No.82 四連作を見つめて
一方、街外れのカフェ。
ダンテ・スプリングは、服をびちゃびちゃに濡らしていた。水が入ったグラスを思わず倒してしまったのだ。
「冷てぇ」
「大丈夫ですか? ダンテ様」
「ダイジョバナイ……どうすんだこれ……」
とにかく払拭するしかない。立ち上がろうとしたところで、背後から「タオルをお持ちしました~」と声をかけられる。
ずいぶんと対応が早いなと思って振り返ると、めっちゃ笑顔のヴィントが立っていた。
彼は真っ白な手で、真っ黒なタオルを持っている。この世の悪を煮詰めて染め上げたような漆黒のふわふわタオルだ。
ダンテはなんとなーく、そして、完全に察した。
「おまえの仕業かよぉ……!」
「そういうこと。サンライトの子、ありがとね」
リエータはにこりと笑う。
「いーえ。ご依頼料からすればお安い御用ですもん」
そこで、ふと思い出したように彼女は重ねてお礼を言った。もう半年前のことですけど、と前置きをして。
「菜の花の絵の慰謝料もありがとうございました」
ヴィントが贋作【菜の花】にアルコールをぶちまけ、リエータの父親が働いた詐欺をうやむやにした件だ。あのとき、ヴィントはサンライト男爵家に絵画の弁償と共に慰謝料を渡していた。今期の授業料とぴったり同額。
「あの、ずっと不思議に思ってたんですけど、"慰謝料"っておかしいですよね? 本来なら絵画の弁償だけで良かったのに。悪いのは………あたしのお父様だもの」
ヴィントは思い出すように少し上を向いてから「あー、あれね」と平坦な声で言った。
「父親が悪いのは知ってる。それなのに庇ったり許したり――そういうの俺にはできないから……ちょっと援助したくなっただけ。でも、結局フォルくん家からも授業料を出してもらったんだって?」
リエータはピースサインで答える。
「ええ、ご馳走様でした。二重取りできたおかげで、今回いただくお金と合わせて借金完済です」
「あはは! 結婚前に清算できてよかったね」
繰り広げられる金勘定会話に、置いてけぼりのダンテ。ちょっと待てーい、と割って入る。
「金かよ! せめてハニトラは真実の愛であってほしかったー!」
リエータはふふんと鼻で笑う。
「そんなこと言って、ダンテ様にその気がないのなんて丸わかりですよ。あたしの手も振り払われちゃったし」
その拍子に、ダンテはグラス倒してしまったわけだが。絨毯まで水浸しだ。
「へー? そーなんだー?」
「うるせー。こっち見んな」
ヴィントからの視線が生温くて、とても居心地が悪い。
「あたしはダンテ様と結婚できたら嬉しいですけどね。そうすると、カノラさんの結婚が難しくなるらしいから、それはちょっとね」
「はぁ? なんだそれ」
ダンテは突っかかるが、それを遮るようにヴィントはリエータに退席を指示した。
「じゃあ、あたしはこれで! ヴィント様。カノラさんのことを幸せにするって約束、絶対に守ってよね」
「言われなくても。あと、俺のこと気安く呼ばないでくれる? 無駄に妬かせたくないし」
彼女は大笑いして「またね、スノラインの侯爵閣下!」と両手をぶんぶん振って店を出て行った。
そうして、二人のメンズが可愛らしいカフェに残される。店員が気まずそうに新しいグラスを置いていった。
ピンク色のテーブルクロス。ハートのクッキー。見ているだけで、ダンテはイライラしてしまう。目の前の銀髪をぎろりと睨む。
「それで? こんなとこまでルーペを引っ張り出して、どうするつもりだよ。もう関係ねーくせに。元仮婚約者さんよぉ?」
「”元”と”仮”かぁ。へー? しっかり嫉妬してたんだ」
元仮婚約者は口の端をあげる。
「本当は彼女のこと大好きだもんね? ルーナ嬢には『コノ子ジャナイ感』を感じなかったわけだ」
「……好きじゃねーし。嫌いだし」
「ダンが嫌いなのは予知であって、ルーナ嬢じゃない」
「……っ!」
上手く返せなかった。いつかヴィントに指摘されるとは思っていたし、これが正論だとわかっている。
だとしても、ヴィントには関係のないことだ。
菜の花と出会って数年しか経ってないくせに。口を出してほしくない。こっちはこっちで、煮詰めてきた感情があるのだ。
「ウルセーバーカ」
「それはこっちの台詞。――うるせぇよ馬鹿」
ヴィントの表情から笑みが消える。こんな物言いをする親友は初めてで、ダンテはちょっと身構えた。
「俺ね、去年の秋からずーっと気になってることがあるんだ」
窓の外を見ながら、ヴィントは穏やかに語る。
「俺たちの入学式の日、ダンは言ってたよね。『いつか四連作を売り払って、目の前からなくしてやる。お互いに解き放たれよう』って。それがフークリンに【菜の花】を売ろうとした真意でしょ?」
一連の贋作事件。事の発端は、ダンテが菜の花をフークリンに見せたことに起因する。
とうとう嫌な話題をほじくり返されてしまった。ダンテは服を拭いていた黒いタオルを広げ、ヴィントとの間に衝立を作る。おい、もっと分厚いタオルをくれ。言葉の拳で殴られる予感がする。
親友は容赦なく続ける。
「俺が気になってるのは、なんで菜の花だったのかなぁってこと。ダンは四連作の意味に気付いていたんだから、フークリンに見せるなら海水か満月で良かったよね?」
「……結局、菜の花も売らなかったデス」
「思いとどまってくれて良かったよ。菜の花を売られてたら、今頃、俺も満月をどうにかしちゃってたかも」
「……ははは、ヴィンはアゼイの絵を売ったりしねーじゃん……?」
ヴィントはわざとらしく、こてんと首を傾げた。
「あぁ、言い間違い。満月って、絵のことじゃないよ。ルーナ嬢のことね」
「そっちの方がやべーぞ」
侯爵様の目が笑っていない。正直、めっちゃ怖い。
フークリンに初めて会った日のことを思い出す。酒場に向かう前に、ダンテは四連作を眺めていた。
予知なんて馬鹿げたものを目の前から消してやりたかった。いつかやってやると、ずーっと心に決めていた。
十八歳になって酒が飲めるようになり、足取りを追いにくい酒場への出入りも許されるようになった。両親の出張が増えた矢先、それを実行に移した。大馬鹿野郎だ。
だが、ダンテにとっては人生を左右する大きな決断だった。
脚立を上り、【満月】を手に取ったとき。
言いようのない喪失感が彼の身体を貫いた。
脚立から落ちて、そのまま地の底まで墜落しそうで……到底、売り払うなんてできそうになかった。
初めての感覚にダンテは震えた。
次いで、好奇心がうずいてしまう。この恐怖に打ち勝てば、予知に抗うことができるのではないか。予知を越えた先に、どんな未来が待っているのか――知りたくなってしまった。
ヴィントは、まるで当時のダンテを見ているかのように話を続ける。
「そして、ダンは実験を思いついた。俺の目の前から【菜の花】を消して、カノへの気持ちがどう変化するか見たかったんだよね。それくらいのことで、好きじゃなくなるとでも思った?」
「ぎくり」
図星だった。申し開きもない。親友を使って、ダンテは未来を変えるべく人体実験を思いついてしまったのだ。大馬鹿クズ野郎だ。
はーーあ、と聞いたこともないドデカいため息を吐いて、ヴィントはハートのクッキーを口にする。ぼりぼり、ごっくん。
「慈悲の心。今から一秒だけ謝罪を受け入れる時間をあげる」
「申し訳ございませんでしたぁああ……っ!」
すぐに土下座した。今までで一番早く土下座できたと思う。
ピンク色のかわいい絨毯には、ダンテがこぼした水が染みこんでいる。この涙もどうか吸い取ってくれ。
「条件付きで許してあげる」
「まじ感謝。条件プリーズ」
親友は真面目な顔をする。ダンテはごくりと唾を飲み込んだ。
「今すぐ、正直な気持ちでルーナ嬢に向き合ってほしい。もし彼女を受け入れられないなら、それでもいい」
ヴィントは絞り出すようにして話す。予知があったから、五番を描いたわけじゃない。自分で選び取った結果だ、と。
ずっと知りたかった、予知を超えた先。
今、親友はそこに立っている。
「ダン。急いでスプリング家に戻って。セイルドはルーナ嬢の結婚を早めるって言ってた。もしかしたら、彼女は今頃――」
そこで言葉を詰まらせる。同時に、アイスブルーの瞳が陰った。下唇を噛んで、それを震わせている。
見たこともない親友の表情に、ダンテの胸はひどくかき混ぜられる。今すぐ行かないと取り返しがつかないことになるような、言いようのない焦燥。【満月】を売り払おうとしたときよりも強い喪失感が、彼の心を貫く。
気づいたときには、駆け出していた。
「おい、ルーペ!」
一目散に彼女の部屋に行く。だが、誰もいない。
ノルド侯爵家の馬車が家の前に停めてあったから、敷地内のどこかにいるはずだ。
もしかしたら画廊かもしれない。ダンテはそう思って、外に出ようとする。
しかし、階段の手前にルーナのトランクが落ちていることに気付く。隙間から赤い布地が出ているのを見て、心臓が大きく鼓動する。空っぽのはずのそれに荷物が入れられている。
プライバシーなど知ったことか。躊躇しない男は、勢いよくそれを開いた。
「うわ、全部詰め込んでんじゃねぇか」
近づくだけで惑わされそうになるスズランの香水。つい視線を奪われるヒラヒラのワンピースたち。彼女の全てが詰め込まれている。
ルーナはどこへ行ったのだろう。顔をあげると、二階の欄干の隙間からダイニングの大扉が見えた。それが大きく開かれているのを見て、全身の毛が逆立った。
ダンテは、四連作を彼女に見せたくなかった――絶対に。トランクを開きっぱなしにして階段を駆け上がる。
「……っ! カノラ、おまえなにやってんだよ。ルーペは入れんなって言っただろ!」
「お兄ちゃん」
間に合わなかった。もう手遅れだ。開きっぱなしの扉の先で、ルーナは四連作を見ていた。震える唇を手で強く押さえつけ、目に涙を溜めている。
予知好きの彼女のことだから、四連作から何かを感じ取っているはずだ。そして、彼女はこう言うのだ。
『アゼイの予知があるのだから、わたくしたちは結ばれる運命なのです』
最低最悪の形で、愛を誓われるわけだ。
見たくも聞きたくもない。ダンテが目を瞑って俯いた瞬間、左頬に痛みが走った。目の端で華奢な手を捉え、彼女に平手打ちをされたのだと、やっと気付く。
「……なにすんだよ」
「これが、わたくしを嫌っていた理由ですか。こんな予知があったから……ダンテ様は、あんな風にずっと……?」
「“こんな予知”ってなんだよ。大好物なくせに。どうせおまえは、予知があるからこの気持ちは正しいとか思うんだろ?」
「……この気持ちは……!」
ルーナは唇を噛んだ。悔しそうに握りしめた手で、ダンテの胸を小さく叩く。
「この気持ちは……ダンテ様がわたくしの心にキラキラしたものを落として行くから、その欠片を少しずつ集めるようにして……ちゃんと自分で気付いて、大切にしてきた気持ちです。そんな風に言わないで。ダンテ様のことを……ただ好きなだけ。好きなだけなのに――」
いつも冷静な彼女が、子供みたいに泣いている。綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、ポロポロと大粒の涙を零す。きっと人を叩くのも初めてなのだろう。こんな弱さじゃ痛くも何ともないのに。ズキン、ズキンとひどく痛む。
「……なあ、帰国して他のやつと結婚でもすんの? 階段の下にトランクが落ちてたけど」
「え?」
「まあ、どうでもいいや。させないし」
胸に置かれた彼女の手を取り上げ、金色の髪の隙間にスルリと手を入れ込む。彼女が逃げないように押さえつけたままキスをしてやった。
「ダ、ダンテさま!?」
「今まで悪かった。おまえのこと……好きだと思わなくもない」
微妙な間。彼女は不服そうに目を細める。
「婉曲ですわね」
「言えるかよ」
ぐいっと引き寄せ抱きしめると、彼女は身体を固くする。逃げようとはしない様子に、ダンテの腕の力も少し緩まる。
「あの、疑問なのですが、リエータさんとは何だったのでしょうか? いわゆる、遊びということ……?」
「だから、あれは……なんでもねぇっつーの! オレはちゃんと拒否した!」
リエータの誘いを受けたのは、もう一度だけ確かめたかったからだ。今も本当に『コノ子ジャナイ感』を感じ取ってしまうのか。
たった一人。それを感じない女の子に出会ってしまったから――この感情が本物なのか、偽物なのか、ダンテにもわからなかったのだ。
だが、"たった一人の女の子"は、疑わしい目でこちらを見てくる。自業自得だな、とダンテは息を吐く。
「……悪かったって」
「わたくしも貴族の娘ですもの。もし、他の女性と遊びたいという気持ちがあるのでしたら」
「ねぇよ」
「ダンテ様が女性にだらしがないことは重々承知しております」
「ぁあ? 見てろよ? しっかり証明してやるよ」
「今のところ、女性に手が早いという証明しかされておりませんが。わたくしはノルド侯爵家の娘。キスなどの行為は結婚するまで致しません」
「ウルセーバーカ」
聞けないことは聞かない主義だ。待てるかよ、とキスで塞ぐ。
こちとら何年、この気持ちを抱えてきたと思ってんだ。
十四年だ。
雲の向こうに隠れて見えない満月を、子供の頃から毎日毎日ずっと思い描いてきたのだ。
まるで、月に恋焦がれて満ち引きする海のように。
漂い揺れながら、たった一人を待っていた。
いくら待っても訪れない予知なんて、ひどい呪いだとすら思った。知らなければ欲しがらずに済んだのに。渇き切るほど欲しくて、憎らしくもあった。
でも――彼女は満月ではない。
どんな絵画も、いつもダンテに笑いかけてくれる。こんな風に泣いたり怒ったりしない。
彼女との出会いは『絵画の予知』だったけれど、添い遂げればそれは『馴れ初め』になる。ノーザランドの酒場でルーナに放った言葉が、今になって自分に返ってくる。
もう一度、彼女をぎゅっと抱きしめてみると、言いようのない多幸感が心の隙間を満たしていった。思わず、好きだよとかそういう言葉を耳元で零してしまう。あぁ、もう手放せそうにない。
例え、この気持ちが予知で作られた"偽物"だったとしても。
―― 偽物でも、いいや
そう思えた。
美しき【満月】に見下ろされる居心地の悪さと、このうるさいくらいの心臓の音。
彼女には抗えないのだと思い知ったダンテは、スプリング家のダイニングで愛を誓ったのだった。
「あ、上手くいったみたいだね」
「ヴィンくん」
ダイニングに遅れてやってきた親友はやたら上機嫌だった。もしや、ここまで全て読んでいたのだろうか。まさかだよな、と渇いた笑いが出てしまう。
ヴィントはにんまり顔で手を掲げてくる。
一言物申そうかとも思ったが……まあいっか。ハイタッチで答えておいた。
「ダン、おめでとう。末永くよろしくね、義妹さん」
「気が早ぇよ、義弟」
温かなスプリング家のダイニング。
飾られた四連作の前で、四人が笑い合う。
アゼイが見た光景は、きっとこれだったのだろう。




