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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

おばちゃんの蹉跌

作者: viblon
掲載日:2025/10/15

 おばちゃんはマンションの七階に棲んでいた。黒と白の二匹のペルシャネコも一緒だった。

「おばちゃんはこわいひとだよ。この間、おばちゃんに棒でぶたれた」

「そんなこといっちゃいけないよ」

「また、あれだね」

「お父さんが嵐の日に‥‥」

「もうわかってるよ」

「ずぶ濡れになって、死にそうになったんだ」

「もうわかってるってば。むかいのマンションの軒下でしょ」

「そうだよ。冬の寒い日で、びしょ濡れになって、寒くて寒くて死にそうだった。そうしたら、おばちゃんがアンパンをくれたんだ。それだけじゃないよ。あったかいマンションの部屋に入れて、ハンバーガーもくれた。嵐がやむまで部屋にいさせてくれて、命びろいしたんだ。次の年におまえが生まれた」

 ハトの親子がマンションのベランダで、プランターの植え込みの陰から、部屋の様子をみていた。おばちゃんは飼っているネコに、マグロの刺身をあげるところだった。

「おばちゃん。ぼくにもお刺身、ちょーだい」

「あ、出ていっちゃ駄目だよ」

 お父さんは慌てて止めたが、遅かった。

「お刺身じゃなくて、アンパンでもいいから、ちょーだい」

 ハトの子は窓ガラスに嘴を押しつけるようにして、必死に呼びかけた。「おばちゃん、ぼくにもアンパン、ちょーだい。どうして、ネコにだけあげて、ぼくにはくれないの。ぼくもアンパンが食べたい」

 はじめに大きな黒いネコが気がついて、そのつぎに小さな白いネコが気がつき、それからおばちゃんが気がついた。おばちゃんは手にコップをもってきた。窓を一気に開けると、びしゃっと水をひっかけた。そのあとから黒い大きなネコと白い小さなネコが追いかけてきた。

 危うく難を逃れたハトの子は、おばちゃんに叫んだ。「ンコ、してやる」

「そうだ。みんなで、ンコしてやる」

 お父さんも一緒になって、叫んだ。いささか幼い感じだが、イヌやネコでさえ、四歳程度のアタマなのだから、ハトであれば、仕方がなかった。

 おばちゃんの目下の悩みは、ハトの会話がきこえるような気がすることである。ハトはいじらしい丸い目で切々と訴える。

「おばちゃん。アンパン、ちょーだい」

「ぼくにも、アンパン、ちょーだい」

「あたしも、あんぱん、ちょーだい」

「あたしも、アンパン、ちょーだい」

「おばちゃん。本当はやさしいひとなんでしょ。どうしてネコにはあげて、ぼくにはくれないの。ぼくもアンパンが食べたいよ」

 ハトは五人家族だった。たいていは一羽か二羽だが、ときによると家族揃って来る。おばちゃんは風のつよい嵐の日に、駄目よ、駄目よ、と思いながら、今度は家族にピクルスを取りのぞいて、またマクドナルドを食べさせてしまった。






 おばちゃんが窓の外を睨むと、ハトは大騒ぎに逃げていく。

「あ、おばちゃんだ。みつかった。にげろー」

「おばちゃんは、みずをひっかけるぞ」

「またマクドナルドが食べたいよー」

「お刺身ふた切れ分で、家族がお腹一杯になれるのに、何でくれないのよ。くそ婆あァ」

 いつも二、三羽のハトがベランダをうろうろしていた。

 救いは、おばちゃんの部屋のベランダには、巣をつくらないでくれたことだった。ハトは離陸する都合上、向かい風の強く吹くマンションの端のベランダがお好みなのだった。おばちゃんの部屋は、端から二番目である。 困りごとは、日中ハトの一家が巣のある隣のベランダではなく、おばちゃんの部屋のネコを見物に来て、たくさんの羽とフンを落とすことだった。フンは乾くと、こびりついてタワシで擦ってもなかなか落ちず、羽はベランダの排水口に溜まって、蝶や蛾の鱗粉と、鳥の抜けた羽が汚くてさわれないおばちゃんにとって、死ぬ思いの掃除を強いた。

 ハトたちは、ネコをみて過ごした、毎日。

 おばちゃんがほとほと困り果てた。

 それでも、ネコにトリのササミをあげているとき、インターフォンが鳴った。

 ドアを開けると、管理会社と契約している設計事務所の中年の社員のひとと、日焼けした年配の大工さんが立っていた。どちらも顔見知りである。隣の部屋のベランダに、ハトが来れないように、工事をするという。下の階のひとから、苦情が来たのだそうだ。おばちゃんは顔がほころぶのが自分でもわかった。

 翌日、ネットを張る工事がはじまった。

 留守がちな隣人は姿をみせず、ハトの一家もどこかへ飛び去っていた。工事は簡単だった。おばちゃんも自分の部屋のベランダにネット張るかどうか迷っていたのだった。お隣さんが対策をとってくれたので、工事の代金を払わずにすむと思い、嬉しかった。

 半日で工事は終わり、設計事務所の監督と大工さんは夕方、帰っていった。入れかわりにハトの一家がどこからともなくやってきて、ベランダの上の屋根と、ネットがわずかに垂れ下がった隙間に首を突っこみ、足で隙間をひろげて、難なく次々にベランダに着陸した。

 やはり何でも屋の出入りの業者ではなくて、ハトを専門にしている、鳥害防止の業者でなくては駄目だ、とおばちゃんは思った。

 ひさしぶりにパソコンをひらいて、「ハト」「鳥害」で調べた。ズラリとならんだなかから、適当と思われるものを二つ、三っつ選んで、業者の電話番号をメモ用紙に濃い鉛筆で書き写した。

 それから、トリ専門の肉屋に行って、ササミを一キロ買い、帰ってきて、五本づつビニール袋に分けて入れ、冷凍庫に仕舞った。二本余ったので、小さく切り、ネギと煮て、うどんを入れた。今日の晩ご飯である。

 おばちゃんはすぐに電話をするようなことはなかった。業者が来る日には、離婚して、女ひとりのマンション暮らしとわからないように、息子に来てもらった方が安心だし、設計事務所の現場監督が工事をやりなおすかもしれないし、それでうまくいけば、おばちゃんの部屋のベランダは、工事の必要がなくなるし、顔見知りの二人が出入りしているときに、鳥害専門の別の業者とはち合わせになるのは、なるべくなら避けた方がいいし、おばちゃんはいろいろと目まぐるしく考えた。二週間くらいは、何もしない方がいい。

 二匹のネコにおやつのササミを千切ってやったり、ネコ用の草を交互にあげて、おばちゃんの時間は、ゆっくりと過ぎていった。

 そうして五、六日もたった。

 胸騒ぎのようなものは、何もなかった。

 おばちゃんは別に気にも留めていなかったが、ハトの姿がみえないのに、ようやく気づいた。いればいたで鬱陶しいが、いなければいないで、どうしても落ちつかない。

 おばちゃんはベランダに出て、青いネットが張られた隣のベランダをみた。翼をひろげ、仰むけに倒れている大きなハトの死骸に目がいった。屈んだまま息絶えているものや、横にひしゃげて、首を垂れている若いハトの死体もあった。生きているときの均整のとれた姿勢ではなくて、どれも不自然に崩れていた。ハトの一家は全滅だった。

 トリは急な角度で降下することは出来るが、上昇することは、ハチドリなら可能かもしれないが、ハトにはむづかしいのだった。不完全な工事は、意図せずトリをつかまえる罠と同じような形になっていた。一家は狭いベランダに着陸することは出来たものの、遥か上方にあるネットの隙間からは出られなかったのだ。エサを食べられず、水さえ飲めなかったハトたちは、散々苦しんで死んでいったのだと思った。刹那おばちゃんの目から涙が溢れた。

 嵐の日、たまたま持っていたあんパンをやらなくても、雨と風がおさまれば、ハトは野生の力で回復して、飛びたてたかもしれない。そのうえ暖かいマンションの部屋に連れてきて、ハンバーガーのパテを貪り食べるのをみて、よろこんだのは、ハトのみならず、おばちゃんの方だったのではないか。余計なお節介をしなければ、ハトは隣のベランダに巣をつくることもなかったのではないか。

 おばちゃんは深く悔やんで、夕焼けのオレンジ色の、明るい粒子が舞うベランダに立ったまま、声を押し殺して泣きつづけた。

 

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