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No.72 相容れない、二つの存在


◇◇◇



 過去の話をしている間、ヴィントの視線はずっと窓の外に向けられていた。二人の手は繋がれたまま、カノラはその横顔を見つめていた。


 時折、窓の外で鳴る木々の音やベッドの軋む音が、十三歳当時の彼の嗚咽や心が割れる音に聴こえてしまって、その度に重ねられた手を握る。

 彼は小さく握り返してくれた。過去と今は繋がっているのだ。


「じゃあ、ヴィンくんが描いた絵のうち、作品ナンバーをつけてたものは……わたしの絵ってこと? あのおどろおどろしい絵も?」


 猫と魚のどちらか一方が死んでる絵とか、血液のような真っ赤な絵の具が塗りたくられた絵を思い出す。割と重めの愛をお持ちのようで。


「あ! だから、ランタさんに全部捨てるように言ったのね?」


 カノラが目を細めると、彼は気まずそうに斜め上を見る。


「そりゃあ、カノへの恋愛感情を描き連ねた絵なんて、この世にあっても怖いだけだし」

「保管しておいて良かったです。宝物にしよーっと」


 ヴィントは眉をひそめて、カノラの額に人差し指を当てる。むぎゅ。指の圧が強い。


「廃棄済みだって聞いてるけど? ランタの報告は嘘だったわけだ」

「だって……絵をやめるつもりなんでしょ? そんなのダメ。好きなものは大切にしないと」


 彼は少し首を傾げ、記憶を整理するような仕草で上を向く。


「絵はやめないよ? 今度、新しくアトリエを作る予定で、ランタに場所を探させてる最中だから。口外できないだろうし、ランタに濁されたんじゃない?」

「……言われてみればそうかも」


 絵をやめると思い込んで勝手に憤慨し、のこのこと夜会に忍び込んで、こうしてヴィントと話をするに至っているわけですが。思い込みって怖い。


「でも、カノの言う通りかもなぁ。本当は名もなき画家も辞めた方がいいんだろうね。きっかけも不純だし」

「不純?」


 カノラは続きを待ってみるが、彼は曖昧に微笑むだけ。

 しかし、すぐに「あ」と言って頬をつねった。


「正直に言う。もしカノと両想いになれたら、ヴィント・スノラインを捨てて二人で生きていくのもいいなって。そんな夢を見た時期もあってさ。食い扶持になるかと思ったんだ」


 え、と驚く。

 彼が一学年だった春頃。父親であるシンス・スプリングが『絶対にコンクールに出すべきだ』と、彼を口説いていたのを知っていたから、それが名もなき画家誕生のきっかけだとカノラは思っていた。


「もちろんシンスおじさんの後押しがあったからだけど、動機は手に職。腕試ししてみたら、本当に売れちゃった」

「フークリンが聞いたら嫉妬で爆発しそうですね。……今はそういう風に考えてないの?」


 すべてを捨てて、二人だけで生きていく。

 彼は考えていない、と優しく言った。


「カノは領地の人々のこと――手紙をくれた男の子のことを覚えてる?」


 フークリンの贋作【ランチタイム】の持ち主の少年のことだ。


「うん、絵を守ってくれてありがとうって言ってくれた子。あの子もヴィンくんのこと大好きだよね」


「あんな風に慕ってくれてさ。カノは彼らを見捨てられないでしょ? 畑はろくに育たないし、雪はひどい。あの土地は、暮らすためのほとんどを“交渉“で稼いでるんだ」


 言ってることは大人だけど、彼は下唇を噛んだり口先を尖らせたり。なんだか子供みたいな仕草をしていた。頑張り屋だなぁと思って、カノラは彼の頭を撫でる。


「なに突然。子供扱い?」

「ふふっ、ごめんね。……ねぇ、ヴィンくん。十三歳のときに泣くのを我慢してたのは、このベッド?」


 カノラが動くと、ランプの小さな火が心細そうに揺れた。ヴィントはサイドテーブルの近くを指差す。黄色のランプの隣だ。


「ここの隅っこ。ランプの近くで毛布をかぶってた」

「やってみて」

「今? 何の実演?」

「おねがい」


 ヴィントは少し恥ずかしそうにしながらシーツをめくり、ごろんとベッドに転がる。


「あー……懐かしい。まだ五年半しか経ってないのにね」


 そう言って、彼は唇を噛んだ。


「がんばって目を瞑るんだけど、それでも泣きそうだった。本当の父親を見殺しにした日の夜も同じように……ずっと、この火だけを――」


 そこで彼は言葉を止めた。この小さな灯だけが彼の味方だった。


 カノラは靴を脱いでベッドに乗り上げる。ヴィントの隣に寝そべって、彼の背中にひっついた。大きなベッドの隅っこに、二人のかたまりが転がっている。


「カノ?」

「ずっと一緒にいたいなぁって、気持ちが込み上げちゃった」

「……いつかカノラも見殺しにするかもよ?」


 彼は意地悪だ。カノラは小さく笑ってしまった。


「ヴィンくんに見殺しにされるほど、わたしは弱くないですよーだ。今日の夜会みたいにやり返してあげる」

「あはは! たしかに。カノがヴァイオリンを弾いた瞬間、『あ、負けたな』って思った。悔しくて――すごく、嬉しかった」


 ヴィントは仰向けになり、ランプの火から天蓋に視線を移す。こうやって並んで寝ころんでみると、ずいぶんと綺麗な横顔だなぁと、彼をじっくり見てしまう。


 彼は、もう一つ白状するね、と言った。


「俺が贋作【菜の花】を消去しようと躍起になってたのは、ダンのためだけじゃないんだ。本音を言うと、他の男に菜の花を描かれたのが嫌だった。汚された気がして、本当に……嫌だったんだ」


 この三年間、彼が【菜の花】に向け続けていた視線を思い出す。あの熱は、今の彼がカノラに向ける温度と似ている。絵画を身代わりにして上手く隠していたのね、とカノラは眉を下げる。


「だから、父さんと交渉したんだ」


 彼は目を瞑り、一度息を吐いてから続けた。


「ルーナ・ノルドとお近づきになるのを条件に、スプリング家に関わって自由にやらせてもらう許可をもらった。でも、領地で刺されたときに、本格的に父親がスプリング家から引き剥がそうとしてきたから、その場で婚約を決めて黙らせた」


「え、そんな交渉してたの?」


 彼は、掠れた声で「そうだよ」と言った。


「幻滅した? 俺にとっては、結婚なんて手札の一枚でしかないんだ。ルーナ嬢に出自を伝えるつもりもなかったし、騙す形になってもいいと思ってた。そういう男だよ」


 彼は自嘲しながら続ける。今でこそ婚約は白紙になったが、当初はそうするつもりもなかった、と。


「父親がノルド侯爵家にこだわっていたから、このまま結婚する方が便利だなって思ったんだ。もし結婚後に出自がばれても、ノルド侯爵家は秘密の共有者にならざるを得ない」


 彼は天蓋に向かって手のひらを広げ、何かを絡め取るようにそれを握る。まるで罰を下すように、その拳を振り下ろし、額を叩いた。


「でも、予定変更。婚約が白紙になるように仕向けた。カノの気持ちに気づいちゃったから、このままじゃいけないと思って――」彼はまた頬をつねる。


「……ごめん。違うな。一番の理由はそれじゃない。白紙にした理由、カノはわかる?」


 婚約を白紙にするなんて自由自在に仕向けられるものなのか疑問に思いつつ、カノラは「ルーナさんへの罪悪感?」と答えた。彼は首を横に振る。


「カノがルーナ嬢と仲良くなっちゃったからだよ」

「わたし?」

「だって、カノの友達を騙して追い込んだら、いつかどこかでカノが悲しむことになる。だから、やめた」


 あんぐりと口を開いてしまう。

 彼の善性は、カノラに左右されすぎている。


「俺って、悪くて重い?」

「うん。とっても悪くて、とっても重い」


 思い返してみると、彼が嘘をつくのは、全部カノラのため?せい?だった気がする。善いも悪いもかき混ぜてきた彼は、そうしなければ生きられなかったのかもしれない。


「……じゃあ、わたしは正しく生きないといけないね」


 ぽつりと言うと、彼は驚いたように顔を上げ、カノラを見る。大きなベッドの隅っこで、二人の視線が初めて交わった。


「待って。ここまで話しても、まだ俺と一緒にいる気があるってこと? 相当、苦労すると思うけど」

「あー、ヴィンくんって勝手に苦労を背負うタイプだもんね。逆に、わたしがなるべく楽しく生きていれば少しは軽くなるかな?」

「軽い」


 こんなに悩み苦しんでいる人間の隣でちゃらんぽらんに楽しく生きることができるだろうか。ここぞというところでメンタルがゴリラになるよね、なんて呟きながら、彼は諦めたようにベッドに頭を預ける。


 向かい合って寝転がり、二人は手を繋いだ。見つめ合うと、繋がっている部分が溶けて曖昧になっていく。


「ねぇ、今のわたしたち、ヴィンくんの絵みたい。――作品No.72【相容れない、二つの存在】」


 彼に恋の相談をし、四連作の海水を見返りにして契約書を交わした日。彼が描いていた絵だ。


「よく覚えてるね」

「わたしの部屋に飾ってある。やたら豪華な額縁に入れてみた」

「最低だね」


 彼はふっと笑った。


「相容れない二つの存在――猫と魚の絵だっけ。もし二匹がいるのが地上なら、魚の方が死んでいる。もし水中なら猫の方は息ができない。どちらか一方は死ぬしかない」


 カノラは首を横に振って、彼の手をぎゅっと握って伝えた。


「苦しくても、二人が一緒に生きていく方法があるかもしれない」


 相容れない二人が、どちらか一方しか生きていけない環境で、しっかりと手を繋いで息をしていく。きっと、息苦しくても、どちらも生き長らえるような境界線上があるはずだ。


 水が水蒸気や氷になって、形を変えても存在し続けるように。


 彼と彼女の二つの存在。

 ヴィント・スノラインと名もなき彼の二つの存在。


 探せばいい、その曖昧な境界線上を。


 カノラは勢いよく起き上がって、ヴィントの手を引っ張る。彼は少し戸惑いながらも、一緒に起き上がってくれた。


「本当はね、『わたしが苦しみから救ってあげる』とか言おうと思って、ここに来たの。でも……悔しい。全然、言えない。わたしにできること、なにもない」


 本当の父親の罪。ロスカやルミアの罪。そして、死人でありながら生きているヴィント・スノラインの存在。もう、どうにもならない。


 彼は少し俯いた。


「うん……俺もそう思う。答えが見つからなくて……苦しい」


 カノラは息を吸って、だから、と続けた。


「わたしも一緒に苦しむ」


 声が震えてしまった。目の奥がつんとして、熱が灯る。


「解決できなくてもいいじゃない。答えなんて、どこにもないかもしれないのに、なんでそんなものを――」

 

 言葉が詰まって、上手く出てこない。カノラは彼を引き寄せ、力いっぱい抱きしめる。


「わたしの幸せって、小さくて、ちゃんとしてなくていいの。死ぬ前に『めちゃくちゃ苦しかったね、人生って難しいね』って、ヴィンくんと抱きしめ合えれば、それでいいの」


「……それがカノの幸せ? なにそれ。考えたこともなかった」


 そんな生産性のない関係ありえない、自由すぎるでしょ、と言いながら彼は笑った。


 でも、その肩は小さく震えていた。カノラの白いワンピースを、彼の涙が濡らしていく。固く凍っていたものが溶けて流れていった。


「……カノは、本当にそれでいいの?」


「うん、それがいいの」


 しばらくの沈黙のあと、彼は「俺の負けだね」と小さく言った。



 もう冬は明けて、春の夜だ。

 

 何もない真っ白なベッドの上で。

 菜の花みたいな黄色のランプに照らされて。

 まるで罪を分かち合うように、二人はシーツに隠れて何度もキスをした。


 向き合って、視線を合わせて、手を繋いで。

 "大好きだよ"と誓い合う。


 夜空には、まるで絵の具を散りばめたような春の星が、嬉しそうに瞬いている。キラキラ、キラキラ。やっとくっついたか、まったく世話が焼けるね。大丈夫だよ、見守っているからね――って。









ヴィント・スノラインの名は、スノーライン(氷雪限界線)から取りました。

 

水が、水蒸気として存在するか。氷として存在するか。

その境界線がスノーラインです。


恒星の光を熱源にして、水が状態を変えていくように。

唯一の光であるカノラとの距離によって、彼も形を変えていく。その境界線上で、二つの存在を行き来しながら、心地良い自分を形成していく。

そんな意味を込めました。


"ヴィント"の方は、winterからもらいました。

でも、彼の人生からすると少し美しい単語だったので、音を濁らせてヴィント。濁ったことで結果的に、"Vint"となり、勝利のVを得られるので、なんか幸せになれそうだな~と思ってそうしました。


長々とあとがき失礼しました。

引き続き、よろしくお願いします。



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