第8話
第8話
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その瞬間、ホタルの心臓は凍りついた。
感情のすべてが底抜けに崩れ落ちたような、空虚な感覚。
あの言葉。
「君の後ろにいる人。」
その声に、意識が切れそうになるほどの恐怖が襲ってきた。
ホタルは反射的に振り返った。
——しかし、
そこには、誰もいなかった。
ホタルは震える声でつぶやいた。
「……なに、言ってるの……?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、
少年はまるで独り言のように、低く、深く囁いた。
「呪いか……? ついに姿を現したか……
時間が来たのか……前は確信が持てなかったが……」
その言葉は、もはやホタルの理解を超えていた。
知らない言葉、音の調べ。
まるでずっと以前から知っていたかのような口調。
そして、さらに続けた。
「ホタル、今日は本当によく来たね。」
「来なかったら……今日、君は死んでいたよ。」
「君の兄弟たちと同じように。大切な人たちも……」
その瞬間、ホタルの口からは声すら出なかった。
その意味を問いただす勇気など、なかった。
周囲の夜気は急に冷たさを帯び、
草むらの虫の声は不気味に響き、
遠くでは正体不明の獣のうなり声が混じって聞こえてきた。
ホタルは全身を震わせた。
息が詰まり、膝から力が抜けた。
少年は頭を深く垂れたまま、
ふらつきながら、確かな足取りで彼女に近づいてくる。
ホタルはただ呆然と見つめるしかなかった。
胸の鼓動が耳を突き破りそうなほどに打ち鳴っていた。
そして——
少年はホタルの目の前で立ち止まった。
うつむいたまま、しばし沈黙した後、
ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、いつものような無表情。
ただ、そこに薄く笑みが浮かんでいた。
「……おなか、すいた……」
そして、そのまま崩れるように倒れた。
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「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
ホタルはあわててその場にしゃがみこんだ。
何が起きたのかも理解できず、ただ少年を見つめた。
しばらくして、少年の目がゆっくりと開いた。
彼は夜空をぼんやりと見上げ、
やがてホタルの顔をじっと見つめた。
「ここは……どこ……?」
「……いつから、いたっけ……?」
ホタルはようやく呼吸を整え、
そっと取り出したおにぎりを差し出した。
「……ずっと、ここにいたよ。
ただ、なんか……急に、変になって……」
少年は小さく「ありがとう」とつぶやき、
おにぎりを受け取って口に運んだ。
そして、静かに言った。
「ホタルは……大丈夫だよ。」
その言葉に、ホタルの目から涙が溢れた。
なぜかはわからなかった。
でも、そのひとことが――とても、温かかった。
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しばらくして、ホタルは慎重に口を開いた。
「ねえ……さっき……
私の後ろに、誰かがいるって……言ったよね?」
少年は細く目を細め、首をかしげて答えた。
「……僕、そんなこと言ったっけ?
よく覚えてないな……」
そして、はっきりとこう言った。
「でも、大丈夫。
もう、心配ない。」
その言葉には、説明できない重みがあった。
ホタルはそれ以上、何も聞かないことにした。
代わりに、話題を変えるように言った。
そのとき、少年が少し顔を赤らめた。
「……ごめんなさい。
知らないうちに……ため口で……」
ホタルはくすっと笑った。
その照れた様子が、なぜか微笑ましかった。
「気にしないで。
だって――友達でしょ?」
少年は、その言葉をゆっくりと反芻した。
「……友達……」
それは、慣れない。でも、どこか心地よい言葉だった。
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「さっき、言いかけてたんだけど……」
ホタルは顔を赤らめたまま言った。
「うちでね、手伝いが欲しくて……
ちょっとの間、助けてくれない?」
少年は一度は断ろうとした。
でも、彼女が何度も自分を助けてくれたことを思い出して――
小さくうなずいた。
「……わかりました。」
「友達なんだから、敬語とかいらないよ?」
ホタルはにっこり笑った。
少年は小さく「うん」と答えた。
「で、何をすればいいの?」
少年が尋ねると、ホタルは目を輝かせて言った。
「今すぐ、うちに来て。」
少年は目を見開いた。
「えっ……今!?」
「もうすぐ台風来るって言ってたし、準備しなきゃ!」
そうして、少年は戸惑いながらも
ホタルに引っ張られるようにして歩き出した。
いったん家に戻って簡単な準備を整え、
ふたりは夜道を並んで歩いた。
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夜が深まるころ、
ふたりはついにホタルの家の門前にたどり着いた。
そこは――
伝統的で巨大な屋敷。
威厳と美しさを兼ね備えた、村でも有数の名家だった。
少年は門前に立ち、
静かに扉を押し開けながら、そっとつぶやいた。
「……お邪魔します。」