その②
自分で読み返してみて、登場人物の名前が読み難いことに気づきました。
それぞれの読み方は、
錦木間広:にしきぎ まひろ
神楽笹燕:かぐらざさ つばめ
葵沙紀 :あおい さき
となります。
宜しくお願いします。
魚の鮮度を気にしてか、歩くペースは速かった。
置いて行かれないよう、僕も早足でついていく。
この場所から五百メートルほど下ると小さな橋があり、渡ると村の集落に出る。名前を南上村と言い、人口わずか数百人ほどの小さな村である。ちなみに先ほどの谷川は、より大きな川と合流して南上川と名を変える。
七月十八日。
高校の夏休みを利用して、僕と神楽笹は南上村に来た。もちろん二人きりで、ではなく、共通の友人である葵沙紀を訪ねて、彼女が住む古民家に遊びに来たのだ。
「ところで」と、不意に神楽笹が声を上げたのは、山から村へ渡る橋を越えてすぐのことだった。
アスファルトがじりじりと焼けている。湿り気を帯びた山の土とは、やはり違う。熱を存分に蓄えた道路は、足元から僕を焼き尽くそうと企んでいる。もうすぐ夕方だというのに、日はいよいよ強く、蝉の声は耳をつんざくようにうるさかった。
「なんだよ」
僕は、くたびれた声で返事をする。
先を行く神楽笹が振り返る。そして足を止め、あきれたように息をついた。
熱いのは同じのようで、神楽笹の額にも、玉のような大粒の汗が浮かんでいる。しかし、疲れを見せない顔の日に焼けた肌には、いかにもそれが健やかで、神楽笹の頑強さを際立たせている。対して僕は、自分の体の薄弱さを改めて自覚した。
「少し歩くペースが速かったですか……情けないですねぇ、間広君は」
神楽笹が言った。僕は言い返そうとしたが、呼吸が整わないので止めた。熱にうだる頭では、良い文句も思い浮かばなかった。
神楽笹は魚籠の中を覗き込み、二回揺さぶって中の魚の様子を確かめた。そして、
「魚も弱ってきましたね。少し休憩しましょうか」
そう言って、足早に川に向かった。僕はしばらくそれを眺め、息を整え、神楽笹が魚籠を水に浸けたのを確認してから後を追う。
神楽笹は座って魚籠の中をじっと見ていた。
僕が追いつくと、神楽笹は、ちらりとこちらに視線をやって、
「もう沙紀さんには、告白したのですか?」
こともなげな様子で僕に問いかけた。虚を突かれ、僕は一瞬声を失う。それを見て、神楽笹は意地悪そうな微笑を僕に向けた。
僕は調子を整え「まだだよ」と、一言、言葉を返す。
「でしょうね」
言いながら神楽笹は、声を含ませて笑った。
「釣りに付き合ってもらってこんなことを言うのもなんですが、間広君は、本当に沙紀さんに告白する気があるのですか?」
「もちろん」
少し溜めて、
「あるっ」
僕は力強く答えた。
「本当に?」
神楽笹が僕の顔を覗き込む。
「私も私なりに気を使っているのです。南上村に遊びに来てから、間広君と沙紀さんを二人っきりにしてあげたり、ちょっといい雰囲気を作ってあげたりしているのですが、どうしてまだ告白できていないのですかね?」
言葉が進むにつれて、神楽笹の僕を見る目が蔑みの色を帯びてきた。僕はたまらず目をそらす。
告白する気がある、という言葉に嘘はない。僕がこの南上村に来た目的は、まさにそれなのだ。
中学まで一緒だった沙紀と高校になって離れ離れになった。するとすぐに、僕は自分の、沙紀に対する気持ちに気が付いた。目ざとい神楽笹などは中学の頃からそれに気が付き、よくからかってきて、僕は否定していたのだが、今ではひどく後悔している。
僕は沙紀が好きだ。
恋、というやつである。
「断られるのが怖いのです?」
神楽笹が言った。
「違う」
僕は答える。
「断られることは怖くない。それは覚悟してる。そうじゃなくて……」
僕は、考えをまとめるために言葉を止めた。
沙紀は高校に進学しなかった。中学を卒業してすぐにこの村に工房を構える陶芸家の弟子になった。尋常ならざる決意である。もちろん迷いもあっただろうが、それを振り切り過酷な道を選んだ理由に、一つは才能があったし、一つは両親の良い理解があった。そして何より、沙紀自身の強い情熱があった。
「沙紀の気持ちを乱したくないと言うか、邪魔をしたくないと言うか……真剣に修行してるあいつの姿を見ると、どうしても尻込みするんだよ。僕の勝手な思いを押し付けて、受け入れられるにしろ、断られるにしろ、沙紀が本気で選んだ人生に水を差すようなことだけはしたくないから」
神楽笹は僕の言葉を黙って聞いて、話が終わると、ゆっくりと立ち上がった。そして川に向かって腕を伸ばした。
「だから間広君は、釣りが下手なのですよ」
「は?」と、僕は頓狂な声を漏らす。突然発せられた神楽笹の言葉の意図を、僕は理解できなかった。
「釣りと恋と、何の関係があるんだよ」
僕が言うと、神楽笹は、じっと川の流れに目をやり、
「大ありですよ」と言った。
「大物を釣り上げるために、最も大切なことはなんだと思います?」
そしてまた、この問いである。僕は半ば呆れて、ふと思いつくまま、
「いい餌を選ぶこと」
と答えた。
「それも大事です。しかし一番ではない。たとえ餌が悪かろうと、最も大事なことを理解し、実行できていれば大物は釣り上げられます」
神楽笹は、川に向かって伸ばした手を振りかぶり、滑らかに、まるで竿を手に持ち仕掛けを川に打ち込むかのように振り下ろす。
「それは、読み切ることです」
凛とした声で、神楽笹が言った。
「釣り人は準備を怠りません。釣りに行く何日も前から天気を見て、気温を見て、水温を見て、あるいは海なら潮見表を確認して、状況を読む準備をします。釣り場に着くと、今度はそこで地形を読み、風を読み、潮の流れを読み、準備してきた事柄と合わせて状況を読み……そして、魚の気持ちをも読む」
ここまで言って、神楽笹はこちらを振り向き、ぴんと人差し指を立てた。
「ここ、大事ですよ」
そして得意げに続ける。
「釣りとは心理戦でもあるのです。こと大物となれば一筋縄ではいきません。相手の心を読み、行動を予測し、理解し、必要であれば撒き餌などを打つ。そして絶好のタイミングで仕掛けを打ち込む……そうすれば、魚は釣れる」
神楽笹は川の流れを見ている。そしておそらく、その中に泳ぐ魚の姿を見ている。目では見えないが、きっと神楽笹には見ているに違いなかった。
神楽笹の言葉には力があった。それがどうして恋愛に繋がるのかは分からないが、ともかく道を究めた者の自信に溢れた妙な迫力があり、僕は思わず絶句した。
しばし沈黙が流れた。
神楽笹は川から目を話し、足元にある魚籠に視線を向ける。そして、
「中学生の頃からずっと、沙紀さんも間広君のことが好きでしたよ」
唐突に、神楽笹が言った。
「えっ?」と、僕は、また間の抜けた声を上げる。
「やっぱり気が付いていませんでしたか。もどかしくてウズウズするのですよね、間広君と沙紀さんを見ていると。そして同時に心配になる。間広君にしても、沙紀さんにしても、もう少し自分や相手の気持ちに正直にならなければ、ずっとすれ違ったままですよ」
言いながら、神楽笹は魚籠を揺らして中の魚の様子を確認する。魚は大いに暴れた。元気になった魚を満足した顔で見つめ、そのままの表情で僕を見る。そして、
「撒き餌はすでに打ちました。細工も抜かりありません。釣り師の私がここまでお膳立てしてあげたのですから、今夜こそ、沙紀さんに告白してくださいね」
弾んだ声で言った。
僕は困惑した。撒き餌が、細工が、釣り師がどうして恋愛に繋がるのか、さっぱり分からない。しかし、そんな話の中でも理解できたことが二つだけある。
一つは、神楽笹が僕と沙紀の状態を心配しているということ。もう一つは、僕は沙紀に告白するべきなのだということ。
「よし。今夜告白する。絶対する」
僕は自分に言い聞かせるように声を上げた。
神楽笹が、魚の暴れる魚籠を川から引き揚げ、水を切る。
「では、帰りましょうか」
そして、また足早に歩き始めた。日は少し傾きかけ、アブラゼミとヒグラシの声が、山の中からけたたましく鳴り響いていた。
十分ほど、神楽笹のペースに合わせて早足で歩く。すると、天に向かって伸びるかの様な急こう配の坂道が現れる。
「こういう坂を見ると、思いっきり駆け上がりたくなりません?」
そして神楽笹は魚籠を僕に投げて渡し、言葉通り、全速力で坂を五十メートルほど駆け上った。
「化け物め」と、僕はつぶやく。
あの小柄な体に似合わぬ無尽蔵な体力は、どこから湧いて出てくるのだろう。そう思いながら、僕はゆっくりと坂を上った。坂の上を見ると、さすがに疲れたのか、神楽笹は空を仰いで大きく深呼吸を繰り返していた。
坂を上りきると、古民家が見える。この古民家は、沙紀の師事する陶芸家の所有で、沙紀はここに住み込みながら工房に足を運び、昼夜を問わず修行に励んでいる。今は僕たちが遊びに来ているということで、昼過ぎから休みを貰えているらしい。
「沙紀さん、驚きますよ」
魚籠に入った魚を覗き、神楽笹が嬉しそうに言った。そして、勢いよく古民家の引き戸を開ける。家の中には良い香りが漂っていた。奥からトントントンと包丁で野菜を刻む音が聞こえた。
「ただいま!」
快活な声で神楽笹が言った。野菜を刻む音が止まった。
「おかえり」と、声が聞こえた。
「ただいま」と、僕も言うと、同じ口調で「おかえり」と声が返ってきた。
トントントンと、小気味良い音が再開される。音の主である沙紀は、どうやら料理に集中しているようである。
魚籠を持った神楽笹が、土間続きの台所へ向かう。
僕は奥まで行かず、居間に上がり腰を落ち着ける。
台所から「おお」と、沙紀の感嘆する声が響いた。神楽笹が沙紀に釣れた魚を見せたに違いなかった。
僕は、居間のちゃぶ台に置かれていた麦茶を飲み、ほっと一息をつく。朝から夕方近くまで、ずっと神楽笹の釣りに付き合わされていたのだ。体力はすでに尽き、今すぐにでも倒れて眠りたい気持ちになった。
台所は、しばらく賑やかだった。女子二人の甲高い話声を聞きながら、僕はまた麦茶を飲んだ。
「手伝ってくれ、間広」と、沙紀が僕を呼んだのは、僕が三杯目の麦茶を飲み終わった後のことである。
台所から出てきた沙紀は作務衣姿だった。くせっ毛の髪を後ろで束ね、いかにも職人らしい雰囲気を醸し出している。
柔和でおっとりとした顔つきは、中学生の頃から変わらない。世間知らずのお嬢様のような雰囲気を醸す沙紀だが、それがこのように強い情熱を秘めていたのだから、人は見かけでは判断できないものである。
「外で炭を起こそう。七輪があるんだ。やはりアマゴは、炭火でじっくり焼くに限る。絶品だぞ」
沙紀は、ステンレスのボウルに入れられたアマゴを僕に見せた。エラと内臓が取られており、あとは焼くだけの状態になっている。台所からトントントンと小気味よい音が聞こえた。神楽笹が、沙紀に代わって料理をしているようである。
「いいね、うまそうだ」
僕は立ち上がった。沙紀は嬉しそうに頷き、玄関に向かって歩き始めた。僕も沙紀の後に続く。
下駄箱の上に魚の入ったボウルを置いて、「こっちだ」と、沙紀は家の裏に回った。そこには小さなプレハブの倉庫があった。中はほとんど何もなく、箒や塵取りなどの掃除道具、如雨露、バケツ、そして七輪が目に付いた。
「これ、持って行ってくれ」
倉庫の中に入り、沙紀が七輪を足で小突く。
持ち上げると割と重たくないようで、沙紀が倉庫で何かを探している間、僕は七輪を持ったまま待っていた。しばらく探して「あった」と、沙紀が言った。手には、黒ずんだナイロン袋と、少し汚れた網が下げられていた。
玄関まで戻り、沙紀は家の中からライターと古新聞、そして団扇を持ってきた。
沙紀は手際よく七輪の穴に新聞を一枚敷いて、その上から細かく砕いた炭を入れた。その上に軽く丸めた新聞を二つ入れ、また砕いた炭を入れる。
「あおぐは任せるぞ」
沙紀は僕にうちわを手渡した。
沙紀が新聞紙に火をつけると、赤い炎が勢いよく上がった。見ているうちに炎の勢いは弱まり、パチパチと炭が弾ける音がし始める。
うちわであおぐと、パッと火花が散った。沙紀は玄関のそばにある水道で網を洗い始めた。しばらく扇ぐと、次第に炭が赤みを帯びてきた。
沙紀が、玄関から魚の入ったボウルを持ってきた。ちらりと七輪を覗き「まだまだ」と、手で宙をそいだ。僕はさらに力を込めて、赤くなった炭を扇いだ。
「うん、そろそろかな」
細かな炭がすべて真っ赤になったところで、沙紀は大きな炭を二つ、七輪に放り込んだ。先ほど洗った網をかぶせ、ちらりと僕に目をやり「お疲れ様」と言った。僕は汗だくだった。
「お、今から焼くんですか?」と、玄関から神楽笹が出てきた。着替えを済ませてきたようで、Tシャツにジャージ、サンダルという、いかにもラフな格好になっている。どうやら、いつの間にか汗も流してきたらしく、そばに寄るとせっけんの香りがした。
「こっちも、みそ汁とごはん、できますよ」
言いながら、神楽笹は七輪を覗きこむ。
「すぐに焼けるからな」と、沙紀が言った。手際よく網に魚を並べ、団扇で炭を扇ぐ。
その言葉通り、魚はすぐに焼きあがった。しかし、十匹ともなると時間がかかり、すべて焼きあがるころには、空が少し薄暗くなりかけていた。
笹の葉を敷いた皿に焼きあがった八匹のアマゴを乗せて、居間の食卓に運ぶ。ちなみに足りない二匹は、焼け頃を見計らって神楽笹がつまみ食いをした分である。
味噌汁とごはん、キュウリの浅漬け、そしてアマゴが食卓に並ぶ。
スイカも冷蔵庫に冷えているらしい。
「スローフードですねぇ、おいしそう」と、しみじみとした様子で神楽笹が言った。そして、「いただきますっ」と、快活な声で続ける。
僕と沙紀も「いただきます」と手を合わせた。
お読みくださり、ありがとうございます。
もう少し続きます。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。