No.71 名もなき画家の恋
王立学園は眩しかった。
入学して、初めて同年代の中に放り込まれてみると、耳が割れそうなほど騒がしい。ここにいるのは全員貴族のくせに……なんかみんな明るい。青い春だ。
「……うお!? まじか!?」
席に座って教師の話を聞いていると、真後ろから声が聞こえる。三拍後、足下にふわりと資料が落ちてきた。ヴィントはそれを拾い、後ろの席の生徒に渡す。
「どうぞ」
相手は資料を受け取らず、口をあんぐりと開けて目をひんむいている。なんだこいつ、と思った。
「まじびびったー! めっちゃシンセツじゃね!?」
「……どういたしまして?」
そんなに親切だったかな、なんか可哀想な人だな、と首を傾げながら前を向く。
「なあなあ! 名前、なんてーの?」
だが、間髪入れずに肩を叩かれる。振り返ると、赤髪の少年はニカッと笑っていた。
「オレはダンテと申す!」
「ヴィント・スノライン。今、先生の説明中だよ?」
「あ? なんだって?」
「あのさ、きちんと前を向いた方がいいと思うけど」
「オレは前を向いてるけど」
「……そうだね。向いていないのは俺の方だね」
ヴィントはちょっとイラっとしながら、身体の向きを直す。
「って、ちげーわ。名前だよ。全然聞き取れなかった」
「……ヴィント・スノライン。ちょっと声が大きいよ」
「全然きこえねーし」
「どうか聞く耳を持ってほしい」
「もーいいや。名無しって呼ぶわ」
なんという傷のえぐり方だろうか。さすがのヴィントも勢いよく振り返ってしまった。
「ヴィント」
「おっけー、ヴィントな! このあとヒマっしょ? オレんち来いよ」
「……は? 嫌だよ」
あまりの勢いに、相手の家名を知る前に普通に断ってしまう。入学早々、社交の難しさを知る。教師には怒られ、同時に理不尽さも知った。
どうやら赤髪の少年は社交に長けているらしい。初日だというのに、クラスの全員と旧友かのように話す話す話す。口が服を着ている。
変なのに絡まれたなぁと面倒にも思ったが、家にいてもどうせ空虚だ。結局、ダンテに引っ張られる形で馬車に乗せられてしまう。
「そういえば、まだ家名を聞いてなかったね」
「まじ? スプリングって言わなかったっけ?」
す、ぷ、り、ん、ぐ、と口の中で復唱する。敬愛するアゼイの孫だと知って、飛び上がりそうなほど驚いた。久しぶりに大声を出してしまい、馬車が揺れて身体が弾んだ。
スノラインとスプリングで出席番号が前後だったことは、あるいは運命だったのかもしれない。名もなき彼とヴィント・スノラインの二つ分を抱えて生きているのだから、運命も二つあるのかも。
今日、もう一方のそれが動き始めたような気がした。
「到着! ここがオレの生まれ育った家だ」
「わぁ! ここがアゼイの生まれ育った家かぁ」
ヴィントは馬車を降り、くねりと曲がった道を歩く。
屋敷を目指しつつも、アゼイのアトリエ小屋や画廊に寄り道をして、そのたびに心に光が差し込んでいく。
屋敷の中はまるで美術館だ。
聴こえてくるヴァイオリンの音が心地良く、そのリズムに合わせてヴィントは歩を進めた。
六歳のときにアゼイと出会い【No.000】を渡されたときから、ヴィントは絵画の虜だ。
でも、十三歳の夜にスケッチブックを切らしてから、描いても描いても空っぽなままで――なぜだか上手く描けなくなってしまった。
ダンテは鼻歌交じりに二階にあがる。大きな扉を開き、ふんぞり返った。
「んで、ここがスプリング家の名物。スプリングダイニングだ!」
「うん、とても普通のダイニングだね。韻を踏んで紹介するほどの――ん? 待って。なんか既視感がある」
「今日、ヴィントをここに連れてきた理由を発表する。これを見せたかった。じいちゃんの四連作だ!」
ヴィントが振り返ると、そこには四枚の絵画が飾られていた。右から順に深雪、満月、海水、そして菜の花。
既視感の正体はすぐに分かった。これはアゼイからもらった【No.000】の景色そのものだ。あの絵はスプリング家のダイニングを描いたものだったのか、と鳥肌が立つ。
ダイニングテーブルには銀皿に乗せられたフルーツ。壁には焦げ茶色の大きな暖炉。その上に並べられた絵画が、一、二、三……四枚。
「一枚、増えてる」
ヴィントがそう言うと、ダンテは首を傾げる。
「どした?」
「あぁ、いや……ちょっとびっくりしただけ」
だが、アゼイにとっては自宅のダイニングだ。彼が描いたとしても不思議ではない。
「綺麗だね」
ヴィントは向かい側に座って、四連作を眺めた。
しかし、そこで奇妙な現象に気付く。四枚を均等に見ようと思うのに、どうしても一番左の【菜の花】に目がいってしまう。視線を隣の海水に移動させるも、意識は菜の花ばかりに向く。
抗おうとしてもどうにもならないので、一つ素直になって、ヴィントはそれだけを見つめた。
「菜の花……俺、すごく好きかも」
「やっぱり!? どどどどんな感覚……?」
ダンテは前のめりで聞いてくる。
「なんだろう。吸い寄せられる、という言葉だと美しすぎるかな。まるで吸い取られるような引力を感じる。でも――これは離れたら死んでしまうほどの多幸感だね。砂糖を混ぜ込んだ空気や水みたい」
「天才か。よくそんなすらすら出てくるな。オレたちは親友だ」
「え、いきなり? 距離感を掴むの下手な人?」
高揚しているのか、ガッツポーズを取りながら肩を組んでくる。近い。
「なぁ、他の三枚はどんな感じ!?」
「んー? もちろん素晴らしい絵だと思う。でも……菜の花を見ちゃうとね。ダンテもそう思わない? ――っていうか、これ何の質問?」
ダンテはハッとして離れ、頬を痙攣させて立ち上がる。謎のファイティングポーズを向けられる。なんか可哀想な人だなと思った。
「そんなこと思わねーよ! オレは、断じて、違う!」
「そ、そうなんだ?」
「あぁ~、もう嫌だ~。なぁ、四連作なんか燃やして解き放たれよーぜ。いや、売り払おう。酒場で出会ったしがない絵描きにでも売っちゃえば足はつかねーだろ。一緒にやろーぜ!」
「気軽に大罪に誘わないでほしい」
約三年後、贋作を描こうと大罪に誘う男が物を言う。
「オレはいつかやる。心に決めてっから」
「そっか。もし決行したら友達やめるって心に決めておくね」
そこで、ずっと奏でられていたヴァイオリンの音が止んだ。ヴィントは立ち上がり、ジャケットの裾を払った。
「ご両親に挨拶しないと。今日はパーティーでも開いてるの?」
「パーティー? いんや、親は出かけてるからいねーけど。いるのは……妹だけ」
「妹?」ヴィントは片眉を上げる。
「妹君がヴァイオリンを弾いてたってこと? 驚いた。プロの奏者を呼んでパーティーでもしているのかと思ってた」
とても良い音色だったな、とヴィントは微笑む。その様子を見て、ダンテは眉を寄せた。
「……どどどどうする? 妹に会ってみるか?」
「そうだね、挨拶はさせてもらおうかな」
「軽っ! 本当にいいのかよ? 後悔はしないか!? 一生の話かもしれねーぞぉお!? 頼むから、もっと悩めってぇええ!」
「目が怖いよ」
謎に血走っているダンテの目。がくがくと肩を揺すられ、ここで一生を終える覚悟を問われる謎。
そんなに危険な妹なのだろうか。とんでもない武闘派なのかもしれない。会った瞬間にワンパンで吹っ飛ばされるのかも。
少し不安になってしまったヴィントだが、否応なしに運命の扉は開けられてしまう。
「お兄ちゃん、帰ったの? 学園初日はどうだった……え!?」
ダイニングの扉が開く。目が合う。
お互いに、とっても、驚いている。
本当に殴られたかと思った。いや、もっと鋭利だ。脳天に矢。
アゼイに釣られて入ってしまったが、このダイニングは大きな怪物の口の中だったのだろう。そこに女神が現れ、神聖な矢を放たれる。ザクッ。そんな痛々しい祝福を受ける。
―― あ……俺、この子のこと……好きになる
菜の花を見たときと同じだ。いや、それ以上の強い引力を感じる。彼女の丸い黄色の瞳は、まるできゅるるんと光る恒星だ。黄色って、こんな素敵な色だったかな。
しばらく見つめ合う二人。
ヴィントは心の中で、ちょっと浮かれていた。もしかしてお互いに一目惚れしちゃったのかなーとか考えちゃって、顔が熱くなっていく。
「ちょちょちょっと! お兄ちゃん! 屋敷には家族以外立ち入り禁止でしょ? なにやってるの」
残酷な勘違い。妹君は兄の失態に驚き、怒っているだけだった。
「まーいいじゃん! 過ぎたことは置いといて。こいつは妹のカノラ。一個下だから来年入学予定」
カノラは少し頬を膨らませて兄をひと睨み。ヴィントに視線を向けたかと思うと、ぱっと顔を明るくする。笑顔が可愛すぎて、これまた甘い衝撃を受ける。アイスキャンディでこめかみを刺されたかと思った。
「カノラ・スプリングと申します。騒々しくてごめんなさい」
「いや、こちらこそごめんね。えっと……よろしく、ヴィン――」
ヴィント・スノライン、と上手く言えなかった。初恋の衝撃で突然口下手になってしまったのかもしれないし、あるいは他人の名前を言いたくなかっただけかもしれない。
しかし、彼女はにこりと微笑む。
「ヴィン様ですね! どうぞ、お見知りおきを」
「え?」
ヴィン。初めて名前を――『ヴィント』とは別の名前で呼ばれた。ひとりぼっちで沈んでいた暗闇の中に、春の光が差し込む。
ヴィン。心の中で繰り返す。
ヴィン、と何回も。
「お兄ちゃんったら、お茶も出してないのね。えっと、ご友人の方はなにかお飲みになりますか? お好きな茶葉は?」
「……茶葉はなんでもいいけど、呼び方はヴィンがいい。ヴィンって呼んでほしい。俺もカノって呼んでいい?」
彼女は目を丸くして、苦笑いをする。
「呼んでいただいて構いませんが、呼ぶのはちょっと……。打ち首になりません?」
「なりません。仰々しく呼ばれるの、好きじゃないのかも。たった今、生まれた感情なんだけどね」
「なるほど、生まれたての感情ですね」
「この気持ちを大事に育てたい」
ヴィントはやれやれと肩をすくめて見せる。
「うちは家族団らんって雰囲気じゃなくて、どこか他人行儀なんだよね。せめてここでは自然体でいさせてよ。カノも、その方がラクでしょ?」
彼女が戸惑っていたので、ならばと思い「ダンテもヴィンって呼んでよ」と言った。
「おー! それいいじゃん! オレのこともダンって呼べよ。ダン、ヴィン。天才的に良い響きだ」
それで一つ敷居が低くなったのか、カノラは『ヴィンくん』と可愛らしく呼んでくれることになった。彼女が呼ぶたびに嬉しくなって「なに?」と甘やかすように返事をしてしまう。
あったかくて幸せで。
まるで、今日は誕生日みたいだなと思った。
この日の夜、久しぶりに彼の腕は迷いなく動いた。
スケッチブックに描いたのは、カノラの絵だ。
今まで作品タイトルなんて大層なものを掲げたことはなかったが、この怖いくらい幸せな気持ちを形にしたくて、絵の下部にそっと添えた。
No.01【カノラ・スプリング】――彼女の名前を書くのが気恥ずかしくて、そこに僅かな罪悪感が加わって、少しだけ手が震えた。
その次に会ったときも、その次も。
心に刻みたい光景や、どうしようもない感情をすべて絵にした。
わかっている。この恋は、オールオーバー。
恋に落ちた瞬間、もう恋は完全に終わっている。
汚れなき娘を好いてしまった、名前すらない馬鹿な男。
その絵が二十作目を越えたとき、終わりの見えない"終わった恋"を皮肉るように、連作名をつけた。
連作【名もなき画家のオールオーバー】
彼が描き始めた、長い長い連作の始まりだった。




