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朝日がちょうど顔を出し始めた時刻。
夜の寒さがまだ残り、ひんやりとした静けさが身に沁みる。風が一つ吹き、なんとなく緊張感が高まっている中、騎士団員たちは遠征のために、馬車や馬の準備をしている。
アリアは、いつもの様に紺色の服を着て厚めの上着を羽織り、その光景をなんとなしに眺めていた。
「聖女様、あと少しでご用意できますので、今しばらくお待ちください」
「ありがとうございます。私は大丈夫ですので、ゆっくりで構いませんよ」
この国唯一の聖女をぼんやりと待たせていることに気を遣い、団員の一人が申し訳なさそうに声をかけてきた。
ほとんどの任務は、聖女頼みで計画を立てられていると言っても過言ではない。団員の治癒や土地の浄化、魔の脅威まで追い払える力を持っているアリアは、本来であればもっと傲慢でも誰も何も言えないのだが、そんな素振りは一切見せない。
「私は、皆さんをお支えすることしかできませんので。騎士団さんの都合に合わせますね」
それどころか、一団員にすら謙虚すぎる言葉まで投げかけるのだから、言われた方も畏れ多いと身を固くしてしまう。
「おはよう、準備できてる?」
「団長、おはようございます。ほとんど出発の準備はできております。あと最終確認だけです。もうしばらくお待ちください」
そんな最中、二人の後ろからゆっくりとラスが歩いてきた。明らかに誰よりも遅くきた彼は、それが当然かと言う態度でいる。
「そっか、俺が乗る馬車は?」
「団長の馬車はあちらです。既にご用意できています」
団員が指差したのは、先頭から二番目に停められた馬車だった。黒色を基盤に黄金で装飾されたその馬車は、他のどれよりも大きく豪華だった。
「先に向かうよ」
「はい、しかし、全体の最終確認が……」
「あのねえ、女の子をいつまでもそんな所に立たせてたら駄目だよ。先にアリアちゃん乗せるから、それから確認するよ」
そう言うとラスは、アリアの腰を支えて馬車の方に誘導して行った。アリアは突然の出来事に驚いて目をパチクリとさせているが、そんな事はもちろん気にしないラスはさくさくと歩いていく。
「あ……はい! 申し訳ございません!」
その背後で、団員は呆気に取られながらも、直角に腰を折り曲げて謝罪をしている。アリアはそんな姿を見て申し訳なくなったが、ラスに背中を押されて歩いていった。
「あの私、大丈夫ですよ。ラス様達の方が、お忙しいかと思いますし……」
「いいからいいから、早く乗って。そうしないと面倒な人が、」
「アリア、もう出発なの?」
急かすように背中を押すラスと、それに遠慮しながらも従うアリアの後ろから、凛とした女性の声が聞こえた。
「あ、ミランダ様」
「……ほら、来たじゃないか」
二人の後ろには、ブラウンの髪を肩の上で短く切り揃えた、背の高い女性が立っていた。深い紅色のドレスを着ているその女性は、美しくありながらも誰もよりも強く見えた。
アリアはその女性の姿を見てぱっと目を輝かせたが、それとは反対にラスはげんなりとした顔をしている。
「この国の姫君に向かってその態度はどうなのかしら、団長様」
そんなラスを見た、ミランダと呼ばれた女性は、額に青筋を浮かべて苛立ちを全く隠さずにそう言った。
「はいはい、ごめんなさいミランダ姫様。せっかくのところですが、俺は団員の最終確認で忙しいのでこの辺で失礼します」
煩わしいことになると察したラスは、両手を上げて適当に謝罪をし、いち早くこの場から去ろうと踵を返してしまった。
「ちょっと、待ちなさい。あなたまたアリアの事を、何でも屋みたいに扱ったでしょう。アリアが優しいからって、私は許さないわよ!」
ラスの背中に向かって大きな声で怒りの言葉をかけるが、当の本人ははいはいと適当に聞き流して、本当に去って行ってしまった。
「も、申し訳ございません、ミランダ様。せっかくこんな朝早くから来ていただいたのに……」
そんな様子を見ていたアリアは、多少なりとも自分が関わることで王族を不快にさせてしまったと胸が痛み、取り繕うように謝罪した。
「アリア、あなたはどこも悪くないのよ。悪いのはあの、適当で失礼で自分の事しか考えていないクズが悪いのよ」
「そんな、ラス様も一応騎士団長ですし、色々と努力されているかと……」
くるりとアリアの方を向き、ミランダは淡々とラスがどれだけ駄目な男かを説明する。しかしアリアは言葉に詰まりながらも、反射的にそれを否定していた。
ミランダはそんな様子を見て、頭を押さえながら深いため息を吐いて言った。
「あなたの好みを否定したくはないけれど、あの男はろくでもない奴よ? ちょっと見た目がいいからって、それを利用して毎日違う女と遊び倒して、仕事中も煙草を離さないし、予定構わず酒も飲むし」
「まあ、そこは何とも……」
アリアもそれらを自覚はしているため、さすがに庇いきれずに曖昧な返事をする。から笑いで誤魔化そうとしているアリアに、ミランダは真剣な顔をして向き直った。
「あなたの事だって、駒の一つとしか思ってないわよ。都合の良い、聖女の力を持った強力な駒だとね」
「…………はい、分かっています」
そうはっきりと言われてしまい、アリアはずきんと心臓を痛めながらも、なんとか笑顔を作って返事をした。
ミランダも傷つけようと思って言ったわけではない。ただ一心にアリアの幸せを願っての発言であることは、言われた本人も理解していた。
ただそれを素直に受け止め、納得できるほど、簡単に捨てられる恋心ではないことも、アリアはそれ以上に自覚していた。
「あー、もう。そんな顔しないでよ、アリアを悲しませたいわけじゃないの!」
ミランダは困ったと言いたげに、腰に手を当てながら首を振ってそう言った。
「何かあったらすぐ私に言ってね。これでもこの国の皇太子、未来の女王よ。素敵な縁談だって、聖女としての特別な席だって用意するわ。それくらい、あなたの事を大事に思っているし、あなたは価値のある人間よ。友達としての言葉だと思って受け止めて」
少し困った顔をしながらも、優しげにそう言ったミランダに、アリアはゆっくりと頷いた。
「はい、ありがとうございます。でも、今のところは何とかやっていますので、本当に大丈夫ですよ」
「そう、分かったわ。辛いことがあったらいつでも相談に乗るからね。とりあえず今日は怪我のないように、行ってらっしゃい」
そう言って、そっと手を繋いでくれたミランダに、アリアは笑顔で手を握り返した。
「はい、行って参ります!」
そう言うとアリアは、用意されていた馬車に乗り、手を振りながら扉を閉めた。
こんなにも可愛いのに、なぜあんな男しか好きになれないのか。
ミランダは苦虫を噛み潰したような顔で、アリアが乗った馬車を見つめていた。