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予告なく、心臓が跳ねた。
吐き出した息は、つかめそうなほどはっきりとした白を残して、目の前を覆う。消えてゆく。その様がひどくゆっくりと見えるほどに、その光景は心に焼き付いていった。
「あー……寒ぃ」
ふいに吹き込んだ冷たい風に首を竦めてマフラーに顔を埋め、東雲は小さくつぶやいた。
高校から予備校へ通うときに毎回通る、何の変哲もない沿道だ。さほど交通量が多いとも言えない道は夜になるとめっきり往来が減って、街灯のすくないこともあってひどく暗い。
道路を挟み込むように道の両脇に植えられた街路樹は全て桜の木で、この春にはそれは見事な花を咲かせる。その木々も、今は木枯らしに裸の枝をさらして寂しげに揺れていた。
駅からは遠回りになる裏道で、裏寂れた神社が道の脇にぽつんと建っているばかりで。聞こえる足音と言えば東雲一人のものくらい。それでもこの道を通るのには理由があった。
大きな桜の切り株があるのだ。
それを見るのが、どうしてかひどく気に入っていた。
部活に打ち込んだ高校生活も間もなく終わろうとしている。
狙っていた大学は推薦が取れず、一般受験することになっていた。合格圏ギリギリであったために、受験までの残りの日々を勉強漬けで過ごしていた。
それなのに。
突然始まった動悸に、東雲は顔色一つ変えないまま動揺した。どうしたのか分からなかった。何もおかしなことなど、ないはずなのに。
跳ね上がる心臓に、呼吸までもが苦しくなって、東雲は胸を押さえてうずくまった。動悸はゆっくりと治まってゆく。それと同時に、呼吸も楽になっていった。
「ふぅ」
一体、どうしたってんだ。
息をついて顔を上げて前を見て、その考えは自分の中に吸い込まれるように消えていった。
ふわりと自分の目の前に小さなものが舞いおりた。
ほぅと息を吐いて、暗い空を見上げた。埃屑のような細かな雪が音もなく、降りてきた。初めはちらほらと、直ぐに目の前を覆うほどに。それまでは、良い天気ではなかったが、それでもそんなものが降るなんて天気予報でさえ言っていなかったのに。
凍る息が視界を覆う。その度ごとに違う光景が現れる、なんて。そんな紙芝居みたいな話があるはずがないのに。
けれど次に視界があらわになったとき。東雲の目の前には、その雪と戯れるように、空を仰いで踊る少年がいた。
そんなバカな。声にならない声が、自分の中でこだました。
今、ここには誰もいなかったはずだ、と。
吹き付ける風に容易に舞う粉雪は、分厚い紺のダッフルコートを端々から白く染め上げる。呆然としたまま掌で払うたび、指先は熱を奪われて赤く疼いた。冷えたそれを暖めるために白い息を吹きかけようという考えすら浮かばずに、立ち上がることさえ忘れて、ただ目を奪われたまま彼を見つめた。
白いペンキのところどころ剥げたガードレールは所々が歪んでいる。道なりに流れて行く少し寂しい赤い色をした光の川。ぼんやりとしたその光に浮かび上がるように、彼は歪んだガードレールの上を軽やかに動いていた。そうするうち、不意に彼は動きを止め、何かに視線を移した。ぼんやりと夢見るような瞳で、幸せそうに。
「おい」
思わず声を掛けてから、ふとその先を言いよどんだ。
見れば、明らかに少年はおかしい。この雪の降りしきる夜に、裸足のまま、それも膝丈までの浴衣のような一重の着物を肩に掛けたきり。腰には帯びも付いているが、解けかけたそれはさほど役には立っておらず、前の合わせは腹の半ばまではだけていた。
けれどそれよりも目を引いたのは、光の純粋な部分だけを集めて固めたような、透き通るような金色の髪だった。柔らかそうなそれが少年の動きに合わせてふわりふわりと揺れるさまは、タンポポの花が風に揺れるさまにも似ていて。
戸惑ったまま、東雲は少年の返事を待った。だが声を掛けられた少年は気がついていないのか、何の反応も返さぬままただぼんやりとした目を道路一つ挟んだ向こう側の道へ向けていた。視線の先を目で追ったが、そこには街路樹としては異彩を放つ桜の巨木が一本あるきりだった。
関わり合いには、ならない方が賢明だ。
頭のどこかで、そんな声が聞こえてきた。こんなところで、こんな格好で踊っているなんて普通じゃない。やっかいなことに巻き込まれるだけだ。
それは、もちろん頭では分かっているのだが。
「おい、聞こえないのか?」
それでもなぜか放っておけなかった。もしもそのまま捨て置けば、彼が消えていってしまいそうに思えた。
それに、おかしなことだが、この光景に見覚えがあるような気がしていた。既視感と言えば良いのだろうか。
ゆっくりと近づきながら、話しかけた。軽く肩を叩くと、肉付きの薄い、細い肩であることが分かった。合わせから覗くわき腹も、あばらが浮いて見える。幽霊ではないと思ったのは、そこが呼吸のたびに動いたからだ。踊っていたからだろうか、わずかな呼吸の乱れを表すように、少しだけ早く。そのことに馬鹿みたいに安堵している自分がいた。
「こんなところでんな格好でいたら、風邪引くぞ?」
そのときになって、ようやく少年の目がこちらを向いた。
身動きが出来なくなった。体と共に止まった呼吸は、数瞬後に戻ってきたが、喉の奥がひりりと痛んだ。
彼の瞳は、血の色をしていた。頬に流れる涙も、血の色を映していた。
違う。
頭の中でそんな声が響いた。これは、彼の目じゃない、と。
どうしてそんなことが分かるのかは分からなかった。けれど、なぜか彼のその瞳の色は東雲の感情をひどく揺さぶった。哀しくて、切なくて、目頭が熱くなった。
「……おやかたさまだ」
だから、だろうか。彼の口からこぼれた言葉に気が付くまで、さらに少しの時間を要した。
不思議なことに、そのときには少年の涙は消えていた。瞳も先ほどとは別人のように穏やかな、凪いだ海のような青に変わっていた。
少年は、もう一度「御館さま」と言うと、ふわりと笑った。とても愛しい者を見つめるようにまなじりを下げて、目を細めて。白い腕が首に回されて漸く、少年の言葉が頭の中に浸みてきた。そのしがみつく力の強さに眩暈がした。
しかし言葉が聞こえることとその内容を理解することは全く別のことだった。
「は?」
間抜けな声だという自覚はあったが、押さえることができなかった。
「おやかたさま?」
何なんだ、その呼び方は?
「俺は、東雲だ。お前、誰かと間違えてねーか?」
「御館さまだよ。オレが間違うわけねーもん」
きゅうきゅうとしがみついてくる体は冷たくて軽い。馴れ馴れしく首筋に顔を埋める少年の柔らかな蜜色の髪が東雲の鼻先をくすぐった。なんだか良い匂いがした。懐かしいような、春の香りのような、温かい匂いだった。
「違うっつってんだろ。お前、何なんだよ」
「伏だよ、御館さま。約束したろ? ここで、って!」
伏。それがどうやら少年の名前らしい。
東雲は頭を掻いた。
どうにも話がかみ合わない。
「俺はお前を知らねェし、約束した覚えもねェし」
ぶっきらぼうにそれだけいって少年の体を引きはがすと、なぜか簡単に体が離れた。不審に思ってその表情を伺えば、今にも泣き出しそうな顔があった。
……なんだよ、俺が悪いのかよ。
思わず理不尽な思いにかられた。それが思い切り顔に出たのだろう、少年の頬を涙がこぼれた。
「オレ、ちゃんと言いつけ守ったのに……!」
こぼれそうなほど大きな目が潤んだまま見上げてくる。まるで犬ころみたいだ。そう思うと幼いころに飼っていた柴犬を思い出した。黒目がちな目も、真っ直ぐにこちらを見上げてくる金い目も浮かべている色は同じで、思わずほだされそうになる。
「あのなぁ……大体なんだよ、その『御館さま』っつーのは? お前の格好だってそうだ。時代劇じゃあるめーし」
「時代劇ってなんだ? オレ、なんか変な格好してるのか?」
そう言って、少年は自分の姿を見下ろした。ついでに背中の方も見ようとしたのか、くるりとその場で回転した。
「冬のさなかにそんな格好してるなんてただのアホだろ? もっとこんな感じで、温かそうな服着るだろ、普通」
そう言って、自分のコートの衿を引いてみせた。
「そっか。御館さまそういうのがイイんだな」
そう言うと、少年はにっこり笑ってくるりと回った。そのときにはもう、東雲と全く同じ格好をしていた。
「……!?」
「これでいーか?」
目を擦った。
けれど目の前で怒ったことは変わらない。
俺は今、夢でも見てんのか。それともアレか。疲れか。疲れ目か。
伏と名乗った少年は相変わらず東雲と同じ服装のまま、やけに嬉しそうに笑いながら、どこか期待に満ちた目で東雲を見上げていた。ああ、そうだ。飼っていた犬も良く、投げたボールを拾ってきては同じような目で膝の上に足をのせたものだった。これは誉めてくれの目だ。
自分が着るとどこかぎこちなくも見えるダッフルコートは、幼い顔立ちの少年にはとても良く似合っていた。こうしてまともな格好をすれば、少年の容姿が引き立った。改めて良く見れば、驚くほど整った容姿の子供だった。こぼれ落ちそうなほど大きな瞳を長い睫毛が縁取り、すっと通った鼻梁の涼やかさを甘く柔らかなものに変えていた。これで表情がもう少しおとなしく優しげであったなら、少女と見紛ったかもしれない。
「……お前、今何やったんだ?」
「え? 何って、服変えただけだよ。どーしたんだよ、御館さま。そんな驚いたふりしちゃって」
邪気のない口調に表情だった。わざとらしさは感じられない。それではこれは、この少年には当たり前のことなのだろうか。そして、彼の『御館さま』にとっても?
……そう言えば、さっきこの少年はおかしなことを言っていなかったか? 『お庭番』と? それは、いわゆる時代劇で言うところの、忍者、という奴ではなかったか? ということは、今のは変わり身の術とかなんとか、そういうものだったりなんかするのだろうか?
それにしても。と東雲はもう一度少年を頭の先からつま先までじろりと眺めた。
蜂蜜を煮詰めたような濃い金色の瞳は、なぜか懐かしかった。知り合いにこんな目をした人間はいない。日本に生まれ育って17年、今まで出会ったこともない。それは確かなのに。
ふわふわの金髪は猫っ毛なのか、絡まりあって風に揺れている。毛足は少し長くて、後ろは首筋にかかるほどだし、前髪も今にも目を覆いそうだ。その下には大きすぎるほどの目に、幼い顔立ち。年頃は12歳くらいだろうか? 背丈もそれほど大きくはない。せいぜい東雲の肩にようやく届く程度だった。
自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回して、困惑したままの気持ちを落ち着かせる。
「いいか、とりあえずはっきりさせとくぞ。俺は『御館さま』なんぞじゃねーし、お前も知らねー。ついでに言うと、俺ァこんなところで油売ってるほど暇じゃねー」
一息で言い切ってそのまま、背中を向けて歩き出す。胸の中がもやもやして気持ちが悪い。それが罪悪感なんだと気がついたのは随分立ってからだった。
冗談じゃない。こんな訳の分からないことに、これ以上つきあって堪るか。そうでなくても、やっかいごとは嫌というほど抱えているのに。こんなのにつきまとわれたら、さらにおかしな事が倍増するのに決まってる。
そうは思うのに。立ち去り際、つい振り向いてしまう自分がいた。
目が合うと、まるで振り向くことが分かっていたと言わんばかりの顔で、少年が笑った。
「ううん、あんたは『御館さま』だよ」
思わず毒気を抜かれてしまうほどの、純粋な笑顔で。
街灯の明かりに、降りしきる雪が光を受けてほのかに輝く。その光に囲まれた少年は、どこかこの世の者とも思えぬような──
「オレに気がついて、声かけた。何も覚えてないのに。……それに」
ふと、言葉が途切れ、気がつけば少年の体は東雲の背にそっと片手を添えていた。
「オレが覚えてるから。だからいいんだ。御館さまは忘れちゃってるかもだけど、オレは、ちゃんと覚えてるから」
ぽんと軽く背を押され、たたらを踏んだ。
「おい、お前何する──」
振り向いたとき、そこにはもう、誰もいなかった。
風の音さえも吸い込んでしまいそうに、ただ雪だけが降りそそいでいた。