No.78 月下氷人の涙
絵画品評会の審査日の午後。
カノラはうきうきそわそわしていた。今日一日、ヴィントはお休みの日。仕事の予定はないそうだ。
卒業式の日に想いを伝え合った彼女たちは、すれ違ったままの寂しい数か月を過ごし、やっと恋人になったのが三日前。そう、デートだ。
「ふふっ、初デートね」
街へと向かう馬車の中。カノラがそう言うと、ヴィントはすごい勢いで眉をひそめた。繋いでいる手がすっと離れていく。
「初デート……かぁ」
「ヴィンくん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ。カノラが入学する前の夏に、こうやって二人で出掛けたの忘れた?」
「もちろん、覚えてる。でも、ヴァイオリンのメンテナンスで一緒に出かけただけだもの。……あ」
そういえば、フォルと楽器店に行ったこともあったが、カノラはあれを『人生初デート』と呼んでいた。気まずい。愛が重い。
「まあいいよ。お互いに全部なかったことにしよう。今日がカノの人生初デートってことで」
さらりとフォルとのデートを消去するヴィント。カノラが笑って頷くと、彼の手が元の位置に戻ってきた。満足したらしい。
と、思いきや、再度繋がれた手は力強く引っ張られ、二人の距離がもっと近くなる。この距離は、もしかして。
「えっと……キスをするのでしょうか?」
「なにそのかわいい確認。するよ」
もう何度かされているけれど、お付き合い初心者のペースとしては早めだ。
一回、二回と、こんな風に短い分には心臓もなんとか耐えられるが、三回目くらいからやたら長い。心臓がつぶれそう。
しかし、四回目。彼が離れる気配がする。カノラは目を閉じたままでいたが、それでも触れてこないので、そろりとまぶたを開ける。
彼はそれを余すところなく見ていたらしく、「もっと?」と問いかけながら甘く微笑む。
愛の重さに比例するように、少しずつ身体が傾いていく。かけられた体重で、いつの間にかカノラの背中は座面に触れていた。もう少し深く……と、唇をついばまれる。もう恋に溺れそう。
「ヴィンくん、耳が赤い」
「カノの心臓も、すごいよ」
そう言って、彼はワンピースの胸元のリボンに触れた。その端を指先に絡め、少しだけ引っ張る。カノラは小さく呼吸をするだけで、何も言わなかった。
見つめ合ったまま、解かれていく。
そこで、ガタンゴトンゴトン。馬車が停止する。ドンドンドン、とすごい勢いで扉が叩かれた。
ヴィントが冷たい目で扉を開けると、御者席にいた侍従ランタが「着きましたけどー!? 何もないことを祈ってますけどー!?」と強めの願望を伝えてくる。賭け狂いの顔には、うらやましい、と書いてあった。
「とても危ない」
馬車を降り、手を繋いで街を歩いていると、ヴィントは唐突に危険を知らせてくる。とても真面目な顔だ。
人通りは多いし、道は整備されていて危険はない。事故も事件も起きそうにない初夏の日射し。何が危ないのだろうか。
「馬車の中の話だよ。理性がお留守だった。走行中の馬車じゃなかったら、致すところまで有難く頂戴してたかもしれない。俺は自分が怖い……」
「またまた、そんな」
走行中でも長旅のときはどうなるのだろうか。カノラは浮かんだ疑問を投げ捨てた。
「そもそも、カノが止めるべきでは? とても危ない」
「だって……ヴィンくんの耳が赤いのを見ると、何も言えなくなるの。ヴィンくんにそういう欲があるのも意外というか、淡泊な人なのかなーと思ってたし」
あのヴィントの理性が吹っ飛ぶなんて想像に難い。
「こんな重い男が淡泊なわけないでしょ」
「でも、リエータさんからは色仕掛けしても揺るがないって聞いてたもの」
ふむ、とヴィントは顎に手を当てる。
「言っておくけど、一般的な男はカノちゃんに色気を感じないからね。まったく、欠片ほども」
「辛辣リターンですね。どうぞ続けて」
「まあ……俺はこういう立場だし、色気にはかなり強いよ。一度もぐらついたことない」
どれだけ仕掛けられてきたのだろう、とカノラはちょっとモヤモヤ。しかし、彼のアイスブルーの瞳にはカノラしか映らない。
「それなのに、この体たらく。俺はカノに弱すぎるんだよなぁ……。はぁ、本当に危ない」
辛口と甘口で気が遠くなりそう。腰砕けにならないように地面を踏みしめよう。
彼は、このリスクを過小評価してはいけないだの、早急に対策したいだの、なんかぶつぶつ言っている。
「ふふっ、そういうところがヴィンくんっぽいね。二人きりにならないようにすれば対策になるかな?」
「なにその残酷な対策。二人きりになりたいなーとか思わない?」
「だって……ヴィンくんの恋人になれただけで、もう往生してもいいくらい幸せだもの」
「往生」
そのときは一緒にね、なんて言いながら、流れるようにティーサロンへと入る。
いつの間にか個室を予約していたらしく、目の前に美味しそうなスイーツやカノラの好きな茶葉が並べられていく。
これは……なんか既視感があるぞ。一口食べてみて、ノーザランドの味に似ていることに気付く。これ、セイルドとのデートを消去して上書きする気だ。愛が重い。
「真面目な話、カノは俺との結婚をどこまで真剣に考えてくれてるの? ぽんこつプロポーズは、俺の願望が生んだ幻かな」
変な名称をつけないで、と軽く小突く。
「でもね、ヴィンくんってなんかすごい侯爵でしょ?」
「一応、なんかすごい侯爵だよ」
「子爵家のわたしとの結婚はどうなのかなーって思うの。わたしの親はああやって許してくれたけど……」
「カノが結婚してくれないなら、生涯独身だよ」
でもなぁと続けて、彼は丸いチョコレートを口に入れる。それを舌で転がし、溶かした。
「気をつけるにしても……子供ができたときのことを考えるとやっぱり結婚しておきたいよね。カノのご両親にも心配かけちゃうし」
「子供」
「馬車の中じゃなかったら、してるよ。まあ……カノちゃんが卒業した後の話だけどね」
なんと返していいやら。カノラは熱い紅茶を飲んだ。とっても熱い。
「もっと真面目な話をすると……俺はね、生涯自分の子供を持たないつもりだった。背負わせるものが大きすぎるから」
それは仮にルーナと結婚していても、そうするつもりだったのだろう。”俺って悪いでしょ?”とでも言いたげに、彼は片眉をあげる。
「でも――俺は、スプリングの血が眩しいんだよね」
彼は少し切なそうに笑う。
「カノが子供を望んだとき、選択する自由をあげたい。そのためには、捻じれたものを真っ直ぐにしないとならない。ただ、その方法は――模索中かな」
ロイヤルブルーの模様が施されたカップに紅茶を注ぎながら、彼はそう言った。
以前の彼だったら、こういう考えには至らなかったのかな、と少し胸がきゅっとなる。一緒にいる意味は、きっとある。
「ずっと一緒にいたいね」
呟くように言うと、ヴィントはそうだね、と嬉しそうに微笑む。
そこで思い出されるのは、スノライン家の夜会で差し込まれた、ロスカ・スノラインの鋭すぎる眼光だ。
「うっ……震えが止まらない。まずはヴィンくんのご両親を説得しないといけないよね。うーん、我が家が頑張って侯爵家になるとかどうかな?」
「その頃には往生してるだろうね」
カノラは美味しいスイーツたちを口に運びながら考えた。アゼイ・スプリングは王族にも大人気だと聞くし、祖父の名を使う方向でいけば権力を手に入れることができるかも。あぁ、無性に権力がほしい。今になってリエータの気持ちがちょっとわかった。
そう思った矢先、彼が先にそれを口にする。
「ここは、やっぱりアゼイ・スプリングに頼ろうかな」
「え! わたしも同じこと考えてた!」
しかし、ヴィントが考えていることは全く違う方向だった。とても楽しそうな――悪い笑みを浮かべながら、彼はこう言うのだ。
「俺たちは幸せいっぱいだからね。月下氷人――四連作【満月】に協力してあげよう」




