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No.86 最上の愛を、君に


 ヴィントから分け与えた血で、ルミアの身体はどうにか持ち直した。カノラが聞いたところ、処置も無事に終わったそうだ。


 でも……ヴィントの瞳は陰っていた。


 宙ぶらりんになったままのロスカとの会話。

 壊さないようにと耐えてきたはずの心に、ぽっかり穴はあいたままだ。


 ヴィントは忙しい合間を縫ってカノラと会ってくれていたが、描く絵はおどろおどろしいものばかり。


 以前は、何の絵を描いているのか分からずに変な人だなぁと思っていたけれど、カラフルな絵の具に嗄れるほどの叫声を混ぜていたのだと知って、胸が痛くなる。



 そうして、夏の終わりを迎える頃。

 ようやくルミアが回復し、王城からスノライン領主館に帰宅することができた。


 ロスカとの話もそうだが、結婚の話も宙ぶらりんのままだ。カノラはヴィントに連れられて、ロスカとルミアを追う形で領主館を訪れた。



 一階のルミアの部屋を訪ねる。

 ノック三回、返事はすぐに返ってきた。


 扉を開けると、ルミアはすでにこちらを向いて、上半身を起こしていた。背中の向こう側に、四阿が見える。


 彼女は深い碧眼をヴィントに向け、微笑む。


「おかえりなさい、ヴィント」


 ヴィントは少し間を置いて、眉を下げた。


「……ただいま。母さん」


 ベッドの傍らに立ち、体調は大丈夫かと尋ねる。


「ええ、ありがとう。……この身体にね、ヴィントの血が流れているんだもの。これからはもっと元気になれる予感がするの。本当に――ありがとうね」


 そう言って、ルミアは微笑んだ。


「カノラさんも、来てくれてありがとう。王城のときも、ヴィントと一緒に駆けつけてくれたのよね? ロスカから聞いているわ」

「は、はい……」


 カノラは真後ろにいる父ロスカから発せられる不機嫌オーラに耐えていた。前を向けば穏やかな雪原。後ろには人を殺しかねない猛吹雪。その間に立たされている気分だ。


 あの日、ヴィントが血を分け与えている間、カノラは隣の部屋でロスカと二人きりだった。カノラなりに対話を試みたが、それらは全て無視された。

 唯一、与えられた有り難い御言葉は「帰りなさい」だけだ。訳すと、小娘がすり寄ってくるな散れ、である。


「カノ」


 それを察してか、ヴィントはカノラの手を取った。両親に向き直り、穏やかな声で話を始めた。


「今日は結婚の話をしにきたんだ。父さん、母さん。俺は、カノラ・スプリングとの婚姻を望みます」


 許していただけますか、と二人で頭を下げた。


 だが、ロスカは馬鹿馬鹿しいとでも言うように、ため息を吐く。


「やはりこうなったか。もっと早くスプリング家との関係を切らせるべきだったな。――そもそもノルド侯爵家との婚約が白紙になった件、私はまだ納得していない。まさか、スプリング子爵家が原因ということか?」


 ロスカの視線が容赦なく向けられる。カノラは『なにを失礼な。勘違いしないでください、お父様』と言おうとして、あれ?と気づく。


 仮婚約中にルーナに略奪宣言をして、熱烈なキスでヴィントの心を揺さぶりまくり、夜会ではプロポーズまでしちゃってるし、しかもルーナが婚約を断ったのは兄ダンテのせいじゃないか。


 頭の中で事実を並べてみると、概ねスプリング子爵家が原因で間違いない。正論に殺されそう。


「もももも申し訳ございません、お父様……」

「カノ、そこは否定するところだよ」


 下げた頭を、ヴィントにぐいっと戻される。彼は背筋を伸ばし、少し口角をあげた。


「父さんが欲しかったのはノルド侯爵家との縁でしょ? 俺とカノラが結婚すれば、ノルドと縁続きになれるよ」


「……どういう意味だ」


 彼は目を細め、にやりと笑って見せる。


「へー、まだ知らないんだ? 一昨日、ルーナ嬢はカノラの兄ダンテと正式に婚約した。ルーナ嬢の卒業と同時に婚姻する」


 ロスカの目が見開かれる。この父親を驚かせるだなんて。


「……ヴィントが仕掛けたのか?」

「まさか。当人たちが恋に落ちただけ。特別なことはしていないよ」


 カノラの目は泳いでしまう。ヴィント語を翻訳すれば、”特別なこと”以外はしたという意味になる。


 それを分かりきっているのだろう。ロスカは喉の奥で笑った。


「ははっ、手段を選ばない、か。そこまでやるとは驚いたな」

「それだけカノがすごい存在ってことだよ」


 彼はまくし立てるように、それでも穏やかな声で続ける。


「いつもみたいに冷静に評価してみてよ。ここでスプリング子爵令嬢を野放しにするのは得策じゃない。カノラは王弟一家にお呼ばれして、ロイヤルガーデンで演奏までしている。その情報は耳に入ってるよね?」


 そう。夏の間にお呼ばれしてしまい、カノラはヴァイオリンの独奏を披露した。緊張で吐くかと思った。


 そこで王弟の末娘にいたく気に入られてしまい、今では週一回ほどレッスンをさせていただいている。正直、可愛い。


 学内では王弟次男にも気さくに話しかけられるし、ヴィントの恋人になって以降、人生が加速度的にハイソサエティになって本当に怖い。


 ヴィントはカノラの肩を持って、まるで見せびらかすようにした。


「アゼイの孫ということを差し引いても、カノラ自身、王族の覚えが目出度い。それに――兄のダンテ。彼は歴代最年少で絵画品評会の審査員に正式選出されてる」


 お手伝いから異例の早さで正式採用。これは大きな話題になった。

 これもあってかノルド侯爵当主もダンテをいたく気に入ってしまい、ノーザランド国の社交場に引っ張り出そうとしている。出たら最後、ダンテの独擅場だろう。


「父さん。スプリングはもっと伸びるよ。条件は悪くない」


 ヴィントは自信満々にそう言った。

 こうして並べてみると、なんかすごいことになっている。昨年までは祖父のおかげで金持ちになった子爵家という立ち位置だったのに。一体どこまで先読みしていたのだろうか。


 ロスカは反論しかけた口を閉じ、代わりに黒髪をくしゃりと乱しながら、頭を抱えた。きっと――頭ではわかっているのだろう。


 ルミアは彼の腕に触れ、柔らかく微笑んだ。


「あなた、許してあげましょうよ。私もカノラさんなら安心してヴィントを任せられますもの」


 しかし、ロスカは首を横に振った。

 何かを振り払うように大きく否定する。


「安心などできない。相手が子爵だなんて――ヴィント・スノラインが、駄目になる」


 ロスカはそう言い放った。


 一瞬の隙もなかった。あ、と思って、カノラが視線をやったときには、彼の青い瞳はすでに憎しみで染まっていた。


 彼は一瞬だけ口角を上げ……そして、表情を消した。


「駄目になるってなんだよ」


 迷いのない声で言った。

 

「……ヴィント・スノラインじゃない」


「俺は、お前たちの息子じゃない。死んだ息子が歩むべき人生を、身代わりとしてただ歩かせたいだけだろ」


 ルミアが小さく悲鳴をあげる。口元を手で覆い、肩を震わせる。


「ヴィント……あなた……」

「そうだよ、十三歳のときから知ってた。父さんは気付いてたよね? 俺が母さんに血を分けたときに」


 ロスカは答えず、カノラに視線を向ける。それは望みをかけるような瞳だった。


「……わたしは知っています。ヴィンくんから全て聞いてます」


 カノラの真っ直ぐな言葉を聞いて、ロスカは顔を歪めた。到底受け入れられないとでも言うように首を横に振り、ひどく青ざめうなだれる。


 そんな父親を見るのは初めてだったのだろう。ヴィントは手を叩いて嘲笑った。


「ははっ、そんな絶望する? ――なんだ。最初からこうすれば良かった」


 震える声で、そう言った。


 今まで溜めていた感情に、とうとう火がついてしまったのだ。激しい瞋恚の炎が、言葉の刃となる。傷つけ、壊して、刺す。

 そうするように育てたのは、他ならぬ父親自身なのだと突きつけるように。


「父さんと母さんの罪を――俺の存在を公にされたくなければ、カノラとの婚姻を認めて。拒否するなら、全てを公にする。証拠ならある。口封じで殺しておけばよかったのに、そうしなかった」


 彼は窓の外を指差す。


「処刑したはずの本当の父親が、ノーザランド南部収容所にいるだろ?」 


「……そこまで知っているのか……」


 ロスカはルミアに視線を向ける。彼女は顔を覆い隠し、涙を流していた。

 それを見たロスカはそのまま視線を床に落とし、力なくロイヤルブルーの絨毯に膝をつく。その姿は、まるで王族の前にひれ伏す罪人のようだった。


「父さんが俺から大切なものを奪うなら、俺は父さんから同じように奪うよ」


 そう言いながら、父親の前に立つ。


「最愛の妻と優秀な息子? 笑っちゃうよね。――なぁ、俺にもそれをくれよ」


 彼の声は震えていた。ずっと抱えていたものを絞り出すように、喉をぎゅっと締め付ける。


「ずっと――もうずっと前から思ってた。全部壊してやりたいんだよ。もう全部、初めからなかったみたいに……消してやりたい。おまえらの大切な『ヴィント・スノライン』も、ぐちゃぐちゃに壊して、傷つけて、全部消して――」


 カノラは咄嗟に彼の口を塞いだ。ただ、身体が動いた。

 両手を彼の唇に押し当て、その胸に顔をうずめる。彼の心臓の音が伝わる。ドクンドクンと大きく、強く、動いていた。


 彼は何も言わなかった。

 カノラの手が涙で濡れていく。ぼろぼろと零れ落ちていく大粒の涙が手のひらを伝って、ロイヤルブルーの絨毯に落ちていった。


 彼は嗚咽をこぼしながら、カノラの肩に顔をうずめた。


 ロスカは焦点の合わない目でそれを見ながら、守りたかったんだ、と呟いた。


「……君は、ヴィントを守れるのか?」


 カノラに向けられた問い。だが、ロスカは自問するように額に手をやり、俯く。


「スプリングじゃ無理だろう。いつか私たちが死んだあと、誰とも血の繋がりがない嘘の人生を背負わせてしまった息子を――」


 誰が守ってくれるのか、とロスカは震える声で言った。王族相手でも戦えるような力がなければ……。だから、どうしても強く育てたかったんだ、と。


「私は罰を受けてもいい。だが、ヴィントは……ただ、偶然あの日にここに来ただけの小さな赤子だ。それでも本当のことがわかれば、同じように罰を受ける。取り返しがつかない。戻れるなら、戻りたい」


 ヴィントはふらつく足取りで父親に近づき、彼を見下ろし、問いかけた。


「……後悔してる? 俺とヴィント・スノラインをすり替えたこと」


 それは十三歳の冬、彼が絶望に落とされた問いと同じものだった。


 しばらく間を置いて、ロスカは「ああ、後悔している」と同じ言葉を繰り返した。


「血だらけになって死んだ赤子を抱きしめるルミアを見て――救いたくて、勝手に追い詰められて、どうしようもなくなって……怖かったんだ」 


 ロスカは両手を差し出し、何かをすくうようにそれを広げた。


「だから、あのとき目の前にヴィントが現れて――これは神様が与えてくださった恩寵だと思った。抱えてみたら、温かくて可愛くて……私の冷たくなった指先を小さな手で握ってくれた。


 私を救ってくれる――天使に見えたんだ」


 ヴィントの瞳が見開かれる。ずっと、悪魔の産声に耳を傾けたのだと思っていた。それで惑わされて、道を間違えたのだと。


 ロスカは広げていた手をきつく握り締める。


「あんなに小さかったヴィントが歩けるようになって、話せるようになって、"お父さん、お父さん"と呼んで後を追うんだよ。もう、どうしようもなく怖くなった。もし愚鈍であったなら、裕福な人生を与えてあげたと悦に浸れたのかもしれないのに――」


 ロスカはそこで言葉を止め、目を細めてヴィントを見上げる。


「おまえは……どうしてそうなんだ……。いつも賢くて、優しくて、正しくて……眩しい。向き合う度に、私の息子ではないのだと――他人の人生を押し付けているのだと思い知らされた」


 ヴィントは手を震わせて口を覆った。そのまま力が抜けたようにして膝をつき、父親の前にしゃがみ込む。


 ロスカはヴィントを見て、その美しい碧い瞳に手を伸ばすようにして、ごめんと言った。


「後悔しないわけがない。あの日、私に見つからなければ、ヴィントは何者にでもなれた。自由に生きられたのに……おまえの人生を、私が潰した。ずっと悔いていた。ごめん、ヴィント。ずっと苦しませて、つらい思いをさせて――本当に、ごめん」


 そう言って、何度も懺悔の言葉を繰り返した。

 ごめん、ヴィント、と何度も彼の名前を呼びながら。

 

 ヴィントは何も言わなかった。

 ルミアの泣いている声が、小さく聞こえるだけ。


 静まり返った部屋。わざと音を立てるようにカノラは歩く。ヴィントの隣に座り込んで、丸まった背中を撫でた。


 憎しみ、悲しみ、それが解けていく静かな時間。強ばっていた彼の肩から力が抜けていく。


「……ヴィンくん」


 アイスブルーの瞳が彷徨うように揺れていた。それを覗き込むと、少しずつ視線が合ってきて――彼は何度か瞬きをする。睫毛についた涙の雫が、最後にぽたりと落ちたとき、やっと視線が交わった。


 雲が途切れたのか、淡い光がアイスブルーの瞳を照らす。

 彼は顔をあげ、父親の肩に手をやった。


「……もし神様が見ていたら、一生許されないと思う。でも、俺は神様じゃないから」


 くしゃりと顔を歪め、眉を下げる。


「父さん、母さん。もう『ヴィント・スノライン』の人生は返せない。


 ――俺のものにする。


 だから……この先どんなに苦しくても、全部ぶちまけたくなっても、目を逸らさずに黙って見ていてよ。それが、父さんたちの贖罪だと思う」


 ちゃんと見ていてよね。

 カノラと幸せになってみせるから。


 そう言って、彼は静かに笑った。



 季節は巡る。

 スノライン領は、もう秋が近い。


 窓の外には、波のような秋風が吹いている。

 中央に建てられた四阿の周りを、黒い犬が元気に駆け回る。


 その傍らに咲く小さな花が、彼らの方を向いて揺れていた。頷くように、そっと。

 






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