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覚えていると、そう言ったっけ。
俺が忘れてしまっても、自分は覚えているから。だからいいのだと。
なんなんだよ、あいつは。訳わかんねェ。
それにお庭番って? それっていわゆる、アレだろ。時代劇に出てくる、忍者ってやつだろ? だからあんな風に、簡単に着ている物を変えたりとかできたって?
そんなバカな。今は21世紀。科学技術時代真っ盛り、だってのに?
でも、あれが夢ではないのなら。
見たことが全て幻ではないのなら。
目を閉じれば、まぶたの裏にハッキリと甦る、あの小柄な少年の笑顔がもしも本当のものなのなら。
……俺は、どうしたいんだろう。
よく分からなかった。
あれから、もう随分日が経っている。
また会えるだろうという淡い期待は、まだ胸の中に残っている。あの金色が目の前をちらついて離れない。
予備校の自習室は、なぜかいつも薄暗くて、空気がどんより湿って感じる。他の教室と違ってどこか裏寂れて、端々に汚れが目だつ。それもあってか、この場所を使う物好きは数も人種も限られていた。短時間の利用者は大抵講習に早く来過ぎてしまったか、講習の後の待ち合わせ。長時間使うのは、少なくともそれなりに追いつめられている上で、家に自分の勉強部屋がない、且つ近所にちゃんとした自習室のついた図書館がない、と行く宛がない連中ばかりだった。
東雲は前者だ。この一週間、ずっとこの場所を利用しているのは勉強の為ではなくて、あの少年に会う為だった。何度訪れても居ない少年を見つけるためにいつもより早く来てみたり、遅く来てみたり。果ては自分の講習以外の日も来たり。それでも、会うことは出来ないでいた。
目の前には参考書が無雑作に開いたまま置かれていた。それなのに、内容はちっとも頭の中に入ってこない。それは授業に出ても同じだった。ただ数字の羅列が目の前を通り過ぎて行くだけ。教師のありがたい講義までが、まるで理解できない外国語か音楽のように聞こえる。意味なんて欠片も頭に入らないままで、左から右へと耳の中を通り過ぎていく。幸い成績は悪くなかったし、そもそも頭だって悪くはないから、一度や二度の授業を呆けたところで極端に成績には影響しないが、これが続けばどうなるか分からなかった。
ぼんやりは止まらない。分からない。何もかもが。
でも、多分。
もう一度、あの笑顔が見たいのだと思う。あんな風に、笑いかけて欲しいのだと、他の誰でもないあの金色の髪をした少年から笑いかけて欲しいのだと、そう思う。
もう一度、だけでも良いから。
息苦しいのは何故だろう。あの笑顔を思い出すたびに、氷でも飲み込んだ時みたいに、冷たいものが体を伝って、やがてそこが反動で熱を持つように熱くなるような気がした。辛くても、切なくても、もっともっと見ていたくなる。もっと近づきたいと。あの少年の小さな体が抱きついてきたとき、どうして抱きしめかえしてやらなかったのか。
後悔などろくにしたことはなかった東雲だったが、そう思わずにはいられなかった。
「なんだか、狐に化かされたみてぇだけどな」
「誰が何に化かされたって?」
呟いた独り言を聞かれるのは、それなりに恥ずかしい。
目を上げれば、そこには予備校の同じコースで同じ授業を取っている顔なじみが居た。同じ学校同学年で部活も同じだった山岸だ。にやにやと笑っているのは、気心が知れた間故のからかいだ。東雲も態とらしく眉を跳ね上げ、かたちだけ怒っている表情を作って見せた。
「何でもねーよ」
「良くないなー。気になるだろ」
「気にすんな」
「いいじゃん、教えてくれたって。俺、こう見えても神社の息子なんだし」
「……え、ほんとに?」
意外な組み合わせに思わず問い返せ、山岸は鞄から一枚の絵馬を取り出して見せた。
不思議な絵馬だった。普通ならば馬が書かれているはずのところに、金の絵の具で狐が一匹描かれている。それも、尾が9つに分かれていた。
「妖怪?」
「うちのご神体。桜神社って知らね? ここの近所にあんだけど、そこが俺んちなんだよ。で、このお稲荷さんがご神体。親友が化かされたなんて、気にならないわけないだろ?」
恋の守り神なんだよね、このお狐さま。そう嬉しそうに続けて、山岸は笑った。珍しいだろ?と。
「狐が? 恋の? その割にお前の恋は」
「言うなよ、それ以上は。今のところ、たまたま、御利益に与れてないだけなんだからな? ……うちには代々伝わる恋物語があってさ。このお狐さまは、そのお話のヒロインなんだよ」
狐がヒロインというおかしな役柄に首を捻りつつも、東雲は山岸の話す昔話に耳を傾けた。
懐かしそうに、少しだけ嬉しそうに話す山岸は、いつも女の子の後ろを追いかけてばかりの彼とは雰囲気が異なった。少し低めの穏やかな声は優しくて、どうせならいっつもそんな風にしていたら、彼の声に応える女子にも巡り会えるのではないかと、少しだけ思った。
それは、昔々の物語。
かつてこの地には、強い力を持った美しい娘が一人いた。
天変地異を前触れし、幾度も飢饉に陥りそうな国を救った。風を起こして雨を呼び、日照りに喘ぐ民を救ったこともあったという。その目は未来を予見し、紡がれる言葉に偽りはなく、たおやかな手が触れれば痛みは消え、病は癒えた。
娘は、強い力を持っていたが、同時に優しい心根も持ち合わせていた。山に傷ついた動物がいれば、人と変わらず看病した。森の動物たちもそんな彼女を慕い、その中でも猟師の罠にかかって死にかけていたところを救われた一匹の狐の子は本当の親のように彼女を愛し、娘の行くところはどこへでも従ってゆくほどだった。
彼女をあがめる人は増え続け、それはやがて信仰の形をとってゆく。
そんな折、この地を治める殿様が病の床に着いた。どんな薬師や医師にかかっても、病は一向に癒えず、重くなる一方だった。
そこへ、招かれたのが娘だった。娘が殿様に触れると、それだけで病は癒えた。命を救われた恩義に、殿様は始め城下に社を立てて、娘を巫女として迎え入れようとした。だが娘は自分が元から住んでいた、国境に程近い山の中腹に社を建ててくれるようにと頼んだ。殿様は娘の言葉を入れて、山の中腹にある桜の木の傍らに社を建て、娘を迎えた。
娘の力と人柄に信頼を寄せていた殿様は、やがて度々社に通い、国の内外で起こるさまざまなことを娘に相談するようになる。娘もまた、殿様の人柄に触れるうちに。二人は互いに慕いあうようになっていった。
悲劇はそこから始まった。
殿様には、奥方がいた。隣国の領主の娘で、美しい女だったが、一つの欠点を持っていた。大変に嫉妬深かったのだ。
奥方は力ある娘に妬心を募らせた。人々が、夫が彼女に寄せる思慕の感情に、そしてなによりも彼女の美貌に。
奥方はありもしない罪で娘を捉え、牢屋に入れた。そしてまやかしで人々を操っていたのだと、拷問の末に自白させる。奥方はそれを聞いて、嬉々として娘の処刑の準備を進めた。
もちろん殿様は娘の罪を信じたりはしなかった。すぐさま助け出そうと動き出した。そんな彼に奥方は囁いた。
娘には他に男がおり、その男と連れ立って隣国へ逃げ出すつもりなのだと。そこでこの国の情報を高く売るつもりなのだと。
そして、その言葉を裏付ける様に娘は牢から逃げ出した。助け出したのは、まだ若い男だった。
殿様は兵と共に娘を追った。信じたくはなかったが、娘が向かう先には彼女の社。その向こうには、件の隣国がある。そして傍らには彼女を助けた若い男の姿が。
愛しいと思っていた分、殿様は激しく憤った。
やがて桜の木の下で娘に追いついた殿様は、娘の背に向け、白刃を振り下ろした。
けれどその刃が娘の体を切り裂くことはなかった。代わりに、彼女の傍らにいた男がその刃を受けたのだ――自らの体で。
それほどまでに思い合う仲だったのかと愕然とする殿様は、泣きながら娘がかき抱く男の姿が次第にぼやけ、やがて一匹の狐に姿を変えた様を見てさらに驚いた。
男は、娘に命を救われた狐だったのだ。
息絶えた狐の姿に殿様は我に返る。そして彼は奥方が自分を謀ったことに気がついた。その時、彼の背後に控えていた兵士達が動いた。
彼らは奥方の息のかかったものたちだった。幾重にも襲いかかる弓矢の雨の前に、自身の最後を悟った殿様は、背後に娘を庇って目を閉じた。
手足に鋭い痛みが走る。矢が貫いた痛みに呻いた時、のしかかる熱を感じて、殿様は目を開いた。そこには、おのれの力を振り絞り、中空に矢を止めた娘がいた。殿様を庇い、娘は矢面に立ったのだ。けれど娘の力は無限ではなかった。迫り来る矢に力を使い果たし、娘は崩れ落ちた。そこに、更に容赦なく矢が向けられた。
その時、娘は己の霊力を振り絞った。息絶えていた狐の霊力を自身の内に取り込んで、自ら狐妖へと変化したのだ。
大入道に化けた娘を見て、兵は散り散りに逃げ出した。そうして殿様は命を救われたが、娘は妖魔と化した己の姿を恥じて、殿様の前から姿を消した──
「なぁ、その巫女っての、髪の色は何色だった?」
「え? 髪の色? さぁね……別に伝わってないけど、多分黒じゃないか? 日本だし」
だよな。普通に考えればそうなる。
それを考えると、あの金色はあり得ない。本当に美しい金だった。懐かしくて、胸に沁みいるような色だった。どうしてこんなにも胸に迫るのだろう。忘れられないのはなぜだろう。
「で、うちはその巫女さんの家系ってわけ。それでそのお稲荷さんを祭るようになったんだってさ」
「……へえ」
山岸の話しは長かった。聞いた話も、見知らぬ国の話しのようで、懐かしくも何ともないのに。どうしてか、あの日雪の下で舞う金色を思い出した。稲荷の姿が金色だったからだろうか。
「で、さ。このお話にはまだ続きがあって、そのお殿様は狐に変じてしまった娘が消えていくとき、その背中に向かって約束したんだよ」
何を、と言う必要はなかった。山岸はなぜか嬉しそうに笑いながら、東雲の机に肘をついた。
「この桜の下でまた会おうって」
その符号に、自然と幼い笑顔を思い出した。
それじゃあ、あの桜はその桜の木なのだろうか。あの木を愛しげに見つめていたあいつは、何者なんだ?
「桜の下で……?」
「そう。その桜の木にはその約束のせいか不思議な力があってさ。少しだけ素直な気持ちになれるんだってよ。恋が叶うって言われてんだ」
「ふぅん」
──ひょっとしたら、いいや、たぶん、きっと。あいつは、物語の中に出てきた狐なのだ。
あいつはオレを「お館さま」と呼んでいた。と言うことは俺は、その物語の中の……殿様、なのか? あいつは、それじゃ、巫女の女と、おれの二人に仕えてたってことなのか? それともみんながそう呼んでいたから、同じように呼んでいるだけなのか? それにしては、妙に親しげだった気がする。たったそれだけで、あんな風に抱きついたりするものなんだろうか。ただそれだけの縁で、あんな風に人を見られるものだろうか。
それに、約束って? あいつはここで、と言った。詳しくは何も言わなかったけれど、それはここでまた会おうという約束だったのではないだろうか。でも、山岸の話しでは、それは巫女と殿様との間の約束のはずで。
何がなんだか分からねェ。
「で、ここから先はちょっと現実のお話。その桜の木はさ、今はもうないんだ」
「ない? なんで? あるだろ、あそこに」
「いいや、ない。あの木は、実は約束の桜の木の子供って言われてんだよ。ホントの桜の木は、俺の何代か前のご先祖様が、金儲けの為に切り倒したんだってさ。御守りを作るためにね」
「御守り?」
「良く効いたらしいよ、その御守り。この絵馬もその桜の木から作られてるんだ。一応、家の家宝なんだよ」
んなもん持ち出すなよ。そうは思ったが、口には出さなかった。おかげでこの絵馬を見られたのだから。
手渡された絵馬は、なぜか少し温かかった。その温もりに少年の匂いを思い出した。
ああ、あれは桜の匂いだったのか。
「でも、その桜の木がなくなってしまってから、神社は衰退の一途なんだよなぁ。一時の利益に目がくらんだそのご先祖が恨めしいわ」
衰退。では、あの狐もそうなのだろうか。だからあんなにも、儚げな風情で。
「でもさ、この間、見ちゃったんだよな」
「何を?」
「その切り倒された桜の木の切り株にさ、今年、芽が出てたんだよ。まだ死んでなかったんだ、あの切り株……!」
芽が。
それを聞いた時、何かが東雲の中で動きだした。
「お、おい東雲? 授業、始まるぞ!?」
制止の声も、どうでも良かった。背後から聞こえる始業の合図も。教材もノートも適当に鞄の中につっこんで、東雲は塾から駆けだしていた。
会いたかった。今ならば、会えるような気がした。