第9話
第9話
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ふたりがようやく辿り着いたのは、
夜の帳が下りてもその威厳を失わぬ、静寂な伝統家屋だった。
扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。
月明かりが細く射し込む長い廊下、
丁寧に手入れされた庭園、
そして張り詰めたような無音の空気。
少年はそのすべてを、
まるで吸い込むように、ゆっくりと深呼吸した。
「ここが……君の家なんだね」
「うん。ちょっと広いけどね、あはは…」
ホタルは先を歩きながら、ある一室の戸を静かに開けた。
「ここ。今は誰も使ってないから、君が使って」
少年はこくりとうなずき、室内を見回した。
過剰なものは何もない、けれど整然とした空間だった。
「荷物はここに置いて。私は先にお風呂に入ってくるね」
そう言って、ホタルは軽く手を振りながら廊下の奥へと消えていった。
少年はしばらくその場に立ち尽くしたあと、
小さな荷物を床に下ろし、静かに荷解きを始めた。
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その頃、ホタルは温かな湯に身を浸していた。
「……一体、なんだったのかな。
あの言葉……そして、あの倒れ方……」
思考は渦のように回り続け、
やがて現実的な問題に行き着いた。
「でも……連れてきたはいいけど、何を頼めばいいんだろう?」
頭を抱えて考えていたその時、ふと思い出す。
「あ、タオル忘れた……!」
彼女は、少年がまだ自室にいるだろうと思い込み、
静かに浴室の扉を開けて、
素肌のまま、こっそりと足を踏み出した。
「ちょっとだけなら……大丈夫だよね」
だが――
「……」
ばったりと、少年と目が合った。
「きゃああああああっ!!」
ホタルは絶叫し、猛然と浴室へ駆け戻った。
少年はあまりの衝撃に顔を真っ赤にして後ずさり、
壁に後頭部をぶつけてその場にへたり込んだ。
湯船に飛び戻ったホタルは、
どくどくと鳴る心音を抑えようと深く息をついた。
「……こういうのには弱いのね……ふふ」
なぜか可笑しくなってきて、思わず笑みがこぼれた。
そっと扉を開けると、床に落ちたタオルが目に入った。
「……これで、なんとか」
身体を拭いたホタルは着替えを済ませ、
少年の部屋へ向かう。部屋はきれいに整えられていたが――
「……荷物、少な……全部、古びてる……」
『明日、一緒に買いに行こうかな』
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少年の姿が見えなかった。
ホタルは家中をくまなく探した。
「どこ行ったんだろ……」
そして、月明かりが差し込む中庭の奥で、
彼を見つけた。
少年は静かに夜空を見上げていた。
ホタルがそっと近づくと、
彼は先にこちらを見て小さく口を開いた。
「……さっきは、ごめん」
「大丈夫。そういうの、弱いんだね? ふふ」
赤くなった少年の頬に、ホタルは笑った。
「で、私は何をしてもらえばいいかな?」
少年の問いに、ホタルは少し考えて――
「……実はまだ決めてないけど……とりあえず、お掃除?」
「他には?」
「思いついたらお願いする!」
少年はまた、控えめな笑みを浮かべた。
そしてふたりは、再び空を見上げた。
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沈黙の中、
夜空には一片の雲もなく、
澄みきった月光が庭に注がれていた。
ホタルは、ぽつりと呟くように言った。
「……ありがとう」
「ん?」
「私、外では友達が多いの。
笑って、ふざけて、騒いで……そういうの、得意だから」
しばらく間を置いて続けた。
「でも、家に帰ると……ずっと一人。
お父さんもいないし、お母さんも兄弟も……誰も」
少年はただ黙って聞いていた。
「だからね、友達が家族みたいだった。
一緒にいる時間が、何よりも大切で――」
ホタルは少年の方に視線を移すと、
少し恥ずかしそうに付け加えた。
「君のことも、そう感じたの。
なんとなく、私と似てるって」
少年は驚いたように目を見開き、
その言葉を噛み締めるように小さく呟いた。
「……家族」
「うん」
ホタルは頷いた。
「最初は、ただ……一緒にいたかっただけ。
でも、こうして過ごしてると……何て言っていいか分からなくなる」
照れくさそうに笑って、
「私、何言ってるんだろ……あはは」
「ま、とにかく……これから、よろしくね」
少年は静かに微笑み、深く頷いた。
ホタルはその笑顔を見て言った。
「……やっぱり、笑ってるほうが似合うよ」
そして、からかうように続ける。
「髪が長くて顔がよく見えないけどね?」
少年は小さく笑い、ホタルも笑った。
しばらくして、少年は立ち上がり、
月明かりがよく見える場所へ歩いた。
ホタルもそのあとに続く。
少年は夜空を指さしながら尋ねた。
「……あの月と夜空、君にはどう見える?」
ホタルはしばらく黙ってそれを見つめ――
そして笑顔のまま、こう答えた。
「……なんか、気持ち悪いね」