推しに恋した私はマナー違反ですか?
『推しの配信者が、壁一枚隔てた隣に住んでいました』
そんなラノベみたいな設定、現実に起こるわけがない。
そう思っていた時期が、私にもありました。
◇◆◇
鉛のように重たい体を引きずって、私は築二十年の木造アパートのドアを開けた。
届いていた置き配の荷物を山積みのダンボールの上に置いて、玄関にヒールを脱ぎ捨てると、そのまま埃っぽいフローリングに倒れ込む。
ひやりとした床の冷たさが、残業で火照った頬に心地よかった。
「……つかれた、死ぬ。マジで……無理」
喉の奥から、乾いた音が漏れる。
スマホの画面をタップすると、時刻は深夜二時三十五分と表示されていた。
『佐倉さん、この資料、てにをはがおかしいよ。社会人何年目?』
『悪いけど、今日の飲み会、数合わせで来てくれない? あ、割り勘ね』
『あ、ごめん。君の分のタクシーチケットないわ』
脳裏に蘇るのは、今日一日のハイライト。
理不尽な上司の小言、終わりの見えないタスクの山、そして気疲れするだけの人間関係。
社会人三年目、二十五歳。
私のHPは、もう赤ゲージで点滅しているどころか、戦闘不能寸前だ。
呼吸をするのも面倒くさい。
このまま床のシミになってしまえばどんなに楽か。
けれど、私にはまだ、今日という日を終えるための『儀式』が残っている。
「……回復、しなきゃ」
這うようにして鞄を引き寄せ、命綱であるノイキャンイヤホンを探り当てる。
耳に押し込み、外界の音を遮断する。
冷蔵庫のブーンという音も、遠くを走る車の音も、すべてが消え失せる静寂。
慣れた手つきでYouTubeを開き、履歴の一番上にあるアイコンをタップした。
画面に表示されたのは、『ASMR配信者 Noa』の文字。
登録者数は180万人超え。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、超人気配信者だ。
画面の中には、幻想的な間接照明に照らされた、白く美しい指先だけが映っている。
私は祈るように再生ボタンを押した。
『……お疲れ様。今日も一日、よく頑張ったね』
――とぷん。
その瞬間、世界が変わった。
まるで温かいお湯に頭まで浸かったような、あるいは羊水に守られているような感覚。
脳の芯が痺れるほどの、甘く、深く、それでいて透き通った低音。
数百万円はするという最高級のバイノーラルマイクを通したその吐息は、鼓膜を通り越して、直接脳髄を撫で回されているような錯覚を覚えさせる。
右耳から左耳へ。
音が通り抜けるたびに、背筋がゾクゾクと粟立つ。
「はぁ……Noaくん……尊い……無理……」
思わず、変な声が出た。
彼の声には、麻薬的な中毒性がある。
どれだけ嫌なことがあっても、上司に怒鳴られても、この声を聞けばすべてが浄化され、ドロドロの感情が溶けていく。
私の生きる糧、精神安定剤、そして唯一の推し。
画面越しの彼に向かって、心の中で深く合掌する。
今日も生きててくれてありがとう。合掌。
同じ時代に、同じ日本に生まれてくれてありがとう。
一日の終わりの儀式を済ませ、少しだけ呼吸が深くなったのを感じて体を起こす。
――喉が渇いた。
ふと玄関の隅に目をやると、置き配指定していた段ボール箱が鎮座している。
「あ、そうだ。さっきの荷物開けよ」
今日届いたのは、先日、Amazonのセールでポチった『疲労回復セット』だ。
大量の入浴剤に、ホットアイマスク、それにレトルトのお粥。
今の私に必要な物資の詰め合わせ。
重い腰を上げ、カッターナイフを手にする。
疲れすぎていて、宛名のラベルをちゃんと確認する気力すらなかった。
テープを一気に切り裂いて、箱を開ける。
「……んっ?」
違和感があった。
入浴剤にしては、梱包が厳重すぎる。
大量の緩衝材をかき分けると、そこから出てきたのはレトルト食品ではなかった。
奇妙な形の物体。
それはどう見ても、人間の耳の形を模したシリコン製の模型だった。
いや、ただの模型ではない。
両耳がついた、高価な録音機材。
いわゆる『ダミーヘッドマイク』というやつだ。
しかも、私が知っている安物ではない。
『3Dio』のロゴ。
プロが使う、本気のやつだ。
「え、なにこれ。私、こんなの頼んだっけ?」
記憶を必死に手繰り寄せる。
疲労で頭がおかしくなって、誤発注したのだろうか。
いや、まさか。
こんなプロ仕様の機材、値段だって十万……いや、オプションを含めれば二十万は軽く超えるはずだ。
私の手取りよりも高い買い物を、無意識にするはずがない。
その時。
イヤホンから流れていたNoaくんのアーカイブ配信が、ふと耳に入ってきた。
『あ、そういえばね。僕、新しいマイク買ったんだ。3Dioの、ちょっといいやつ。次の配信で使うから楽しみにしてて』
心臓が、早鐘を打った。
いやいやいや。
まさか。
いや、そんな都合のいい偶然があるわけがない。
ラノベかって。漫画かって。
「……まさか、ね」
私は恐る恐る、箱に貼られた伝票を覗き込んだ。
雨で濡れて滲んだ印字ラベル。
目を凝らしてよく見れば、そこに印字されていた名前は、『佐倉紬』ではない。
『成瀬響』。
そして部屋番号の末尾も『201』ではなく『202』だ。
Amazonのロゴが入った段ボール箱。
サイズもいつも届くのと大体同じ大きさ。
配達員さんが雨の中急いでいて、隣同士で置き間違えてしまったのか。
「……ありえない……よね?」
血の気が引いていくのが分かった。
隣人の成瀬さん。
引っ越しの挨拶で一度だけ顔を合わせたことがあるけれど、黒縁メガネで…………顔もよく覚えていない地味な青年だ。
いつも静かで、生活音すらほとんど聞こえない。
会うとしても、たまにゴミ捨て場で一緒になるくらい。
でも、待って。
昨日の配信で、Noaくんは言っていた。
『新しいマイクを買った』と。
そして今、私の手元には、隣人宛の新しいマイクがある。
隣人の名前は成瀬響。
ASMR配信者の名前はNoa。
Noa、N、成瀬……?
「…………ッ!」
点と点が、線で繋がってしまった。
いや、ありえないってのは分かってるけど、こういう時、オタクってこじつけちゃうのよ。
もしかしたら……じゃん。
私の隣に住んでいるのが、あのNoaくんだったら?
雲の上の存在だと思っていた推しが、壁一枚隔てた向こう側にいる?
「いやいやいや! 落ち着け私! 深呼吸だ!」
私は部屋の中をぐるぐると歩き回った。
まだ決まったわけじゃない。
たまたま同じマイクを買っただけかもしれない。
……そうだ、検証だ。
私は震える指でスマホを操作し、昨日の配信アーカイブを再生した。
『届くのは明日かな。楽しみだな』
配信の日付は昨日。
そして今日、荷物が届いた。
タイミングは完璧。
さらに、彼の過去の雑談配信を思い出す。
『僕の家? うん、結構古いアパートだよ。壁が薄いから、業務用の防音ブースを入れてるんだ』
うちのアパートは築二十年。
壁はベニヤ板かと思うほど、うっすい。
だからこそ、防音設備のない私の部屋の音は筒抜けだろうけど、彼が防音ブースに入っていれば、こちらの音は聞こえないはずだ。
逆に、彼の声が聞こえてこないのも納得がいく。
条件は、一応一致してる。
「仮に、仮にそうだとして…………。まあ……詰んでるわな」
その場にへたり込む。
もし本当にそうだとしても、ファンには守るべき『マナー』がある。
配信者のプライベートを詮索しないこと。
彼らの生活圏に土足で踏み込まないこと。
それが、推しを推しとして崇めるファンの鉄則であり、越えてはならない一線。
もし彼が本当にNoaくんなら、私は今、最もタブーな領域に踏み込んでいることになる。
「と、とりあえず返さなきゃ!」
私は震える手で箱を閉じた。
テープを切ってしまったけれど、中身には触れていない。
いや、一瞬触ってしまったかもしれない。
指紋がついていたらどうしよう。
尊い機材を、私の俗世の手で汚してしまったなんて、万死に値する。
もしこれが原因で彼の配信にノイズが入ったら?
もし私が開封したことで、彼の『新品開封の儀』を台無しにしてしまったら?
罪悪感と焦りで、冷や汗が止まらない。
ふと、鏡に映った自分の顔が目に入った。
「うわ……酷い顔」
化粧は崩れ、目の下にはクマ。
髪はボサボサで、着ているのは高校時代のジャージ。
まるで落ち武者だ。
こんな姿で推し(仮)に会うの?
いや、でも着替えている時間はない。
早く返さないと、泥棒だと思われてしまう。
「私はただの隣人。私はただの隣人……」
呪文のように唱えながら、私は深呼吸を一つすると、重たい箱を抱えて部屋を出た。
深夜の廊下は静まり返っている。
隣の202号室の前に立つ。
たった三歩の距離が、永遠のように感じられた。
震える指で、インターホンを押す。
ピンポーン、という乾いた音が、静寂に響き渡った。
心臓がうるさい。
口から飛び出しそうだ。
数秒の沈黙の後、ドアの向こうから足音が近づいてくる。
パタパタ、というスリッパの音ではない。
もっと静かな、忍び足のような気配。
ガチャリ、と鍵が開く音がして、ゆっくりとドアが開いた。
「……はい?」
現れたのは、ボサボサの髪に、分厚い黒縁メガネをかけた青年だった。
大きめのグレーのスウェットを着ていて、いかにも寝起きといった風情。
全体的に色素が薄く、儚げな印象を受ける。
けれど。
その声を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
あー。これは、もう、間違いない。
いつもイヤホン越しに聞いている、あの声だ。
エフェクトも何もない、生の肉声。
それなのに、鼓膜がとろけそうなほど心地よい低音と、独特の柔らかい響き。
本物だ。
本物のNoaくんだ。
「あ、あのっ!」
私は反射的に頭を下げていた。
直視できない。
推しが生身で目の前にいるなんて、網膜が焼き切れてしまう。
「隣の、佐倉です! これ、私の荷物と間違えて、うちの方に置いてあったみたいで……!」
勢いよく箱を突き出す。
彼は少し驚いたように目を丸くし、それから私の手元の箱に視線を落とした。
「あ……」
彼は状況を理解したのか、ふわりと表情を緩めた。
「すみません、わざわざ。ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間、思考が停止した。
地味だと思っていたメガネの奥の瞳が、驚くほど綺麗だったからだ。
切れ長で、少し濡れたような瞳。
廊下の薄暗い照明の中でも、星のように輝いて見える。
「あの、箱……開けちゃいました。宛名ちゃんと見てなくて、自分の荷物だと思って……! 本当にすみません!」
「いえいえ、中身が無事なら全然大丈夫ですよ。わざわざ声をかけていただいて、こっちこそ、すみません」
彼は箱を受け取ると、ひょいと軽々と抱えた。
その腕の筋が、意外と男らしいことに気づいてしまい、私は慌てて視線を逸らす。
ふわ、と甘い香りがした。
香水じゃない。
柔軟剤のような、あるいはもっと本能的な、清潔で落ち着く香り。
って、ダメだ。
これ以上ここにいたら、心臓が持たない。
「い、いえ! それじゃあ、私はこれで!」
逃げよう。
これ以上関わってはいけない。
私が踵を返そうとした、その時だった。
「あ、待ってください、佐倉さん」
呼び止められて、足が止まる。
名前を呼ばれた。
推しに、名前を呼ばれた!
それだけの事実で、膝から崩れ落ちそうになる。
恐る恐る振り返ると、彼は少し困ったように眉を下げていた。
その表情が、計算なのか天然なのか分からないけれど、あざといほどに破壊力がある。
「実は僕も、最近通販をよく利用するんです。またこういう間違いがあるといけないし……」
彼は言葉を切り、少しだけ言い淀んでから、意を決したように私を見つめた。
その瞳には、なぜか必死な色が混じっているように見えた。
「も、もしよかったら、連絡先を交換しておきませんか? 不在の時の受け取りとか、何かあった時のために」
「えっ」
思考が真っ白になった。
連絡先。
推しの、連絡先。
それは、ファンとして絶対に越えてはいけない一線なのではなかろうか?
いや、でもこれはあくまで『隣人トラブル防止』のための業務連絡だから。
下心なんてない。
ない。
「あ、もちろん、迷惑でなければで構わないんですけど。隣人が男だと、不安ですよね……すみません、いきなりこんなこと、気持ち悪いですよね」
彼がシュンとしたように肩を落とす。
捨てられた大型犬のようなその姿が、私の理性と母性本能を同時に粉砕した。
「め、迷惑なわけないです! むしろ私でよければ!」
食い気味に答えていた。
マナー? 鉄則? ファンの矜持?
そんなものは、この笑顔の前では無力だった。
「本当ですか? よかった……」
彼は安堵したように息を吐き、ポケットからスマートフォンを取り出す。
その手つきが妙に早い気がしたのは、気のせいだろうか。
「じゃあ、これ僕のIDです。……あ、名前は『響』でやってます」
画面に表示されたQRコード。
それを読み込む手が震えて、なかなかピントが合わない。
(落ち着け、私。これはあくまで業務連絡用。ファンとしての節度は守るんだ。絶対に、個人的なメッセージなんて送っちゃダメだ)
自分に言い聞かせながら、震える指で『友だち追加』のボタンを押した。
ピコン、という通知音が、やけに大きく響く。
「あ、追加できました。佐倉です。よろしくお願いします」
「はい、確認しました。ありがとうございます、佐倉さん」
彼は満足そうに目を細め、スマホを大切そうに胸ポケットにしまった。
その仕草が、まるで宝物を扱うかのように丁寧で。
私は顔が熱くなるのを感じながら、逃げるように自分の部屋へと戻った。
ドアを閉め、鍵をかけ、その場にへたり込む。
「……夢じゃ、ないよね」
スマホの画面には、『成瀬響』という新しい友だちの名前。
現実だ。
私は、推しと繋がってしまった……!
壁一枚向こうに彼がいる。
そして、このスマホの中にも彼がいる。
「どうしよう……これから毎日、生きた心地がしないかも」
私は熱い頬を両手で包み込み、壁の向こうへと思いを馳せた。
◆◇◆
「(……っしゃあぁぁぁぁッ!!)」
ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、俺は音にならない叫び声を上げながらガッツポーズをした。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされていた。
「やばい、心臓止まるかと思った……」
震える手でスマホを取り出し、画面を確認する。
『佐倉紬』
その三文字が、確かにそこにあった。
つむぎさん……って読むのか?
可愛すぎだろ……!!
「連絡先……交換できた……マジか……」
夢じゃない。
あのお隣さんと、繋がることができたのだ。
俺、成瀬響こと配信者Noaは、ここ数年、隣人の佐倉さんに一方的な片思いをしていた。
……ストーカーではないから!!
築二十年の、壁の薄いアパート。
正直、もっといい部屋に引っ越す金はある。
でも、ここを離れられない理由があった。
「あー、くそ……佐倉さん、今日は辛そうだったな……」
俺は壁に背中を預け、ズルズルと座り込む。
仕事中は部屋の中に設置した防音ブースに籠もっているから、外の音は聞こえないし、俺の声も漏れない。
でも、一歩ブースを出れば、このアパートの壁は薄すぎる。
聞こうと思っていなくても、彼女の生活音が聞こえてしまうのだ。
帰宅した時のため息。疲れ切った独り言。
そして、俺の配信を聞いてくれている時の、「尊い……」という小さな呟き。
本当は、聞いちゃいけない。
もっと防音性の高いマンションに引っ越すべきだ。
でも、彼女が今日も無事に帰ってきて、俺の配信で癒やされていると知ると、どうしようもなく安心してしまう。
これは俺のエゴだ。
ただのストーカーまがいの片思いだ。
だからこそ、俺から声をかけるなんて出来なかった。
でも。
配送業者が荷物の場所を間違えたと気づいた時、俺は天を仰いで感謝した。
雨で伝票を滲ませてくれた天気にも、箱を間違えた配達員にも。
これは運命だと言い張ってもいいだろうか?
寝癖がついた頭を必死に整え、伊達メガネをかけ(こっちの方が真面目そうに見えるから)、彼女が来るのをドアの前で十分間も正座待機していたなんて、口が裂けても言えない。
「……それにしても」
俺は自分の胸ポケットを押さえた。
彼女は気づいていないだろうけれど、俺は知っている。
彼女が俺の配信を命綱にしてくれていることを。
「マナー違反、だよな。これ」
俺は苦笑しながら、画面の中の彼女の名前を指でなぞった。
ファンと配信者。
その境界線を踏み越えようとしているのは、彼女じゃない。
俺の方だ。
本来なら、俺は彼女に「癒やし」だけを提供する存在でなきゃいけない。
でも、欲が出てしまった。
壁越しじゃなくて、直接彼女を癒やしたい。
その疲れ切った顔を、俺の手で笑顔にさせたい。
「覚悟しててね、佐倉さん」
俺は壁の向こうにいる彼女に向けて、小さく呟いた。
「俺は、ただの隣人で終わるつもりなんてないから」
マイク機材よりも重たい愛を抱えて、俺はニヤけそうになる口元を必死に抑え込んだ。
そして、震える指でスマホを操作し、さっき交換したばかりの彼女のトーク画面を開く。
送信するのは、お辞儀をするクマのスタンプ一つ。
『よろしくお願いします』
送信ボタンを押した、直後だった。
『きゃうっ!?』
壁の向こうから、素っ頓狂な悲鳴と、ドサッという何かが倒れるような音が聞こえてきた。
おそらく、通知音に驚いてスマホを取り落としたか、あるいは……俺からの連絡に動揺してくれたのか。
「……ふっ」
壁越しに伝わってくるその初々しい反応に、抑え込んでいた笑みがこぼれてしまう。
壁が薄いのも、悪いことばかりじゃないな。
これからは、俺のメッセージに対する彼女の反応を、リアルタイムで(壁越しに)楽しめるんだから。
「(これからよろしくね、お隣さん)」
俺は壁にコツンと額を当て、愛しい隣人の慌てる気配に耳を澄ませた。
今度の週末……カフェにでも誘ってみようかな……。




