6
「……それが、あんたの知ってる昔話か」
頷いた少女は、上目遣いで東雲を見上げた。なぜか睨まれているような心地がして、東雲は思わず目を逸らした。
「その後、あなたは殺されました。そのことがきっかけで、伏君は九尾の狐として覚醒してしまったんです。それを止めるために、私も死にました」
「そうか」
「それを全部、伏君は見てた」
気がつけば、桜宮は涙を浮かべていた。真っ直ぐに向けられた目は真摯な光を宿し、東雲を射ていた。
「どうして忘れてしまったんですか?」
頬を伝う彼女の涙は美しかった。こういうものこそ、あの綺麗な少年には相応しいもののような気がした。口元を多い、目を伏せて声もなく涙を流す少女を前に、東雲は何も言えなかった。
「ごめんなさい。こんなこと、私に言う権利も資格もないことは分かっているんです。でも、お願いです。思い出してください。伏君のこと、思い出してあげてください」
言われるまでもない。思い出したかった。あの不器用で優しい生き物のことを、過去に彼と生きた時間の全てを。
まだ短い付き合いだ。出会ってからこちら振り回され通しで、良い印象なんて持ちようもないのに。
声を掛けた東雲に気がついて、振り向いたときの彼の微笑みが忘れられない。抱きついてきたときの熱が、彼の髪から香った匂いが。
どうしてだか、ひどく懐かしくて。
気がつけば、東雲は走り出していた。
行く先は決まっている。あの、桜の木の下だ。
「なに、東雲、また来たの?」
山岸が横に腰掛けた。道路脇のガードレールに腰掛けていた東雲は、ちらりと彼を横目で見ると、そのまま視線を元に戻した。そこにあるのは、小さな桜の若芽だった。
「随分おっきくなったよな」
「……こんなもん、大きくなった内に入るか」
芽生えたばかりよりは幾分ましだが、まだ木とさえ呼べないような、そんなレベルだ。
日差しは柔らかく、頭上で揺れる梢は大分蕾が綻んできた。受験は終わり、東雲はめでたく希望の大学への入学を決めた。横に居る山岸も同じく。
「毎日、来てるよな。冬からずっと」
「待ち合わせしてんだ」
誰と、と訪ねる声はなかった。
もう何ヶ月になるのだろう。あれ以来、いくら来ても伏の姿は見つけられない。
行方の知れなくなった彼のことを訪ねに桜宮の元へも行ったが、彼女も行方は知らなかった。
怒ったのだろうか。それとも、もう諦めて余所へ行ったのか。
最近よく思い出すのは、桜宮を探し回った日々だった。ほんの一月にも満たない短い時間だったにもかかわらず、楽しかったのをよく覚えている。
色々な所へ行った。色々なものを食べた。焼き芋やたこ焼き、お好み焼き。そんなものを買い食いしたのは、東雲もあまり経験がない。伏は食いしん坊で、食べ物は何でも目がなかった。いつも東雲が切り分けてやるのを待ちきれないという風に覗き込んで、切り分けた大きさに文句をつけたりした。いつだったか大きなたこ焼きを一つそのまま頬張って、口の中を火傷して大騒ぎしたこともあった。
公園の遊具も珍しかったのだろう、ブランコや滑り台に夢中になって、そのくせそんな自分が恥ずかしかったのか、真っ赤になって遊んでいたことを否定したり。いつだったか、デパートに併設された小さなゲームセンターに備えられていたメリーゴーランドに乗せたことがあった。目をきらきらさせて喜ぶのに、つい強請られるままに小銭を投入してしまったっけな。
全体的に子供っぽくて、無邪気で、真っ直ぐで。
身体全部で、いつだって東雲が好きだと伝えてくれていた。
東雲の目の前を、ひらりと一枚の花びらが散っていった。目を上げれば、山岸が枝を引き寄せて、絵馬を結びつけていた。彼の家に伝わるという、金の狐の描かれた絵馬だ。
そんな大切なものを、そんなところに結んで良いのか、そう口を開き掛けて、東雲はそのまま彼を見つめた。必死に作業する横顔は真摯で、声を掛けてはいけないように思わせられる雰囲気を持っていた。
やがて結び終わると山岸は枝を手放した。代わりに、絵馬の下にまっすぐ立って、東雲を見つめた。
「東雲、好きだ」
ああ、そう言えば、あいつ恋を叶える神さまだとか言ってたな。
不謹慎だったかもしれない。けれど山岸の言葉に思い出したのは、金色の髪の良く笑う少年の姿だった。
彼の願いを聞き届けるために、ここに現れてくれるかも知れない。そう思った。
「俺は──」
「あ、いいのいいの、答えなくて。お前に他に好きな奴がいることくらい分かってるから。でなきゃお前があんな顔して人待ちなんてするわけないもんな」
山岸は少しだけ歪んだ顔で、ごく明るく手を振った。あんな顔、とは一体どんな顔なのか。気になったが、聞くのもまた怖かった。
「ただ、さ。ちゃんと、思いを伝えときたかったんだ。でないと、可哀想だろ。──俺の初恋だったんだから」
泣くかと思ったけれど、彼はそのまま東雲に背を向け、歩き始めた。
「おい、お前、絵馬は──」
「一日だけ貸しておいてやるよ。その絵馬の下では、少しだけ自分の気持ちに素直になれるんだってさ。だからおまえも、勇気出せよ!」
振り向かないままで手を振って、彼は神社へ歩いていった。その背中が少しだけ震えていたのは、きっと見間違いではなったろう。
「……素直にったってな」
相手がいないのでは、いくら素直になったところで意味などないだろうに。自分の考えに自分で傷ついて、東雲は自嘲するように笑った。
そう、もう居ない。それでも、立ち去ることの出来ないのはどうしてなのか。待ち続けるのはどうしてなのか。
東雲は絵馬の下にたち、手を伸ばした。
これは山岸が大切にしていると言っていたものだ。社で祀っているものだ、と。早く外しておかなくては。
絵馬を取ろうと枝を揺すったからだろうか、花びらが雪のように辺り一面に降り注いだ。思わず腕で目を覆い──
「──……伏」
「東雲」
きょとんとした表情で東雲に近寄る伏は、まだ最後に見たときと同じ、ダッフルコートを羽織っていた。降りしきる花びらが雪に変わり、まるであの時を再現しているような錯覚を覚えた。
勿論あの時とは季節が違う。今は春で、東雲だってあの頃よりはずっと軽装だ。今日だって長袖のシャツにジャケットを羽織るだけの出で立ちで。
指先から、黒い枝が離れた。その反動で、再び花びらが降り注いだ。
舞い散るそれをかき分けるように、東雲は伏に手を伸ばした。驚いたまま動けないで居る小さな身体を捉えて、抱き寄せて抱きしめた。
「東雲? ど、どしたんだよ? 桜宮は?」
「あいつは、関係ないだろ」
「か、関係なくなんかないっ! 東雲は、桜宮が──」
「俺が約束したのは、お前だ」
逃れようと藻掻いていた身体が急に大人しくなった。彼の手が東雲の服をきゅっと掴んだ。
「東雲、でも、オレ……」
「俺は約束がどんなものか覚えてない」
断言すると、東雲の服を掴む手に力がこもった気がした。
「お前のことも、思い出せない。過去のこともみんな分からない」
ふわりとした、金色の髪をかき回した。この体温が愛しくて堪らなかった。この気持ちだけは分かる。決して間違えない。
「でも、そんなこと関係ない。俺はこの手を離したくない。だから離さない。もう、絶対に」
「東雲」
ゆっくりと身体を離して、東雲は伏の手を握りしめた。真っ直ぐに伏を見つめながら。
「我ながら、趣味悪ィって思うけどな」
「そんなことないよ! 東雲、すげー良い趣味してる!」
にっかり笑って、握った手を上下に振って。伏はその場で幾度も跳ねた。
「……やっぱ、東雲はすげーや」
「なんだ?」
「約束、覚えてないのに──守ってくれた」
はにかんだ笑顔は、見ているだけで幸せな気持ちになれた。同時に、もっと抱きしめたいという想いが湧いた。
もう二度と放したくない、と。
「オレも、東雲と一緒に居たい。ずっと、ずっと、東雲と一緒に」
花は二人を祝福するように、優しく降る。吹き渡る風が花を空へと舞上げた。青い、どこまでも青い空に薄桃の花が吸い込まれてゆく。絵馬が風に揺られて小さく乾いた音を立てた。
握りしめた愛しい温もりをもう決して離さないように。
東雲は伏の額に口づけた。
終
ここまで拙作にお付き合い下さいました方へ、ありがとうございました( ꈍᴗꈍ)
少しでもお楽しみ頂けましたら嬉しいです