No.70 汚点
どうやって自分の秘密を暴くのか。
十四歳のヴィントは、その手立てをすぐに思いついた。ロスカ・スノラインなら、絶対にランタを使って出自を調べているはずだ、と。
真夜中。ヴィントはスノライン領主館の父親の書斎に忍び込んだ。
何年も親子をやっていたのだから、皮肉にも隠しそうな場所なんて手に取るようにわかる。
万が一、誰かに見られたところで秘密の資料だとは思われないような場所。書斎にある山のような書類の中に手掛かりはあるはず。
ヴィントは部屋の真ん中に立って、ぐるりと見回した。棚が怪しい。
しかし、隙間なく並んだ資料を見たところで、途方もない量だ。ぱらぱらとめくりながら、ヴィントは父親とのやり取りを思い出す。
十歳頃から、少しずつ父親の仕事を手伝い始めた。とても厳しい人で、全ての仕事を徹底的に叩きこまれたけれども。
「そういえば、裁判関係だけは触るなって……父さん、いつも言ってたな」
罪には罰を。人を裁くためには人としての経験が必要だと、父親から口酸っぱく言われている。未成年である息子に犯罪の詳細を見せたくはないという親心が、なんだかくすぐったかった。
だから、疑問に思ったことはなかった。
なにかに導かれるように、ヴィントはその棚の前に立つ。綺麗に並べられたファイルの背表紙に指を置き、するりと滑らせていく。
一段目、二段目、三段目の棚まで来て、指が止まった。その一冊だけ、背表紙が妙に黒い。何度も取り出して、開いたり閉じたりを繰り返したような跡があった。
少し震える手と、破裂しそうな心臓の音。
紙をめくっていき、そこにたどり着く。
ランタの筆跡だ。他の紙よりもずいぶんと古く、破かれていた部分を修復した跡がある。ところどころインクが滲んでいるが、読み取れるくらいには整えられていた。
資料は七枚。そのうち一枚は、暗号めいた形ではあったが、ヴィントが領主館に捨てられていた日のことが記されていた。連れてきたのは母親のようだが、ほぼ記述がなかった。
二枚目は、当時の使用人のリスト。だが、見覚えのない名前ばかりだ。
他五枚分は、本物の裁判資料だった。父親が犯した事件の詳細。五枚が埋めつくされるほど、何度も収監と釈放を繰り返している。紙に触れる手が湿っていく。
怖い、と思った。
例えばこれがパン屋の男だったら、ヴィントは客を装ってパンを買いに行っただろう。粉まみれの男の手を見たら、そのパンが多少不味くても、きっと全てを許したし、自分自身を受容できたはずだ。
会いに行くべきか。怖くてたまらない。
迷いに迷って、その翌日。ヴィントは書かれていた住所を訪ねた。
訪ねたと言っても、遠くはなかった。ヴィントが暮らしてきた街に、本当の父親も住んでいたから。領主館に赤子を捨てたのだから、この街に住んでいてもおかしくはない。
領地では誰もが知る『ヴィント様』だから、この銀髪碧眼を顕示したまま男の家を訪ねるわけにはいかない。
降る雪を払いのけながら考えあぐねていると、家の向かいにある酒場から客が出てきた。
吐く息が、一瞬だけ止まった。
ここに来るまで、男が犯罪者であってもパン屋であっても、会ったところで見分けられないと高を括っていた。
だが、男の髪色を見た瞬間に悟った。雪が混じったような銀色だ。ルミアとお揃いの――銀。
「んあ? おいおい! あんた、ヴィント様じゃないか」
男は酒臭い息を吐きながら気軽に話しかけてくる。まるで触ったら幸せになれる銅像を撫でるかのように、ヴィントの肩に手を置いた。
優しい領主の息子の顔をして、軒先に誘導する。寒空の下ではあったけれど、かなり酒を飲んでいるようで話は弾む。趣味や好きな食べ物。それから、家族の話。
視線、間の取り方、声の抑揚。それらを上手く使えば、誰だって心の内側を垂れ流してくれる。皮肉なことに、そういう教育を施され、育てられたから。
「ずいぶんと話し込んじゃったね。暗くなってきた。……家族が待ってるんじゃない?」
「いんやぁ、家族なんていないですよ。嫁には逃げられちまったよ」
色男なのにね、ヴィントは微笑んだ。
「じゃあ、子供は?」
そういやぁ、とか言いながら、男はへらへらと笑った。
「そいつとの間にガキができたんですよ。生まれたら売って金に換えようって言ったら、でけぇ腹のまま出て行っちゃってさ。損したよ」
「……奥さん、どこかで元気にしてるといいね」
「産んですぐに病気で死にましたよ。ほら、十年くらい前に流行病があったでしょ。悲しいもんだねぇ」
ドクン、ドクン、と心臓が動く。ヴィントは胸を手で押さえつけた。
「……子供が生まれたって、連絡が来なかったの? 会いにいったりとか」
男は考える素振りを見せていたが、その視線は少し離れたところにあるレストランに向けられていた。身なりの良い客が出入りするたびに男の目玉がぎょろりと動く。
「あぁ、そういや一度だけ手紙がきましたよ。あんま覚えてねーけど、たしか名前を決めてほしいって話だったかなぁ」
「名前?」
俯いていた顔をあげる。本当の名前を知れば、『ヴィント・スノライン』とも上手くやっていける気がした。名前を知りたい。心が沸きあがる。
「なんて名前にしたの?」
「やだなぁ、名前なんて付けちゃいませんよ」
男は手を叩いて笑った。
「面倒だなぁと思ってたら、返事をする前に死んだって知らせがきちまって。子供も一緒に野垂れ死んだって話ですよ。あぁ、もったいねぇことしちまったなぁ」
「……そっか……もったいない、か……」
もったいないという言葉は、こんなにも心を傷つけるものなのか。そんな簡単に惜しむなよ、と叫びたかった。
肩に乗る男の手を適当に振り払って、ヴィントは雪の中を走って帰った。睫毛についた雪が溶けて涙と混ざって視界が歪む。それでも走った。
転んで泥だらけになっても構わなかった。
どうせ、汚れたままだ。
約束通り、一週間後には王都に帰宅した。
本音を言えばこのままどこかへ消えてしまいたかったけれど。
日常は変わらずに進んでいく。
しかし、一週間も経つと、『ヴィント・スノライン』と呼ばれるたびに、ひどく後ろめたい感情が滲み出るようになった。
それでも名前を呼ばれたら返事をし続ける。
挨拶をするときは「ヴィント・スノライン、よろしく」と、赤の他人の名前を伝える。「"僕の名前は"、ヴィント・スノラインです」なんて、口が裂けても言えなかった。
今まで一つしかなかった自分という存在が、真っ二つに切り裂かれていく。名もなき彼と、ヴィント・スノライン。
一か月が過ぎる頃には、そのどちらか一方を消すという考えが、四六時中、頭の中を占めるようになっていた。名前がないのだから消えたところで誰も気付かないはずだ、と。
日増しに、獰悪な心が身体の中で大きく育っていく。ヴィントがそれを自覚したのは、出自を知ってから約一年後。王立学園に入学するまで、残り半年を切っていた。
この頃、彼は父親の隣で仕事を手伝う毎日を過ごしていた。そのせいで、ロスカが領地から届いた封書を開け、硬直している場面に居合わせてしまったのだ。
なにかあったのかと尋ねようと近付くと、窓ガラスに反射して書類の一部が見えてしまった。その裁判書類には、本当の父親の名前が書いてあった。
大きく鼓動する心臓と、冷えていく指先。
彼はヴィント・スノラインの顔をし続けた。
「父さん、どうかした?」
「いや、なんでもない。もうここはいいから、部屋に戻りなさい」
「はいはい。それ、裁判所からの資料だよね。領地で重大事件でもあった?」
ロスカは資料を封筒に戻し、机の引き出しに入れる。ギィーっと大きな音を立て、建付けの悪い引き出しが閉じられた。
「……領地の東通りにあるレストランで、帰宅する客を狙った強盗殺人があった。目撃者がいて、描かれた似顔絵から犯人が判明。すでに捕縛され、裁判を進めていたそうだ」
口の中が渇いていく。
「人が、死んだの?」
「あぁ……夫婦と、その子供だそうだ。判決が妥当か、その確認の書類が来ている」
「小さな子供……? 領民の親子を、殺したの?」
男の顔を思い出す。ヴィントの肩に触れた湿っぽい手で、小さな命を奪ったのだ。幸せだっただろう家族を無惨に。
口の中で舌を噛む。血の味がにじんで、吐きそうになる。
「ヴィント、資料を見るか?」
しばらく間を置いて、ギィっと小さな音が鳴った。引き出しを空ける音だ。
これが、息子として本当の父親に会える最後の機会なのだろう。きっと極刑だ。ロスカがサインをしてしまったら、親子として会話を交わすことも、名前をつけてもらうことも、できなくなる。
ヴィント・スノラインと、名もなき彼。
どちらを取ればいい? 今までずっとヴィントとして吸っていた息を、違う人間としてどうやって吐き出せばいい? あんな邪悪な人間の子供として、どうやって生きていけば。
十三歳の冬から、もうずっと上手く息が吸えていなかった。頭の中で何かがぐわんぐわんと鳴り響いて、煩わしくて――
「急にどうしたの? 父さん」
ヴィントは選んでしまった。
「十八歳になるまで裁判資料は見るなって口うるさく言ってたくせに。さっさとサインしなよね。領主たるもの罪には罰を、でしょ?」
一度でも動き出したら、どんなに歪でも止まらない。壊れるまで狂ったまま動き続ける。運命とはそういうものだ。
殺人を犯したのだからどのみち極刑だ。いくら懇願しても情状酌量の余地なんてない。ロスカから父親の最期を告げられたところで、もう二度と会うつもりもないし、会いたくもない。
なにをしても、なにもしなくても、変わらない。
ぐわんぐわんと鳴る頭の中で、ヴィントは自分に言い聞かせた。
でも……笑顔を作っても、心の形が戻らない。父親を見殺しにした。ヴィント・スノラインに殺させたんだ。冬の寒さは恐怖を無限に広げていった。
怖い。逃げ出したい。
誰にも言えない。一生、言えない。
名前なんてなくていい。もうなにもいらない。
与えないで、奪わないで――
そうして、感情を凍らせたまま迎えた王立学園の入学式。
とうとう彼は出会うことになる。
温かくて、触れるだけで溶けてしまう。
スプリング――春の訪れだ。




