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その①

魚をすくい上げる網を手に持ち、僕は川を眺めていた。


 夏らしく深緑に茂る森の中を、この谷川は流れている。流水が、点在する巨大な岩に荒々しくぶつかり、渓声は豪快に鳴っている。うるさいはずの蝉の声が、この場所では掠れて聞こえるほどである。


 視線を上げると、一人の少女が見える。


 この渓流を眼下に望む巨大な岩の上に、神楽笹燕は静かに立っていた。やや強い川風が、彼女の長い髪を揺らしている。手には、六メートル程の延べ竿が握られている。

 神楽笹はじっと見ていた。川の中ごろある大きな岩。そして、その岩に激流がぶつかり、その後ろに出来る僅かな流れの淀み――腹をすかせた魚が潜む、その場所を。


 ふと風が止んだ。


 神楽笹は延べ竿をゆらりと後ろに振った。付けられたナイロン糸は細くて見えないが、糸の中間辺りに付けられた目印の鳥の羽と、先端にある餌のミミズは見えた。竿のしなやかな動きにあわせて宙を舞っている。


 同じ速度で、神楽笹は竿を前に振る。ミミズはふわりと、淀みの少し前方へ落ちた。目印の鳥の羽が空中でくるくると回り、水中の餌の位置を教えている。

 神楽笹は、川の流れに任せてゆっくりと餌を淀みに送り込む。


 僕は息を呑んだ。網を持つ手に、ぐっと力が入る。

 止んでいた風がまた吹いた。さぁっと、木々の葉の擦れ合う音が響く。


 目印が淀みの真上に差し掛かる。ふっ、とその瞬間、僕の視界から目印が消えた。 


 神楽笹の持つ竿が、ひゅっと鋭い音をたてた。竿が弧を描き、竿の先は鋭く水面に向いている。僕の視界から消えた目印は、水中に引き込まれていたのだ。


「間広君!」


 神楽笹が僕の名前を叫んだ。


「でかいか!」と、僕も声を張り上げる。

「でかいです!」と神楽笹が言葉を返した。


「そちらに寄せます! 間広君、網の準備はいいですか?」


「いつでも来い!」


 僕は足元を確認し、より水面の近く、魚をすくい上げやすい場所に移動した。


 神楽笹の竿は、やや先調子の硬い竿である。つまり、竿の上部が柔らかく、中部、下部は硬い作りであり、魚のアタリに対する感度がよく、また、こちらの力がよりダイレクトに伝わるので魚を掛けてから主導権を握りやすい。反面、竿が硬いゆえ強引なやりとりだと、魚を逃がしやすい。


 掛かっている魚は、かなりの大物らしい。竿先がぐん、ぐんと力強く水面に引き入れられようとしている。どうやら魚は、流れの激しい中心付近に向かっているようである。


 一方神楽笹は、それをさせまいと踏ん張っている。中心付近には大小様々な岩が点在しており、そこに逃げられると糸が岩に引っかかり、切れる可能性が高い。また、激流に魚が入れば、おそらく魚は流れに乗って下流に逃げる。そうなれば完全に力負けである。


 形勢は悪かった。細い糸では無理に引き寄せることが出来ず、じりじりと魚は激流に向かっていた。


 神楽笹が、にやっと笑った。そして僕のほうを向いて手を横に振った。どうやら、そこを退けということらしい。魚は、いよいよ激流に入ろうとしていた。 


 神楽笹は跳躍した。そして、まるで猫のような身軽さで岩の上から僕のいる場所に飛び降りる。


「危ない!」と僕は叫ぶ。しかし、その言葉を全く聞いていない様子で、神楽笹は下流に向かって竿先を伸ばした。魚はすでに激流に乗って下流へ走っている。


 神楽笹は、川と平行に竿先を向ける。そして自身も激流の流れに逆らわないよう、下流に向かって走り出す。


 なるほど、これはいい作戦である。無理に引き合うと力負けするのは目に見えている。それならばいっそ魚の力に逆らわず、その向きを変えてやればいい。魚の泳ぐ速さに合わせて下流に下りながら、神楽笹は、じりじりと魚を岸へ寄せていた。 


 魚と神楽笹との距離が、おおよそ二メートル付近まで近づいた。勝ったと思った。僕が網を持って近づくと、神楽笹もほっとした安堵の表情を浮かべた。


 ふっと、竿先が跳ねたのはその時である。


「あっ」と、神楽笹が声を上げる。張りつめていた糸は緩み、目印の鳥の羽がふわふわと風に舞っていた。


 魚が逃げたのだ。


 何が起こったのか分からなかった。神楽笹はほぼ完璧に魚を支配していたし、糸を切るような障害物も見当たらなかった。

 空を仰ぎ「まったく……」と、神楽笹は悔しそうにつぶやいた。


「信じられないくらいの大物でしたね。手がまだしびれていますよ」


 たるんだ糸を手繰り寄せ、神楽笹は、一層悔しそうに歯噛みした。


「見てくださいよ、間広君」


 神楽笹は糸の先端を僕に見せた。そこにはまだ、釣り針が付いていた。しかし特に異常は見られず、魚が逃げた原因が僕にはわからなかった。

 神楽笹がポケットから小さなケースを抜き取り、その中から釣り針を一つ取り出した。そして、糸の先端についている針の横に並べる。

 そこで、やっと僕は理解した。正常な針に比べ、糸の先端についている針が僅かに伸ばされている。本当に僅かではあるが、釣り針の描く曲線の角度が甘くなっていた。 


「ほら、ね」と神楽笹が言った。


「きっと、針のサイズが魚の大きさに比べて小さかったのが原因でしょうね。あと、針の掛かりが甘かったのかも。そんな状態で強引なやり取りをしたから、力が変な方向に加わって針が伸びた」


 言いながら神楽笹は、糸を噛み切り、針をケースの中に収めた。振り出しの竿を縮め、付けていた糸を外して巻き取り、ポケットにケースと一緒に詰め込む。どうやらこれで納竿するらしい。


「終わるのか?」と僕が聞くと、神楽笹はちらりと川に目を向けた。


「あそこまで大立ち回りを演じたんです。しばらく休ませないと、魚は釣れませんよ」


 収めた竿を僕に手渡し、神楽笹は、岩の陰にある小さな水たまりに向かう。


 水たまりには魚籠があった。神楽笹が魚籠を水から引き上げると、中にいる魚が暴れ始めた。魚籠の中には釣り上げた魚が十匹ばかり入っている。どれもアマゴで、三十センチ級の大物である。これだけ釣れば大満足の釣果に違いない。


「リベンジしますけどね」


 神楽笹が言った。そして、魚がいっぱいに入った魚籠を持ったまま、川下に向かって歩き始めた。


お読みいただき、ありがとうございます。

全部で三、四話になる予定です。

宜しくお願い致します。


※一度誤って短編として投稿し、削除、再投稿いたしました。

 お読みいただいていた方がございましたら、誠に失礼いたしました。

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