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No.76 ひとりぼっちの二人


「乾杯!」


 スプリング家のダイニングで、ヴィントたちはグラスを掲げる。目の前には、カノラの母ライラが作ってくれた軽食が並んでいる。


 だが、ヴィントは口を濡らす程度でグラスを置いた。


 贋作を描く上で一番難しく、その核だと感じていたのは、アゼイ作の鑑定の中心にいるシンス・スプリングの目を欺くことだった。乾杯という言葉が、この場に似合うのかもわからない。


 シンスはワインを飲み込み、口を開いた。


「"誰もがまだ見ぬ五番は、いつ現れるだろうか"」


 新聞のインタビューで、アゼイ本人が発した言葉だ。


「大陸中探しても見つからなかったが、本当に現れるとはね。(アゼイ)には驚かされてばかりで、実に憎らしい」


 彼はご機嫌にワインをあおる。穏やかなスプリング家のダイニングに、カチン、カチンとヒビが割れそうな音が鳴り響く。


「なあ、親父」ダンテはグラスを空にして、尋ねた。

「ノルド家からは二枚の五番が提出されてたじゃん。審査員たちの票はどーだったわけ?」


 シンスが渋る様子を見せると、ライラが「審査はもう終わったんだから、いいんじゃない?」と微笑む。彼女の名前は、ライラ・スプリング。公私ともにシンスを支えるパートナーだ。シンスはライラにめっぽう弱い。


「……まあいいだろう。二枚を見た審査員たちは、そりゃあもう阿鼻叫喚だったさ。ノーザランドの鑑定士の意見は二つに割れていたよ。すぐにセントステイト王国の品評会に送られ、結果、ほとんどの票が【ダイニングの絵】に流れた」

「その理由は?」


 ヴィントが問いかけると、シンスは笑った。


「技術と題材。総合的に見て、ダイニングの絵こそがアゼイだった。ただ――」


 そこで、人差し指を立てる。


「一つ、橋の絵には驚くべき点があった。正直に言うと、もしノルド侯爵家から出された五番が【橋の絵】の一枚だけであったなら、私も真作だと通しただろうね」


 ぞわりと鳥肌が立つ。あの日、ノーザランドの学生寮の窓から美術館を眺め、橋の絵がそこに飾られる未来を想像したことを思い出す。その未来は、確かにあったのだ。


「橋の絵の、驚くべき点というのは……?」


 ヴィントの問いかけに、シンスは「鉱石だ」と答えた。


「アゼイは赤い絵の具をつくるときに好んで入れる鉱石がある。これまで数多くのアゼイの贋作を見てきたが、それが含まれている絵は一枚も見たことがない。ところが。今回提出された二つの五番にはそれが含まれていた」


「桜石――チェリーブロッサムストーン。ばあちゃんの石だろ?」ダンテが答える。


 シンスは少し間を置いてから頷いた。


「赤色にはヘマタイトを使っていたが、アゼイはそこにわずかに桜石を入れる。私の母親――アゼイの妻はダンテと同じ赤髪でね。母の名前がチェリスだったから、そこからもじって桜石を使いたがったんだ」


 アゼイ好きからは、"アゼイの愛した赤髪"と呼称されている。シンスは息子の赤髪を見ながら続けた。


「私がアゼイの鑑定をするときには、必ず桜石の結晶の輝きを見ている。通常なら見えないほどの、僅かな光だ。橋の絵の贋作者は、相当研究を重ねたのだろうね」


 シンスは赤ワインを傾けながら、話を続けた。


「桜石は無色透明に近いピンク色だが、元々はアイオライトという青色の鉱石なんだ。長い年月をかけ、その中身だけが変化したものだと言われている」

「仮晶、ですよね」


 以前、なにかで読んだことがあった。同じ鉱物であったはずが、中身だけが別物になってしまう。そういう現象があるそうだ。

 

 シンスの真意に気づいたヴィントは、一度目を閉じて、ゆっくりと開く。グラスを置いてカノラの両親をじっと見た。

 それに応えるように、彼らもグラスを置いた。


「本当に、良い瞳をするようになったね。……やっと確信を持てたよ。ヴィント君、幻の五番を描いたのは、きみだね?」


 シンスは静かに告げた。まるで鉱物談義の延長かのような、涼しげな声だった。


 ヴィントはテーブルの下で握っていた手を解いた。


「はい――そうです」


 ガタンと音を立て、ダンテが立ち上がる。


「バカヴィン! そこははぐらかすとこだろーが! なんで言うんだよ!」

「ごめん。でも、いいんだ」


 元々、シンスにはどこかのタイミングで告白するつもりではあった。例え、欺けたとしても。

 カノラを生み育てた人だというのも理由の一つだが、それだけではない。


 ずっとひとりぼっちだった二人分の自分――ヴィント・スノラインと名もなき彼の両方に居場所を与えてくれたのは、カノラの両親だ。

 

 感情を吐露するように描いていただけの絵を見て、コンテストに出せと背中を押し、販路を与え、仕事相手として対等に扱ってくれた。


 本来なら家族以外立ち入り禁止であるはずのスプリング家のダイニングに、こうしてヴィント専用の席まで用意してくれて、まるで家族の一員かのように受け入れてくれた。救われたんだ、この人たちに。


 ヴィントは名もなき画家・アノニマスの顔で、シンスに尋ねる。


「どこでわかりましたか? ……俺の技術が、足りなかった?」

「いや、描き方はアゼイそのものさ。技術の話じゃない。あの絵を父が描いたとすると、大きな矛盾が生まれる。それでわかっただけだよ」


 シンスはにんまりと笑う。その指先は、四連作を順番に指していく。一枚、二枚、三枚。


「幻の五番に描かれていた絵は三枚だけだ。カノラ、どれが省かれていたか――いや、ヴィント君の心の中にある宝箱に入れられたかわかるか?」


 五番に描いた三枚の絵は、一切の構図を描かずに色合いだけで現した。カノラは少し頬を染める。


「白、黒、赤の絵は描かれていたから……五番に描かれていないのは【菜の花】」

「そういうことだ。こんなに素敵な愛の告白、私は初めて見たよ」


 一番好きなものは、描かない。アゼイのルールだ。


 カノラも美術館で気づいていたのだろう。少し俯きがちに、きらきらとした瞳を向けてくる。二人きりならまだしも、彼女の両親の前だ。可愛いが、居たたまれないし、可愛い。

 スプリング家に通いつめた約四年間。彼女の両親に気持ちがだだ漏れだったのかと思うと、顔に熱が集まっていく。今なら火も吹けそう。


 ヴィントは降参するように、手を挙げた。


「実は、スプリングのみんなに黙ってたことがあるんだ。カノ、預けてあった鞄を持ってきてくれる?」


 五番の題材を決めた日から、いつかこうしなければならないと思っていた。


 ヴィントはポケットから、銀色の小さな鍵を取り出した。






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