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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

もう一度あなたに逢えたなら・・・

私には、あなたしかいなかった。

作者: ミーミル

完璧な令嬢・紫乃と、彼女を心から慕う少女・沙羅。

二人の友情は、まるで祈りのようだった。

けれど一人の少年が現れたとき、紫乃の心が揺れ、沙羅の世界が崩れ始める。


そして、"ある一つの選択"が、誰かの妹の命を奪い、

二人は償いの名のもと、閉ざされた部屋で生きることになる。


美しさと狂気、崇拝と裏切り、そして――壊れた友情の、その先へ。


※本作には暴力・監禁・精神的描写を含みます。苦手な方はご注意ください。

あの春の日のことは、今でも夢に見る。


陽光が差し込む音楽室。桜の花びらが窓の外を舞っていた。

白いグランドピアノの前に、彼女は座っていた。


紫乃・フォン・エーデルシュタイン。


名前からして完璧なその子は、実際、ため息が出るほど美しかった。

白い指先が鍵盤をなぞるたび、音が流れ出す。まるで水のように、風のように、誰にも触れられない繊細な旋律。


息をするのも忘れて、私は扉の影に立ち尽くしていた。


あの時のわたしは、誰よりも彼女に憧れていた。

いえ、あれは憧れなんて言葉で収まる感情じゃなかった。

羨望、畏怖、そして――願い。


「どうか、あのひとと話してみたい」


紫乃様は完璧だった。成績はいつも首席。礼儀も品位も、どこをとっても非の打ちどころがなかった。

それでいて、どこか儚げだった。誰の声にも笑わず、誰の視線にも応えず、ただ一人でピアノを弾いているような少女。


同級生たちは皆、彼女に近づきたがった。

笑顔を向けられた子は、嬉しさのあまり涙を流した。

それでも彼女は誰とも距離を縮めなかった。


「友達、いないのかしらね」

「高慢だから、きっと選んでるのよ」

そんな陰口が飛ぶ中で、私はなぜか、ただひとつの想いにすがりついていた。


――わたしなら。もしかしたら、わたしだけなら。


そんな根拠のない自信。だけど、どうしても諦めたくなかった。


勇気を出して、扉を開けた。

あの時の音。あの目が、こちらを見た瞬間の静けさ。

私は、声を震わせながら言った。


「……その曲、“白鳥の湖”ですよね。とっても綺麗……!」


紫乃様は、少しだけ目を見開いた。


それが最初だった。

最初で、永遠になるはずだった出会い。


私は、気づいていた。

彼女は、人を信用していなかった。愛されたことがない子の目をしていた。

それでも、私は彼女のそばにいたかった。

気高くて、鋭くて、なのに寂しそうな彼女のそばに。


時間をかけて、私は少しずつ紫乃様の中に入り込んでいった。

お弁当を一緒に食べたり、放課後にこっそりお菓子を持ち寄ったり。

ピアノの横に腰かけて、感想を伝えるのが、何よりの楽しみだった。


やがて彼女は私を「沙羅」と呼び、私は彼女を「紫乃」と呼べるようになった。

あの音楽室には、わたしたちだけの世界があった。


ほかの子たちは、いまだに彼女を遠巻きに見ていた。

けれど、わたしだけは、彼女のとなりに座ることができた。


誇りだった。

だって、あんなにも完璧なひとの、「親友」になれたのだから。


彼女が私を信じてくれるようになったとき――

「沙羅だけなの。隣にいても、息ができるって思えるのは」

そう囁かれたあの夜のことを、私は一生忘れない。


憧れと、愛しさと、誇らしさ。

全部が混ざって、私はきっと、誰よりも紫乃が好きだった。


たとえそれが、いずれ――

地獄をともに歩むことになるのだとしても。



紫乃は、雲の上の人だった。


ふわりと笑っただけで、空気が凛とした。

正解を言い当てるとき、誰よりも静かで、誰よりも正しかった。

立ち姿一つで「令嬢とはこうあるべき」と、わたしたち全員に思わせた。


完璧だった。

とてもじゃないけれど、手の届かない――まるで神様みたいなひとだった。


……でも。


「沙羅、これ……あなたにだけ、見せておきたくて」


そう言って、初めて彼女が見せてくれたのは、小さなノートだった。

中には、譜面でも日記でもなく、幼いころに描いた絵がたくさん詰まっていた。

ピアノ、夜の月、目のない人形、小さな家――どこか哀しいものばかり。


紫乃は少しだけ目を伏せて、

「私、昔から、ひとりだったから。音や絵しかなかったの」

ぽつりと、そう言った。


そのとき、はじめて思った。

この人も、わたしと同じように、どこかで震えていたんだ――と。


あの神様みたいな紫乃が、弱さを見せてくれた。

私にだけ。


それがうれしくて、誇らしくて、胸の奥が痛くなるほどだった。


私は、紫乃を崇拝していた。

その美しさも、才能も、孤高さも、全部がまぶしくて――ときに怖いほどで。

近づけば焼かれてしまうかもしれないと思っていた。学校の教える神は信じなかったけど、神様は本当にいるんだって信じられた。


けれど、紫乃は私を“対等な存在”としてそばに置いてくれた。


ピアノを弾く手を止めて「沙羅、こっちを向いて」と言ってくれた。

新しい楽譜が届くと、最初に「聴かせるね」と笑ってくれた。


わたしにしか見せない顔があった。

完璧であることに疲れたとき、紫乃はそっと私の肩にもたれてくれた。


彼女にとって、私は“唯一の平地”だったのかもしれない。

誰もがひれ伏すなかで、ただ隣に並ぶことを許された存在。


それが、わたしの誇りだった。


「あなたは、私が神様みたいに見えるって思ってるでしょう?」

ある日、紫乃が少し拗ねたように言った。こんな時でも彼女は正しい。


私は笑って、答えた。


「……ええ。だけど神様も、ときには寂しがり屋で、甘えたがりだって知ってるの。私は、そのときそばにいたいだけ」


紫乃は、わずかに黙ってから、ぽつりと。


「……やっぱり、あなたってずるいわ。誰よりも私を理解してる。だから……一番、手放したくない」


その言葉が、どれほどの意味を持っていたか――

あのときの私は、まだ知らなかった。


それでも私は、信じていた。


あの光のような彼女と、わたしは「親友」だったと。

ただの、でも、かけがえのない、たったひとりの“ともだち”だったのだと。



――あのひとが、笑った。あのひとが、わたしではない誰かを見て、笑った。

紫乃は、恋なんてしないと思っていた。


誰よりも孤高で、愛なんて信じていなくて。

「結婚なんて政略。愛情なんて無知な庶民の幻想」

そう言い放つ姿すら、わたしには格好よかった。


なのに――その日の紫乃は、いつもの彼女じゃなかった。


午後のテラスで、紅茶を飲んでいたとき。

わたしたちのクラスに転入してきた彼が、偶然通りかかった。


そのときだった。


紫乃の視線が、ふっと彼を追った。


ほんの一瞬だった。

けれど、わたしは見逃さなかった。

彼女の視線が、わずかに――揺れたのだ。


「……紫乃?」

小さな声で呼びかけると、彼女はすぐに笑った。

まるで、何もなかったかのように。


でも、わたしは知っている。

紫乃の笑顔は、ほんとうに笑っているときほど、うっすらと寂しさが混じるのだ。


彼が話しかけたとき、紫乃は微笑んだ。

他人には冷たくしていた彼女が、声のトーンを半音だけやわらかくした。

返す言葉に、冗談が混じった。

そんなの、今まで一度だってなかった。


「……まさか、ね」


自分の口からこぼれたその言葉に、自分で驚いた。


まさか――紫乃が恋を?


あり得ないと思っていた。

完璧な彼女にふさわしいのは、誰にも選ばれないほどの誰かだと思っていた。

でも紫乃は、普通の、少し笑顔が優しいその転校生に、確かに心を動かされていた。


それを知った瞬間、胸の奥がざわついた。


嫉妬、なのか? それとも、焦りか、不安か?

言葉にできないものが、心の底から湧き上がってきて、苦しくなった。


わたしは、紫乃のそばにいるのが当たり前だった。

彼女が秘密を打ち明ける相手は、私だけだった。

あの夜の「あなたが必要」だという囁きを、信じていた。


けれど、彼女は、わたしの知らない誰かに、心を開きかけている。


それが、怖かった。


「沙羅……わたし、どうしよう」

一緒にお泊りした夜、ベッドの中で紫乃がぽつりと呟いた。


「……彼の声が響くたびに、胸がぎゅっとなるの。こんな気持ち、教科書にも、ピアノにもなかった」


その顔が、あまりにも、美しくて、無防備で、幸福そうで。


それを見ているわたしの心が、ほんとうに、苦しかった。私にはあなたしかいないのに。


愛してるの? そんな言葉は言えなかった。

でも、彼女の光が、わたしの知らない誰かに向けられることが、

こんなにも恐ろしいことだなんて――


私は、知らなかった。



――紫乃は変わった。だけど、それを止められるほど、私はもう強くなかった。

あの夏の終わり、紫乃は急にピアノを弾かなくなった。


「指が思うように動かないの」と笑ってごまかしていたけれど、そんなはずがない。

あの人がどれだけ自分に厳しいか、わたしは誰よりも知っている。

夜中まで、鍵盤に触れながら泣いていた姿も知っている。


それなのに――ピアノ室の鍵はいつの間にか閉ざされ、

代わりに彼との逢瀬が、彼女の生活の中心になっていった。


あれほど自制の人だった紫乃が、授業を抜け出すようになり、

学園の規律を「馬鹿げている」と笑った。


……知らない紫乃が、そこにいた。


「彼と一緒にいるとね、世界が違って見えるの。生きてるって、思えるのよ」


そんなことを言って笑う紫乃の顔は、どこか壊れかけのガラスのようで、

その美しさが、かえって怖かった。


わたしは、どうすればよかったんだろう。


「あなたなら、止めてくれると思ってた」

以前、彼女がそう言ってくれたことがあった。

でも今の私は――止められない。


父の顔が、やつれていた。

会長職にあった母は、黙ってスーツケースをまとめていた。


「沙羅、おまえはもう“学費免除枠”の申請をしなければならないかもしれない」

そう言われたとき、頭が真っ白になった。


わたしたち“名門”七家の一角であるはずの我が家が、

まさかこんな形で、崩れていくなんて。


知っていた。

ここ数年の取引不振、投資の失敗、政財界とのパイプの劣化。

でも、それでも、わたしはどこかで「大丈夫」と思い込んでいた。


でも現実は、残酷だった。


制服の仕立て直しができなくなった。

夜は家中が静かすぎて、誰も口を開かない。

毎朝、車ではなく徒歩で学園に向かうようになった。


そんな中で――紫乃の暴走を、見ていることしかできなかった。


彼の妹が「何かおかしい」と泣いていても。

紫乃がその妹の存在を「目障り」と吐き捨てても。

それが、いつもの紫乃じゃないと分かっていても。


私は、動けなかった。


だって、わたしだってもう、ぎりぎりだったから。


家が傾き始めるというのは、何もかもが少しずつ壊れていく音を聞くことだ。

階段の軋む音。電話の呼び出し音。母のヒールが鳴らない音。

すべてが、不気味に静かだった。


紫乃に「何かあったの?」と聞かれても、

わたしはただ「大丈夫」と笑うしかなかった。


本当は、紫乃のことを抱きしめてでも止めたかった。

そんなことしても、彼女はもう戻ってこないと分かっていても。


それでも――私は、最後の一線を越える勇気がなかった。


紫乃の目が、少しずつ冷たくなっていく。

その隣で、わたしは“対等な友人”だった日々を、胸の中で繰り返し繰り返し思い出していた。


そして思っていた。


「彼女を助けられるなら……わたしのすべてを失ってもいい」と。


皮肉なことに、

――その願いの半分は“本当に”叶ってしまうのだけれど。


――紫乃さまが、壊れていく。

あの人が、真夜中に突然、わたしの部屋にやってきた。私の家は紫乃さまの家の支援でなんとか命脈を保っていた。精神的にはともかく、物理的には今までにないほど近しくなった。


ノックはしなかった。

まるで風が吹き抜けるように、静かに扉が開いて、

紫乃さまは何も言わずにベッドの横に座った。


「……ねぇ、沙羅。わたし、知ってしまったの」


月明かりに照らされた横顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。

なのに、目の奥は底が見えないほど深くて、凍りつくように冷たい。


「彼がね、妹を……愛してるのよ。本当に。本物の愛。男女としての」


わたしの心臓が跳ねた。

口を開こうとしたけれど、声が出なかった。


「そういうの、あるのね。禁じられてても、壊れていても、

 二人はそれを“選んで”た。何もかも捨てて、ただお互いだけを見てたの」


紫乃さまの手が、ぎゅっとシーツを握る。

真っ白な指先が、まるで血の気を失った彫刻のように美しかった。


「彼女は……彼を抱いてたのよ。わたしが、ただ見てるだけだった時間、

 彼女は彼の中にいた。彼を……知っていた」


声が震えていた。けれど、涙は流れていなかった。


「ねぇ、沙羅。ねぇ、どうして……? どうしてあの子が、選ばれるの?」


わたしに聞いているのに、わたしではない“誰か”に話しているような口調だった。


「わたしは努力したのよ。完璧になろうとした。どれだけ、どれだけ……!」


突然、紫乃さまが立ち上がって、部屋の中をぐるぐると歩き出す。

わたしはただ、動けなかった。


あの人の“気高さ”が音を立てて崩れていく。

それを止める術が、わたしにはなかった。


そして――その瞬間、彼女は振り返り、わたしの目を真っすぐに見た。


「消えてもらうしか、ないのよ。あの子を。この世界から」


「……え?」


「簡単なことよ。お金なんて、いくらでもある。彼女を“買いたい”人間なんて、いくらでもいる。

 何も知らないお人好しにでも売ればいいわ。そうすれば、彼女は“消える”。わたしの世界から、完全に」


ぞくり、と背筋が凍った。


「紫乃……さま……?」


「あの子がいなければ、彼はわたしを見るわ。きっと、見てくれる。

 わたしの手を取ってくれるわ。……沙羅。協力してくれるわよね? わたしのために」


紫乃さまは、微笑んだ。


あんなに優雅で、聡明で、美しく、

だれより高貴だった紫乃さまが――


その笑顔は、もう“人間”のものじゃなかった。


「だって、沙羅。あなたは、わたしの友達でしょう?」


言えなかった。

「違う」とも、「やめて」とも、言えなかった。


心臓が痛くて、吐きそうで、

それでもわたしは、うなずいてしまったのだ。


この人の手を離したら、もう二度と戻れない。

そう分かっていたのに。


それが、全ての始まりだった。

終わりの始まりだった。


私の家は、静かに、確実に崩れていた。

父の事業の失敗。後ろ盾となっていた銀行の手のひら返し。

そして、母の寝込む姿。――もう、時間がなかった。


そんなとき、紫乃さまが囁いたのだ。


「沙羅。あなたのお家を、助けてあげる。……その代わり、一つだけお願いを聞いて」


その声は、優しくて、柔らかで、まるで昔と変わらなかった。

けれどその瞳だけは、何か冷たい光をたたえていた。


「彼の妹、あの子。……手放してもらうの」


わたしは、最初意味が分からなかった。

けれど紫乃さまは、まるで商品を説明するように語り出した。


「あの子、顔も整ってるし、何も知らない。何も汚れてない。

 好事家の金持ち相手なら、十分値がつくわ。あなたの家の借金ごと、すべて吹き飛ぶほどに」


「……冗談、ですよね?」


声が震えた。

けれど紫乃さまは静かに首を横に振った。


「冗談を言う余裕が、今のあなたの家にあるの?」


その言葉は刃物だった。

わたしの“現実”に突き刺さり、血を流させた。


その夜、私たちは“取り引き”をまとめるために動いた。


紫乃さまが手配した紹介人。

わたしの家が管理していた一部の名義不動産を担保に、売却契約が進められた。


紫乃さまが笑顔で言った。


「ねぇ、沙羅。これであなたの家も救われて、あの子も“自由”になる。……素晴らしいわよね?」


けれど、私の手は冷たかった。

震えていた。

わたしは、わたしの手で、“彼女”を裏切っていた。


彼女――彼の妹は、何も知らなかった。


私が優しく声をかけ、笑顔で「ご招待があるの」と言ったとき、彼女は嬉しそうに頷いた。

そして、車に乗って、二度と戻らなかった。


私は、その一部始終を行った。――止めなかった。そう何度思い出しても行った。


そして、数日後。

わたしの家に、紫乃さまの家からの“支援”が届いた。


莫大な匿名の投資。

焦げ付きかけていた不動産への買収話。

そして、ある財団を通じて届けられた“奨学金”と“寄付”、国からの補助金。あらゆる名目でお金が流れ込む。


何もかもが、綺麗に整えられていた。


父は涙を流して喜び、母は快方に向かった。

使用人たちは戻ってきて、屋敷には再び灯りが戻った。


――けれど。


わたしの心の中に灯ったのは、決して消えない、

真っ黒な火だった。


それは、紫乃さまの笑顔を見るたびに燃え上がり、

鏡に映るわたし自身を、焼き尽くしていった。


少女は、ある晩、姿を消した。


紫乃の丁寧な誘導で、何の疑いも持たずに乗った車。

その先に待っていたのは、きらびやかで――しかし、決して「まとも」ではない館だった。


彼女は売られた。

金で人を買うことに何の躊躇もない大人たちの、娯楽のために。


「最初は抵抗が激しかったんですよ。でも、すぐに馴れるんですね。人って」


その報告書は、彼のもとに――妹の兄のもとに、ある日、届いた。

見知らぬ名義の封筒。

中身は、写真。手紙。証言。契約書。

そして――


死亡診断書。


「自殺――妊娠反応陽性。

 状況証拠より、強い精神的ストレスおよび継続的な拘束下での絶望による」


書かれていたのは、それだけだった。


彼は最初、意味が分からなかった。

次に、信じなかった。


しかし、封筒の中の「証拠」は――彼がよく知る妹の笑顔を歪ませ、

ぼろぼろにされた身体を無慈悲に映していた。


現実だった。


**


最初に彼がしたのは、ただ座り込むことだった。


崩れ落ちるように。

声もなく。

ただ、虚空を見つめていた。


妹が。

あの子が。

誰よりも純粋で、誰よりも優しかった、あの子が――


「……紫乃……っ」


彼の唇から、声にならない名前がこぼれた。


次の瞬間、何かが砕けた。


冷静で、誰よりも理知的だった彼の瞳から、感情の蓋が外れた。


壊れたのだ。

理性が、感情が、信頼が、そして「人としての何か」が。


彼は紫乃のもとへ向かった。

笑顔で迎えた彼女に、黙って近づき――


そして、檻を作った。


紫乃を閉じ込めた。

何も言わず、ただ、閉じ込めた。


その翌日、沙羅も連れ去られた。


理由は聞かなかった。

ただ、その「共犯の沈黙」がすべてだった。


彼は言った。


「おまえたちが、俺の妹を壊したんだ。

 だから、俺も――おまえたちを壊す」


その声は静かで、そして何より深く冷たい。


紫乃は最初、笑っていた。

「愛してるからやったのに」と。


沙羅は、ただ泣いていた。

壊れていく親友を、どうしても止められなかった自分の弱さを、

何よりも責めながら。


部屋には明かりが灯らなかった。

音楽も、会話もなかった。


あるのは、沈黙と、

長い、終わらない償いだった。



気がつけば、そこはもう別の世界だった。


頬を打った冷たい風――それが最後の外の空気だったのかもしれない。

私と紫乃は、車に乗せられ、何も説明のないまま連れて行かれた。


目的地も、理由もわからないまま、私たちはただ――彼の顔だけを信じていた。


けれどその扉が閉まった瞬間、すべては変わった。


がちゃり。


厚い鉄の扉が音を立てて閉まる。

それと同時に背筋を冷たいものが走った。


私たちは、閉じ込められたのだ。


「え……? え、ちょっと待って……」

私が声を上げると、紫乃は黙って部屋の中を見回していた。


窓はある。でも鉄格子。

壁は分厚いコンクリート。

空調だけはしっかりと整えられている。

清潔だが、無機質すぎて、どこにも「帰る場所」の匂いはしなかった。


そして、数分後。


扉の向こうに、彼が現れた。


「ああ、もう来なくていい。……部屋の管理だけ頼む」


そう言い放った彼の声は、かつて私たちが知っていたそれではなかった。

低く、乾いていて、感情の熱すらなかった。


紫乃が、彼の名を呼ぶ。


「……どういう、こと……?」


その声も、あの紫乃のものとは思えないほど、震えていた。


彼は、答えた。


「俺の妹を売った報いを、これから支払ってもらう。――二人でな」


そう言って、また扉が閉まった。


がちゃん。

ゆっくりと、重く。


**


沈黙が落ちた。


紫乃は唇を噛みしめ、私は目を見開いたまま、何も言えなかった。

事態を理解するには、あまりに心が追いつかなかった。


「――ねぇ、沙羅。これ……冗談じゃないよね?」


紫乃が絞るような声で私を見る。

私は、かすかに首を振った。


そして、あのとき感じた感覚。

心の底から這い上がってきた、吐き気のような罪悪感が胸を締め付けた。


私たちは、本当に閉じ込められたのだ。

この場所で、彼の怒りのままに


紫乃は私の肩にすがってきた。

私は、彼女の髪をそっと撫でながら、ただ一つだけ思った。



ギィィ……。


長く軋む音を立てて、重い鉄の扉が開いた。

その音を聞いた瞬間、紫乃が息を飲んだのが分かった。

私も同じだった。心臓が、ひとつ跳ねた。


彼が来る――。


そこに立っていた彼は、以前の彼じゃなかった。

冷静で、聡明で、優しく、私たちを時にからかって笑っていた彼ではない。

黒いシャツの胸元には一切の皺がなく、髪はよく整えられていた。


だけど――

目が、死んでいた。


「……来たわね」

紫乃の声が震えた。

あの紫乃が、はじめて震えた声を出した。


彼は何も言わず、ただゆっくりと室内を見渡した。


そして、私と目が合った。


氷のような視線だった。

なにも語らないのに、すべてを刺してくるような視線。


「――彼女は、関係ないのよ」


紫乃が叫んだ。


「沙羅は、私に巻き込まれただけ。すべて、私が仕組んだことなの。だから……だから、どうか彼女だけは、助けて」


私の手をぎゅっと握る。

震える紫乃の手。

あの誇り高かった紫乃が、涙を浮かべて、膝を折って、懇願していた。


「お願いします……っ、お願い、します……っ!」


彼は、静かに歩み寄ってきた。

紫乃の前に立つと、その懇願を見下ろすようにしばらく無言だった。


そして――

彼は言った。


「君は、彼女を“巻き込んだ”んじゃない。共犯にしたんだよ」


その声は冷たかった。

どこか、もう人間じゃない何かのような、乾いた音だった。


「君が手を汚したとき、彼女は止めなかった。黙って従った。……君が売り飛ばしたのは“妹”だが、彼女が差し出したのは“家族”そのものだったろう?」


紫乃は肩を震わせながら、首を振った。


「違う……沙羅は、そんなつもりじゃ……彼女は、ただ私を……」


「“ただ”なんて存在しない」


彼は言い切った。


「君がどれだけ泣こうが、叫ぼうが、命乞いしようが――俺の妹は、帰ってこない」


その瞬間、紫乃が崩れるように地面に倒れ込んだ。


私は何も言えなかった。

言葉なんて、彼の前では無力だった。

いや、私自身が無力だった。


扉は再び、重く閉じられた。

ガチャンと響く錠の音が、心の奥に突き刺さる。


紫乃は、静かにすすり泣いていた。

私はただ、その背中を抱くしかできなかった。


私は、もう赦されない。

あの日から、ずっと。

たとえ紫乃が願っても、

私は、あの人の中では「加害者」でしかない。


そしてその罪の重さは、これからもっと、深く私を押し潰していくのだと――このとき、ようやく理解したのだった。



監禁されて何日が過ぎたのか、もう正確には分からなかった。

時計がなく、朝と夜の区別もつかない。けれど、食事だけは一日三回、律儀に届けられた。


味のしないパン、ぬるいスープ、水。


「……まるでおとぎ話の監獄ね」

紫乃が、皮肉めいた声で呟く。


その言葉には疲労と、どこか自嘲の色が混じっていた。


食事は無言で扉の小さな投入口から滑り込むように置かれる。

配膳する姿を見ることは一度もなかった。けれど、私たちが「見られている」ことは常に感じていた。

壁の隅にある、小さな赤い光。

カメラの存在が、息をすることすら重たくした。


紫乃は以前のように背筋を伸ばして食べることもなくなっていた。

それでも、箸のように指先を使い、綺麗に食べる仕草だけは変わらなかった。


「……慣れてしまうのって、恐ろしいね」


ある日、私がそう漏らしたとき、紫乃は小さく笑った。


「人はどんな場所でも、生きてしまうのよ。生きるために、忘れるの。自分が誰で、なぜここにいるのかを」


その言葉を聞いて、胸が痛くなった。


最初のうちは、私はまだ「ここから出られるかもしれない」と思っていた。

彼が怒りを収めれば、きっと、私たちを解放してくれるのではないかと。


でも、紫乃は違った。


「彼は、許さないわ。……私が彼から奪ったものは、“妹”という名の、彼の世界そのものだったのだから」


紫乃の目が、どこか遠くを見つめていた。

かつて、ピアノの鍵盤を見下ろしていたときと同じ目。

集中しきって、誰にも触れられない、あの孤高の光。


「私……怖いの。紫乃がどんどん遠くなっていくようで」


そう言ったとき、紫乃ははじめて私の手を握ってくれた。

か細い指。震えていた。

彼女だって、壊れかけているのだと、はじめてわかった。


「沙羅。私、あなたがいてくれてよかった。……最後まで、一緒にいて」


私は強く頷いた。


その日から、私は紫乃の髪をとかし、体を拭き、目を合わせて笑うようにした。

話をすることで、かろうじて“人間”でいられる気がしたから。


心理は、少しずつ変化していった。


最初は「許されたい」と思っていた。

それが「終わってほしい」に変わり、

いつしか「せめて紫乃と一緒にいられるうちは、壊れたくない」と願うようになった。


それが、この場所で私が守れる、たったひとつの“意志”だった。



そして彼は私達にそういうことをし始めた。私たちは抵抗したが、拘束され衰弱した体ではどうすることもできず、腹が膨れる、つまりそういうことになった。彼はその様子を見て、狂気に満ちた顔で今度は私達に指一本触れることもなく、妹の写真を掲げはじめた。


私たちの罪悪感を掻き立てたいのかなと思ったが、私たちはこの状況で精いっぱいだった。あの薄暗い部屋の中で、私たちはずっと一緒にいた。


傷だらけの手首も、膨れた腹も、かつての誇りも、名前すらも、

すべてが意味を失っていくなかで――

紫乃だけは、私のそばにいた。


「沙羅、ごめんね……本当に、ごめんなさい……」


何度も、紫乃はそう言った。

あの完璧だった彼女が、誰よりも美しく、聡明だった彼女が、

もう涙も枯れ果てた声で、ただ私の名前を呼んでいた。


だけど、私は首を振るしかできなかった。

「違うよ、紫乃。私は……自分の意思で、あなたの隣にいたの」

「私は、あなたが堕ちていくのを止められなかった。

でも、それでもあなたを……見捨てたくなかった」


きっとあのとき、私は助けることも、救うこともできた。

でも私は――ただ一緒に、沈んでいくことを選んだのだ。


なぜかって?

答えは単純だった。

紫乃が私にとって、すべてだったから。


憧れだった。

光だった。

世界で唯一、私を「対等」と呼んでくれた人だった。


罪の意識が胸を裂いても、

後悔が喉元を焼いても、

あの人を見捨てることだけは、私にはできなかった。


紫乃がどれだけ狂っても、間違っても、

私は彼女を、最後まで「友達」だと信じた。


そして、紫乃も――

同じように、私を信じてくれていた。

何もかも失ったあとでも、

この地獄のような最期のときでも、

私たちの間に残ったのは、友情だけだった。


それは誰にも理解されない。

きっと赦されない。

でも――


“罪”だけが絆だったわけじゃない。

“罪の中でも手を離さなかったこと”が、私たちのすべてだった。


紫乃は泣きながら私の手を握っていた。

その温もりを、私は今でも覚えている。


それが、私たちの友情だった。

壊れた世界のなかで、最後まで残った、唯一の真実だった。


最初は、ただの祈りのようだった。


彼は静かに、妹の写真を部屋の中央に置いた。

小さな燭台を四隅に並べ、蝋燭の火をひとつひとつ、指でつまむようにして灯した。


部屋は深い闇と、赤い光に包まれていく。

まるで、何かが始まる前触れのように。


「今日で……ちょうど、一年だ」


彼は呟いた。

彼の妹の命日だった。


「なあ……君は、何を望んでいた?」


誰にも届かぬ問いを、彼は宙に向かってささやいた。

そして、紫乃と私に背を向けたまま、彼はゆっくりと手を合わせる。


その姿はまるで、神に祈る司祭のようだった。

いや、神を自分で作ろうとする、邪教の教祖のようだった。


妹の写真は、その神像だった。


「この二人が……君を壊した。

だから、君の“形”に彼女たちを変えようと思うんだ。

君が失った未来を、君の憎しみを、彼女たちに焼きつける」


彼の声は静かで、まるで祝詞のようだった。


私はその場にいながら、目を逸らしてしまった。

目の前の彼は、もう“人間”ではなかった。


――復讐の神だった。

誰にも理解されず、ただ一人で祈り、崇め、そして壊していく存在。


その狂気の中で、彼は私たちを「生贄」として見ていた。

贖罪ではなく、慰めでもなく、意味を持たせるための供物として。


紫乃が震えていた。

私の手を強く握りしめる。


でも私は、手を握り返すことしかできなかった。

ただ、それだけだった。


やがて、鉄扉がゆっくりと開き、冷たい風が吹き込んだ。


音もなく男が入ってくる。かつて優しかったはずの瞳は、もう凍りきっていた。

その手には、よく手入れされた刃物。研ぎ澄まされたそれは、ためらいなく命を奪うための道具だ。


紫乃が小さく呻いた。妊娠で重くなった身体では、逃げることも、立ち上がることもできない。


私も同じだった。


「……蒼真……」

紫乃が名前を呼ぶ。震える声で。もう、赦しを請うこともできず、ただその名を吐くしかなかった。


だが、男は答えない。


代わりに、私が口を開いた。絞り出すような声で、隣に横たわる親友に語りかける。


「紫乃……。怖くないよ。私は……怖くない」


「どうして……! どうしてなの、沙羅……! 私が、あなたをこんな目にあわせたのに……!」


紫乃は泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を堪えきれずにいた。

その隣で、沙羅はゆっくりと紫乃の手を取った。指は細く、痩せていた。けれど、その手はどこまでも優しく、静かに震えていた。


「……私はね、紫乃。何度思い返しても、結局……あなたが、好きだった」


「やめて……お願い、そんなこと言わないで……っ」


「たとえ全部を失っても。親も家も、命すらも……

それでも私は、あなたが好きだった。あなたが奏でるピアノが、笑った顔が……

間違えて、傷つけて、それでも私に泣いて謝ってくれたあなたが、ずっと、ずっと、好きだったの」


紫乃の涙が止まらなかった。


「私……沙羅……沙羅……あなたを、友達と呼べる資格なんて……っ」


「あるよ。私がずっと、それを望んでたから」

私は、微笑んだ。

それはもう、最期に持てるすべての気力を込めた、かすかな微笑だった。


「あなたが、私を友達って呼んでくれたから。私は、友達でいられた」


足音が近づく。

冷たい金属が、ふたりに落ちる。濡れた音が地下に響くのにはそう時間がかからなかった。


紫乃は、手を離さなかった。私も、紫乃の手を握り続けていた。

死が迫るその瞬間まで、ただ手を繋いでいた。涙と汗と降りかかる血で濡れた手を、強く、強く、離さずに。


その刹那——


「ねぇ、紫乃。最後まで、あなたの隣でいられて……幸せだったよ」

私は、最期の言葉を風に乗せた。


それは懺悔ではなく、赦しでもなく、

友情という、静かで、あたたかな愛の名残だった。少なくとも私にはそれが事実だった。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。


紫乃と沙羅――二人の絆は友情だったのか、それとも愛だったのか。

壊れていく人間関係の中で、唯一残ったものは何だったのか。


少しでも、読後に「心が揺れた」と感じていただけたなら幸いです。


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