No.85 すべてを捧げて
少しでも速度をあげるために、蒸気自動車から荷物を放り出し、ヴィントの運転で二人は王都へ向かった。ランタは後から馬で追いかけることに。
自動車は速い。
だけど、もっと速く……例えば空を飛べたらどんなに良いだろう。
「ヴィンくん……」
「そんな顔しないで、カノ。大丈夫。ずっと体調が悪かったから、いつかはこういう日が来るってわかってたし。それに――」
彼は言外に、自分は悲しむ立場ではないと言いたいようだった。
視界に映る景色はすごい速さで変わっていく。湿っぽい風がビュービューと音を立て、重たい車輪が小石を跳ね上げる。
しばらく沈黙が流れ、カノラは口を開いた。
「ねぇヴィンくん。ずっと気になってたんだけど、ご両親のこと"父さん"、"母さん"、って呼ぶよね。セイルド様は父上、母上だったかな」
カノラが尋ねると、ヴィントはハンドルを握る手を少し緩めた。懐かしむように、目を細める。
「昔はお父さん、お母さんって呼んでたよ。十歳のとき、なんか恥ずかしくなっちゃって。父上、母上って呼ぼうとしたんだよね。そしたら――」
彼はそこで車を停めた。ブレーキの音が畦道に響く。喉が渇いたのか水を飲み、反対側に顔を背ける。
「”父さん”と呼びなさいって言われた」
少しくぐもった声でそう言った。
彼の銀髪が西日で染まっていく。何度見ても、カノラはそれを眩しく感じてしまう。ルミアと同じ銀色だ。
「わたし、スノライン領でルミア様に会ったとき、ヴィンくんと似てるなぁって思ったの。今でもそう思ってる。今のヴィンくん、あのときのルミア様と同じ顔してるもの」
「あのときって?」
「スノライン領で、ヴィンくんが刺されたとき。……もしかして、覚えてないの?」
確かに、あのときヴィントの意識は朦朧としていた。馬車で運ばれている最中に彼は意識を手放してしまい、呼びかけても目は閉じられたまま。領主館に到着する頃には浅い脈と青白い顔をしていた。
すると、一階の部屋からルミアが裸足で飛び出してきて、自分のベッドに寝かせて応急処置をするように命じたのだ。
彼女は真っ青な顔をして、それでも気丈に処置を手伝っていた。使用人を押しのけ、いつもは自分が寝ているベッドの傍らを駆け回り、医師の応急処置が終わるまでずっと――ヴィント、ヴィント、と何度も名前を呼んでいた。
そして、処置が終わってすぐ、カノラがごめんなさいと頭を下げると、ヴィントの傷口を必死に押さえていたカノラの手を取って、血だらけのそれをぎゅっと握り締め、ありがとう、と――ルミアはそう言ってくれたのだ。
「母さんが……? いや、だって……ありえない。昔から、俺が熱を出したって、いつも寝込んでいて部屋から出てくることなんて――そんなの、見たことない」
どちらが真実なのか。あるいは両方ともそうなのかもしれない。人はそんな簡単じゃないから。
ヴィントは目を瞑り、小さく首を横に振る。
「カノの言いたいことはわかってる。でも……父さんたちと向き合ったら、たぶん俺は――壊そうとするから。壊さないようにって、それだけを考えてここまできたのに」
壊れたらどうなるんだろう、彼はそう呟いた。カノラは大きく頷いて見せる。
「壊れたら……それは……ど、どうなるんだろうね?」
「なにそれ。そこは絶対大丈夫だよーとか言って、励ますところじゃない?」
「だって、現実的には元に戻らない確率の方が高いですよね。事が大きすぎちゃって」
「不安にさせるのやめてくれる?」
ヴィントは呆れ顔。その頭上を、ぴちちぃと鳥が飛んでいく。
それを見たら、急に思い出してしまって――窓の方に背けられた彼の顔を、無理矢理ぐいっと振り向かせた。彼からもらった言葉を、カノラは投げ返す。
「作品No.70【汚点】――覚えてる?」
カノラは宙に丸を描く。汚点だ。
「”汚点は、振り返るためにあるんだよ”って、ヴィンくんが言ってた。もし壊れたら、わたしが一緒に直すから。直せなかったら、全力で慰める。元気にならなかったら……一緒に、泣いて生きよう」
スノライン領でルミアと話したときも、あの処置の間も、カノラから見れば彼らは本当の親子だった。夜会で向けられたロスカの冷たすぎる眼光だって、ヴィントとそっくりだ。
たしかに、スプリング家の親子関係とは違う。距離はある。でも、いつか訪れるだろう両親の死を悲しむことが許されないほど、離れているとは思えなかった。
それから二人は言葉を交わさなかった。
車が揺れるたびに触れる彼の肩だけが、その体温を教えてくれた。
王城に到着する頃には、もう夜になっていた。
ルミアは意識が戻っておらず、王城の医師の判断で処置が行われていた。
その部屋の前で、スノラインのお抱え医師から状況を伝えられる。彼は幼少の頃からずっとルミアを診てきた医師だ。
「ルミア様は……今回は出血も多く見られます。少し時間がかかるかと。私では処置が難しく、王城の医師が治療にあたっています」
そう告げられ、カノラたちは隣の部屋で待つように促される。ロスカもそこにいるらしい。
しかし、扉の取っ手を掴んだとき、隣の部屋から王城医師が飛び出してきた。早口で引き留められる。
「お待ちください、スノライン侯爵閣下! ルミア殿下の出血が多く、輸血を――血を分けていただきたく、ご準備をお願いいたします」
「血……?」
「ええ、血の繋がりのある方に殿下のお側にいていただきたいのです」
血の繋がり。違う、そんなもの繋がっていない。ヴィントはわずかに唇を震わせた。
「いや、それは……他に方法は?」
ヴィントが拒否すると、王城医師は一瞬だけ顔を歪め、すぐに頭を下げた。
「失礼を承知で申し上げます。ルミア王女殿下のお身体に流れる血は、我が国で最も尊くあるべきものです。王城医師として、殿下の血に混ぜ物をするなど恐れ多くございます。最善は――御子息である閣下だと存じます」
医師は頭を下げたまま、持っていた紙を差し出した。
「……殿下からも、あらかじめご指示をいただいております」
それは治療の詳細が書かれたものだった。受け取ると、指にずしりと重みが伝わる。ここ数年のルミアの病歴やその処置が事細かく書き連ねてある。
ヴィントは深く潜るように、何枚もめくっていく。
どの頁を見ても――血を分け与えることを許す人物の名の欄に。
その一番上に『ヴィント・スノライン』と、名前が綴られていた。
ルミアは息子がすり替えられたことを知っている。自室の庭に墓を建て、毎日毎日、飽きもせずに祈りを捧げるほど、死人である息子に全てを捧げているはずだ。
そのはずなのに。
ここに、ヴィントの名前を書いた。
彼は銀髪に触れ、理解できない様子で小さく首を振る。
「なんで……俺なんだよ。だって、俺の血は――」
「ヴィント、早く行きなさい」
そのとき大きく扉が開き、ロスカ・スノラインの声が響いた。部屋の中まで会話が聞こえていたのだろう。彼は口の端を噛み、靴を鳴らし、ヴィントの隣に立つ。
王城の廊下に沈むしんとした空気。ロスカは静かにため息を吐いた。
「……相変わらず注射が怖いのか? それくらい我慢したらどうだ」
でも、ヴィントは答えなかった。碧い瞳をロスカに向け、揺らすだけ。
ロスカは開きかけた口を閉じ、扉に視線をそらす。
「行きなさい」
そう言って、苦しそうに笑う。
それは卒業式の日に見せたヴィントの表情と、よく似ていた。
「……ヴィント。ルミアの処置が無事に終わったら――ちゃんと話をしよう」




