているかどうかは疑問に思える。


「相変わらずの食欲だな」と、半ば呆れ、しかし、楽しそうに沙紀が言った。


「腹が減っては戦は出来ぬと言いますからね」


 箸を休めることなく、神楽笹が言った。キュウリの浅漬けをひょいひょいと口に運び、ご飯を食べ、味噌汁をすする。品のない食べ方である。せっかく沙紀が丹精込めて焼き上げた魚だというのに、このように流し込むように食べられては、甲斐がないように思う。


「もう少し落ち着いて食べろよ」と、僕は神楽笹に言った。


 神楽笹は箸を止め、いかにも呆れたように息をつく。


「間広君は食べなさすぎですよ。男なんだからもっと食べて体力つけて、私のペースにちゃんとついてきてもらわないと困りますよ」


 言うが早いか、神楽笹は僕の皿を取り上げた。そして、ひょいひょいと魚を乗せる。僕の食べかけの魚と新たに追加された魚が合計三匹横たわる皿は、

「さあ食えっ」と、妙に楽しそうな神楽笹の声とともに、僕の目の前にどん、と置かれた。


「お前なぁ……」


 あまりに横暴な神楽笹の振る舞いに、僕は声を震わせる。ここは何かきつい言葉の一つでも浴びせてやらねばなるまい。そう思い口を開こうとした、その時、くすくす、と沙紀の含み笑いの声が聞こえた。


「相変わらずだな、二人とも」


 沙紀が言った。


「ちょっとうらやましいな」 


 沙紀の表情は穏やかで、笑みさえ浮かべている。しかし目はどこか遠くを見ているようで、今の言葉から得た印象もあり「自分だけ心が離れてしまった」と沙紀がそう思っているのかもしれない、と僕は感じた。

 神楽笹も同じように感じたのだろう。ふむ、と、声を漏らし、視線を机に滑らせて、こめかみあたりを指で掻いた。


「明日は私も一緒に釣りに行ってもいいか? 師匠に特別に許しを貰って、明日は朝から一日休みになったんだ」


 ぱっと明るい声で沙紀が言った。


「もちろんですよ。では、明日も朝から釣りに行きましょう」


 神楽笹もまた、明るい声で言った。そして手ぶりを交えて続ける。


「実は今日ですね、凄まじい大物と出会ったのです。一度針にかかったのですが、すんでのところで逃げられてしまいました。明日はそのリベンジをする予定なのです」


「へぇ」と、沙紀は驚いた様子で声を上げた。


「今日釣れてたアマゴだって大物だぞ。これよりもずっと大きいのか」


「四十センチくらいはあるな」と、僕は横から、大げさに手を広げた。アマゴで四十センチなど、ありえない数字だということは分かっている。冗談のつもりで表現したのだが、神楽笹はまじめな様子で、


「失敬な。五十センチ超えですよ」と言った。さすがに嘘だと思った。しかしそれを聞いた沙紀は、何かを悟った様子で軽く頷き、


「もしかして、ニジマスか?」と問う。


 すると、やや驚いた様子で、


「さすが沙紀さん、分かりましたか」


 神楽笹が言った。


「釣っている最中、ちらりと魚体が見えたのですよ。水の反射で少し見えにくかったですが、あれはニジマスですね。間違いないでしょう」


「最近、増えているんだ」


 沙紀は、やれやれといった具合に息をついた。


「もう少し上流に小さな池があってな。そこに誰かが勝手に放流するらしい」

「闇放流というやつですね」


 いつにもなく真剣な様子で神楽笹が続ける。


「外来種の身勝手な放流はそこにいる在来種の存在を脅かします。外来種が在来種を捕食することもありますし、その卵や稚魚を食べることもある。生息域が重なるため餌や産卵場所の奪い合い等、競争も発生します。また、在来種と外来種が交配してハイブリッドができるのであれば、元ある個体群の遺伝子構成が失われる危険性もある。遺伝子汚染というやつです。悲しいことに、闇放流を行うのは釣り人であることも多い。自然に接することの多い釣り人であるからこそ、こういった問題には人一倍敏感であるべきなのに……」


 ここまでほとんど一息で言って、はっとした様子で、神楽笹は僕と沙紀の顔を見た。そしてばつが悪そうに苦笑すると、ぽりぽりと頭を掻く。


「この話はここまでにして。ともあれ、明日の勝負、相手が闇放流で放たれたニジマスだというのであれば、逃すわけには行きませんね。恨みはありませんが、見事釣り上げて、私の胃袋に収まってもらうことにしましょう」


 そして、神楽笹はぐっと両腕を上げて伸びをした。


「さて、では私は外で明日の釣りの仕掛けを作ります。少し集中して作りますから、時間は一時間くらいかかると思います」

「今からか?」


 沙紀が驚いたように声を上げる。


「もう外は暗いぞ。明日じゃだめなのか?」


「明日は朝から釣りたいですからね。今日のうちに作っておきたいのです」


「じゃあ、何か手伝おう」と、沙紀は立ち上がろうとする。しかし神楽笹は、頑なにそれを拒否した。


「実は明日の仕掛け、少々奇抜な物となるのです。ほら、沙紀さんも一緒に行くのなら、少し驚かせたいというか……ネタバレはしたくないのです」


「そうか」


 沙紀は、残念そうに声を漏らした。

 神楽笹の突然の行動に、僕はしかし、驚かなかった。昼の会話があったからである。「今夜こそ沙紀さんに告白してくださいね」と、あの時、神楽笹は言った。つまり神楽笹は、僕に告白をさせるために、僕と沙紀を二人っきりにするつもりなのだ。


 僕は心臓が高鳴るのを感じた。


「玄関の近くで作業してますね。何かあったら呼んでください。では」


 早口で言って、神楽笹は風のように素早く外に出た。


 しんとした静寂が一瞬部屋を包み、僕はごくりと息をのむ。沙紀はポカンとした様子で玄関を見ていたのだが、すぐにこちらを振り返り、


「燕らしいな」


 そう言って笑った。


「そうだな」と僕も返す。


 そしてまた、静寂。

 どう切り出せばいいんだろう、と僕は思う。単刀直入に好きだと伝えればいいのだと、すぐに僕は答えを出す。でも静寂は意地悪で、時間は異常にゆっくりと流れていて、普段は回らぬ僕の頭が、こういうときに限ってよく回る。何をすべきが、僕はすでに知っているはずなのに。僕は沙紀が好きだ。告白をするべきだ。でも、でも、と、僕の頭の中を、ぐるぐると意気地の無い思考が巡る。


 虫の声だけが部屋の中に響いていた。


「蛍……」


 ふと沙紀が言った。その調子はいかにもはかなげで、僕は少し驚きながらも、


「蛍?」


 と、声を返す。


「うん、蛍。外にいる」


 言いながら沙紀は立ち上がり、ゆっくりと窓に向かう。からからと網戸を引いて、外に向かって手を伸ばす。そして庭にあるイチジクの葉を一枚採って、そしてまたからからと戸を閉めた。


「電気消して」


 沙紀が言って、軽く天井を指さす。僕は言われるがまま立ち上がり、蛍光灯の紐を引いて電気を消した。暗がりが部屋を包む。窓から穏やかな月の光が差し込んだ。


 沙紀がイチジクの葉を裏返す。


「あっ」と、僕は声を漏らした。


 黄色い光が一瞬見えてすぐ消えた。そしてまた光り、消える。同じ周期で繰り返される。蛍が一匹、そこにいた。


「すごい。全然気づかなかった。よく分かったな、沙紀」


「うん」


 そして沙紀は、少し顔を伏せた。頼りない月の光の下ではよく見えないが、どことなく物憂げな表情を浮かべているようにも思えた。


「ここにきて、もう半年経つからな」


 言いながら、沙紀は蛍を指に乗せる。網戸を少し開けて手を伸ばし、指先に乗せた蛍をイチジクの木に戻す。


「人に対しても、自然に対しても、物に対しても、自分自身に対しても……真剣に見たり、聞いたり、感じたりしようとしないと、ここでは何にも分からない。ここに来て半年。窓の外の蛍の光を見逃さない程度には鍛えられたよ」


 沙紀は網戸を閉め、そのまま外の暗がりを眺める。


「真剣になるって楽しい。それに、真剣にものを考えるようになって、私は少し成長できたとも思う。でも……辛いこともある」


 沙紀の声は、ひどく切なかった。


「沙紀?」


 僕は小さく沙紀の名前を呼ぶ。顔が見たかった。沙紀の表情が知りたかった。しかし沙紀は振り返らない。泣いているのかもしれないと思った。


「ねえ、間広」


 沙紀が言った。そして、ほんの少し間を開けて、


「間広は燕と付き合ってるの?」


 小さな声で僕に聞いた。あまりにそれは突然で、思いもよらぬことだった。僕は大いに狼狽し、


「ないない!」


 場の雰囲気にそぐわない、大きくうろたえた声で否定する。


「僕とあいつはただの悪友同士ってだけで、恋愛対象として考えたことなんてないよ! それはきっとあいつもそうだと思うし、そもそもあいつの頭の中は釣りのことでいっぱいで、恋愛のことなんて興味ないよ、絶対!」


「でも燕は」


 まくし立てるような僕の言葉が終わるのを待って、少し間を開けて、沙紀が言う。


「きっと、間広のことが好きだよ」


「え?」


「間広と話しをしているときの燕の顔を見ていたら、分かる。それに、私と二人の時にも間広のことをよく話す。それがとても楽しそうで、嬉しそうで……燕の気持ちに、昔は気が付かなかったのに、今はすごく分かる。それはきっと、燕の気持ちや私自身の気持ちを真剣に考え始めたからで……理解し始めたからで……」


 沙紀の声は、だんだんと小さくなっていった。

 僕は沈黙する。


 沙紀の言葉を聞きながら、僕は神楽笹の言葉を思い出した。


 そういう事か、と思う。      


「撒き餌はすでに打ちました」と、確か神楽笹は言った。

「細工も抜かりありません」とも言った。

「釣り師の私がここまでお膳立てしてあげたのですから、今夜こそ、沙紀さんに告白してくださいね」と、楽しそうに弾んだ声で、確かに言った。


 何が撒き餌だ。何が細工だ。

 僕は歯噛みする。


「中学生の頃からずっと、沙紀さんも間広君のことが好きでしたよ」と、神楽笹は言った。


 それを知っていながら、あえて神楽笹は、こんな仕打ちを沙紀に仕掛けた。

 僕と神楽笹が悪友同士であるように、神楽笹と沙紀は気心の知れた親友同士なのだ。


 沙紀はもちろん、きっと神楽笹も……辛かったに違いない。


「僕はそんなに頼りなかったか?」と、ここにいない神楽笹に向けて、僕は心の中で文句を言った。


 暗がりの中、僕は沙紀を見る。沙紀はうつむいて、じっと黙っていた。僕は大きく息を吸う。もう迷いはない。迷ってはいけない。

 息を吐き、そしてもう一度大きく息を吸い込んでから、


「沙紀っ」


 この部屋を包む重たい静寂を破る為に、少し大きな声で沙紀の名前を呼んだ。

お読みくださり、ありがとうございました。


もう少しだけ告白の話が続きます。

次回も、どうぞよろしくお願いいたします。

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