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第1話

第1話:名前のない子




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台風は、いつものようにやって来た。




この村では、台風は特別なものではない。


年に何度も訪れ、地面を濡らし、屋根を揺らし、


葉をちりぢりにして風に舞わせていく。




人々はその繰り返しを受け入れて生きていた。


緊張でもなく、習慣として。


災害ではなく、季節の一部として。




丘の上の家々では窓が閉ざされ、


子供たちは奥の部屋に静かに座っていた。


男たちは岩場のほうへ降りていき、


船が流されないように縄を引き締めていた。




風が強まり、雨が額を割り、


空気は乾いていたかと思えば、すぐに湿気を帯びていた。




この光景は、この村では特別なものではなかった。




ただ、その日——


一人だけ、少し違う理由で海辺を歩いていた者がいた。




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村の下、丘を抜けると、


半分崩れた倉庫がある。




そこには一人の老婆が住んでいた。


この村で最も年老いた、最も静かな人物だった。




彼女は台風が来るという噂を聞き、


いつものように、最後の薬草の根を取りに外に出ていた。




その時だった。


背中に籠を背負い、湿った草の間を踏みしめていたとき、


彼女は海岸のほうに視線を送った。




そして、それを見た。




海辺の岩陰に——


濡れた石の上に、


かすかに揺れる布の切れ端があった。




この風の中で、


あれほど精緻に置かれているはずがない。




彼女はそう思った。




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布は古びていた。


自然にさらされたというより、


誰かの手を経て、ここまで運ばれてきたようだった。




そしてその下に、


確かに人がいた。


正確に言えば——


子供だった。




小さく、痩せていて、


目を閉じており、


気配は静かだった。




だが……命はあった。


とても軽く、ゆっくりと、ほとんど聞こえないほどに。




老婆はそっと足を踏み出し、


布の上に手を伸ばした。


その感触は、温かかった。




子供の顔は、この地の人々とは少し違っていた。


目尻の角度、


鼻筋の線、


肌に浮かぶ色味。




「変わった子だねぇ……」




彼女はそう呟くと、


ゆっくりとその子を抱き上げた。




風が一度、強く渦を巻いた。




その瞬間、


海から水しぶきが上がり、


崖の下に隠れていた小さな裂け目が一瞬だけ見えた。




だが、老婆はそれを見なかった。




彼女はすでに、


子供を抱えて、


村へ向かって歩き始めていた。




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風は夜遅くまで庭を巻いていた。




窓枠が軋み、


軒下からは雫が落ちる音が、


低い息遣いのように続いていた。




老婆は子供を寝かせたあと、


暖炉の前に座り、静かに手を温めていた。




この子が誰なのか、


どこから来たのか、


すぐに問い詰める理由はなかった。




今はただ——


息をしているということだけで十分だった。




だが、不思議な気配があるのも確かだった。




この子は、あまりにも静かだった。




見知らぬ者が運ばれたこの古い部屋で、


一度も泣かず、


怯えた様子も、警戒もなかった。




かといって大人びているわけでもなかった。




老婆はその子を見つめ、


ぼそりと声を出した。




「言葉……話せるのかい?」




子供は何も返さなかった。




目を閉じていたが、


その沈黙は、まるで聞こえていることを確信させるような静けさだった。




老婆は黙って、


背もたれに身を預けた。




炎が、小さく音を立ててはぜた。




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数日が過ぎた。




老婆は子供を「この子」と呼ぶようになった。


特別な名前があったわけでもなく、


聞ける相手もいなかったので、


ただそう呼ぶことにしたのだった。




子供も反応を示さなかった。




自分がどう呼ばれても気にする様子はなく、


静かに部屋の中を歩き回り、


外に出れば庭の隅に座り込んで、


一日中小石を転がしたり、


小さな草をちぎったりしていた。




食事を出せば黙って食べ、


夜になれば自分から眠った。




老婆は次第に、


この子が何か「足りない」のではなく、


「ただ静かな子」だという印象を抱くようになった。




その方がむしろ、


心地よかった。




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そんなある晩のことだった。




老婆は、子供が部屋の隅で何かを描いているのを偶然見かけた。




指先で、


積もった埃をなぞるようにして、


細い線を描いていた。




それは図形でも、文字でもなく、


ただの曲線のように見えた——


だが不思議と、その線は


ずっと昔からそこにあったかのように思えた。




老婆は声をかけなかった。




ただ黙って見つめ、


そっとその場を離れた。




その瞬間、子供が振り返り、


老婆を見つめた。




その目には、


何も宿っていなかった。




けれど——


その視線を受けたあと、


老婆はなぜか深い疲労を感じた。




沈黙というものは、


ときに人をあまりにも深く引き込むのだ。






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この村は、古い。




歴史書には残っていないが、


村人たちは、自分たちが「記録以前」からここにいたと信じていた。




空はよく曇っていた。


曇りだからといって、必ずしも雨が降るわけではない。




海は静かだったが、浅くはなかった。


崖の下には今でも誰も足を踏み入れない裂け目が残っていた。




誰がそれらを数えたのかは分からないが、


子供たちが近づくと、大人たちは叱った。


その言葉には、わずかだが確かな恐れが混じっていた。




村の中央には石柱が立っており、


その周囲に店や道場、神社が集まっていた。




石柱には古い文字が刻まれていたが、


読める者はいなかった。


ただ、「村を守る何か」だと、そう言われていた。




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老婆はこの村で最も長く生きていた者の一人だった。




若い頃は三人の子を持ち、


三人とも他の村との争いで命を落とした。




和解も、謝罪もなかった。


あの時代のことは、


ただ「昔はそうだった」と曖昧に片付けられた。




今は一時的な休戦状態だった。


別の大きな村が仲裁に入ってから、


表立った衝突は止まっていた。




都も様子をうかがっていたが、


そちらはすでに他の戦で忙しく、


この辺境の村までは目を向けていなかった。




老婆は多くを語らず、


自分の過去を誰かに話すこともなかった。




彼女がこの子を受け入れたのも、


誰かを家族のように迎えようとしたわけではない。




ただ——


この子はあまりに静かで、


自分に似ている気がしたのだった。




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その子は弱かった。




息は浅く、しばしば熱を出し、


階段を数段登っただけで咳き込んだ。




他の子供たちと交わるには、あまりにも静かすぎて、


朗らかでも、活発でもなかった。




さらに、


彼は時折とても不思議なタイミングで立ち止まることがあった。




突然、誰かの声に反応するように空を見上げたり、


空気の一角をじっと見つめたり。




その姿はまるで、


「聞こえない言葉」を聴いている人のようで、


大人たちも安易には話しかけられなかった。




しかし彼は——


季節が一巡する頃には、少しずつ言葉を話し始めていた。




誰にも教わったわけではなく、


本を見せられたわけでもないのに、


彼は大人たちの言葉を、ほぼそのまま真似た。




流暢とは言えなかったが、


彼の口から出る言葉は、


いつも「まさにその時に」だけ現れた。




老婆は驚いたが、


わざわざ感嘆を口に出すことはしなかった。




ただ、


彼を見つめながら、ぽつりと呟いた。




「不思議な子だねぇ。けど……人間は人間さ」




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そしてある日、


村の祭りの日がやってきた。




この村の祭りは毎年、台風が過ぎ去った後、


最初の満月の夜に開かれる。




一年を無事に越せたことへの感謝と、


次の嵐を乗り越える力を願うための行事だった。




今年は近隣の村々からの来客もあるという。




紛争が一時的に止んだおかげで、


いくつかの大きな村の代表たち、


さらには都から派遣された役人までもが来る予定だった。




「今年は少しにぎやかになりそうだねぇ」


老婆は祭りの前日、そう言って子供に話しかけた。




「道場の連中も、なにか見せるつもりみたいだよ」




子供はその言葉に特別な反応を示さなかった。




興味がないわけではなかったが、


彼は人の多い場所を苦手としていた。




まるで、


音や視線のすべてが自分の輪郭を溶かしてしまうような、


そんな錯覚を抱いているかのようだった。




老婆はそれ以上は聞かず、


静かに準備を進めた。




そして祭りの朝、


空は晴れ渡り、


雲ひとつなかった。




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祭りは、村の中央広場で行われた。




それほど広い場所ではなかったが、


人々が手作りの飾りや旗を立て、


丁寧に、密やかに飾り立てていた。




香の匂いが漂い、


煮立つ味噌の蒸気の向こうから


老人たちのゆるやかな会話が聞こえてきた。




子供たちは広場を走り回りながら


屋台の鈴を鳴らし、


村の若者たちは腕相撲をして賑わっていた。




その中心に、


静かに立っている少年がいた。




名前を持たずにやってきた子。


今日も名前のないままに、


老婆の後をついて祭りにやってきた。




彼は足元の土だけを見つめながら歩いていた。




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「ねえ、なんでそんなに静かにしてるの?」




小さな声に、少年は顔を上げた。




自分より一、二歳年上に見える女の子が、


両手を背に組んで、


首をかしげながらこちらを見ていた。




その後ろには、同年代の子供たちが何人か続いていた。




彼らは無理にちょっかいをかけてきたわけではなかったが、


彼の静けさが気になって仕方ない、といった表情だった。




少年は答えなかった。




だがその瞳には、拒絶の感情は浮かんでいなかった。




「こっち来て、一緒に行こうよ。あっちで道場の人たちが何かやってるの」




彼は一瞬迷ったが、


小さくうなずいた。




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道場の人々はすでに中央に陣取っていた。




剣を持った修練生たちが、


決められた動きをなぞるように、


一糸乱れぬ型を繰り出していた。




その動きには狂いがなく、


掛け声は地面を震わせた。




人々はその速さと正確さに拍手を送り、


子供たちは歓声を上げた。




一方、演舞の傍には、


見慣れぬ服を着た男たちが二人立っていた。




都から来た役人だという噂だった。




道場の館主と長く言葉を交わしながら、


ときおり観客の様子を鋭く見回していた。




少年はそこで、


ただ静かに立っていた。




剣も、人も、声も。


すべてが、まるで


自分とはまったく関係のない、


遠い世界の話のように思えた。




けれども視線は、


剣先の向かう先へと何度も吸い寄せられた。




なぜだろうか。


彼自身にも、それはわからなかった。




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祭りが日暮れ時になると、ようやく静まりはじめた。




子供たちは疲れ、


年寄りたちは椅子を片づけ、


露店の人々も品物をたたみ始めていた。




じっと立っていた少年のもとに、


再びあの女の子がやってきた。




「ねえ、あんまりしゃべらないんだね?」




少年はうなずきもせず、


首も振らなかった。




ただ、


彼女の顔をじっと見つめていた。




「でも今日は、ちょっと楽しかったでしょ?」




その言葉に、


少年の瞳がかすかに揺れた。




それが、


彼が見せた唯一の感情だった。




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夜になった。




老婆は少年よりも少し早く家に戻り、


少年は一人で村の外れを歩いていた。




風が頬を撫で、


秋の気配が額に触れた。




空には星がくっきりと瞬き、


月はいつもより低く浮かんでいた。




少年は丘の上でしばらく立ち止まり、


誰もいなくなった静かな村を見下ろしながら、


空を仰ぎ見た。




彼は何も言わなかった。


だがその瞳には、


何かを「読んでいる」ような気配があった。




彼が見ていたのは、


空そのものというよりも、


空の「隙間」だった。




その隙間のどこかに、


誰も気づかないような、


かすかな揺らぎが潜んでいた。




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家に戻った瞬間、


少年は立ち止まった。




家の中は静まり返っていた。


暖炉の火は消え、


部屋には風すら止まったような静寂が満ちていた。




少年は慣れた扉を開けた。


そして——


そこに静かに横たわる老婆の姿を見つけた。




動いていなかった。


呼吸も、気配もなかった。




その沈黙はあまりにも完全で、


それが別れであることを伝えていた。




少年は無言で立ち尽くしていた。




その顔には感情の影はなかったが、


その沈黙の奥底で、


何かがゆっくりと、ひび割れていく音がした。

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