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No.69 黙と騙



◇◇◇


 花、食べ物、本、感情。そして、人。

 すべてのものには、名前がある。


 崖の片隅でひっそりと咲いていた花でさえ、誰かと出会えば一番に名が与えられる。そうして『名もなき者』は他者に存在を認められる。


 自分には『名』がない。彼がそれを知ったのは十三歳のときだった。

 あの日の物置部屋の床の感触、吐く息の白さ。一つも溶けることはなく、彼の記憶に凍りついたまま存在している。



「黒髪でしたもんねぇ。もし”ヴィント様”が生きてたら、ロスカ様と瓜二つでしたでしょうね」


 侍従ランタが語る”ヴィント様”の話を聞いてしまったのは、五年半前の初冬のこと。


 絵を描きながら夜更かしをしていたヴィントは、スケッチブックを使い切ってしまった。私室にストックもないし、翌朝を待ちきれずに部屋を抜け出してしまう。 


 このとき、彼は領地から王都の屋敷に引っ越してきたばかりだった。

 べらぼうに広い屋敷の構造を見て、すぐに通り抜け可能なルートを発見する。バルコニーや外階段、部屋と部屋をまるで泥棒のように忍び足で移動するのだ。


 目指すは文房具が置いてある物置部屋。音も立てずに到着すると、続き扉の隙間からわずかにろうそくの灯りが這い出ている。扉の向こうは、父親の書斎だ。


 わずかに聞こえてくる侍従ランタの声を聞いて、古株である彼と父親は時折酒を飲み交わしていることを思い出し、今夜はそれなのだろうと察する。


 ヴィントはそうっと忍び足で近付いた。

 足取りは軽い。上質な床板を優しく撫でるように歩く。


 その先にあるのは、絶望の日々だというのに。


 ―― もし"俺"が生きていたら……ってどういう意味? 何の話をしてる?


 ぎりぎりまで近付いて、彼は耳をそばだてた。次に聞こえたのは、ロスカ・スノラインの声だ。


「もう十三年も経つのか。そうか……ヴィントも大きくなったな」

「ヴィント様も王都に居を移されましたし、少しはルミア様の心も休まるかもしれませんね」


 ヴィントの心臓が大きく鼓動する。ずっと喉の奥に詰まっていた何かが、少しずつ心臓まで降りてくる。


「どうだろうな」ロスカは酒を注ぐ。

「……ルミアはいまだに引きずっているよ。ヴィントの世話をおまえに押し付けてしまった、と。ランタもまだ子供だったのにな」

「息子を失ったばかりで、他人の赤子の世話をしろなんて無理ですもん」


 ランタの軽い口調が、耳に響く。


「えっと、たしか僕が十五歳のときでしたっけ。そうかぁ……ヴィント様はあのときの僕と同じくらいになられたんですね。感慨深いなぁ」

「おまえはもっとしっかりしなさい。ヴィントに越されるぞ」


 とっくのとうに越されてますよ、とランタは言う。


「この前、あの超厳しい家庭教師に、首席入学確実ってべた褒めされてましたよ。氏より育ちを地で行きますよね、あの子。まさに『ヴィント・スノライン』の理想形。誰も疑ってないですよ」


「ああ、よくがんばってくれているよ。もっと愚鈍であっても良かったのに」


 ロスカは小さく笑った。


「へー? いつも厳しくなさってるから、理想形に育てたいんだと思ってましたが」

「どうだろうな。十三年もこの生活をしていると、よくわからなくなる」


 瓶とグラスがぶつかる音が鳴った。


「……ロスカ様も、息子と捨て子を入れ替えたこと、後悔なさっているんですか?」


 氷の上に立たされているかのように足が震える。吐く息は雪のように白く、それが扉の隙間から部屋に入り込んでしまいそうで、ヴィントは息を止めた。


 ここで父が否定してくれたら、なにかの間違いだったことにしてすべて忘れられる気がした。願うように目を瞑る。


 しばらくの沈黙。

 父は小さく「後悔している」と言った。



 部屋に戻った十三歳の彼は、逃げるようにベッドに入り、重たい毛布を被った。そして、確かめるように呟く。



「……ヴィント・スノラインじゃない」



 怖い。誰にも言えない。一生、言えない。


 震える身体を両手で抱きしめる。泣くとすぐ赤くなっちゃうから――涙を零さないように強く目を瞑る。大丈夫、大丈夫と何度も呟いて、暗闇に悲しみを沈めた。



 だが、ロスカの言葉は、喉にあったものを腹の中に飲み込むようなものだった。十歳を迎える前には、両親が『なにか』を抱えているような気がしていたから。


 半年後、たまたま領地に赴く機会があった。

 自分の人生には、こんなにも消しきれない痕が……まるで血痕のように残されていたのかと、背筋が凍った。


 到着して荷物を置き、三階の私室を出る。階段を下りる。

 挨拶をしてくれる使用人たちは知らない顔ばかりだ。王都に移ってたった半年なのに、ほとんどの人間が入れ替わっている。


 職を失った領民を救済措置で雇っているからだと聞いていたが、この家に深く関わらせたくない理由があるように見える。

 変わらずに居続けるのは、母親の侍女やお抱えの医師を含めた、たった四人だけ。階段を下りる足が震え出す。


 階段の踊り場にある大きな鏡を見ると、そこには確かに銀髪碧眼の貴族令息が立っている。

 鏡の中の銀髪に触れてみると、無性に母親に会いたくなった。足を引きずるようにして母の部屋へと向かう。


 三階から一階までがひどく遠い。

 ずっと――なぜ母の部屋だけ一階なのだろうと不思議に思っていた。これは、母が望んだ距離なのかもしれない。呼吸は次第に浅くなっていく。


 ロイヤルブルーの絨毯を踏み、調度品をかき分け、真っ白な扉を三回叩いた。中から柔らかい声がして、ヴィントは少し胸を撫で下ろす。

 

 キィッと甲高い音と共に扉を開けると、母は背を向けて祈りを捧げていた。おそろいの銀髪に太陽光が散って、とても綺麗。いつもの光景だ、とほっとする。


 母はいつもこうなのだ。庭に向かって祈る姿を何度も見てきた。毎日、毎日、子供の頃からずっと。


「母さん……?」


 ふと、庭に視線を向ける。

 彼女の祈りの先にあるのは、四阿(あずまや)だ。

 その周りに、黒毛の犬が寄り添っていた。


 瞬間、心がぐちゃりと潰れた。


 そうか、あれは。

 本物のヴィント・スノラインの――


 母は振り向いて微笑んだ。

 おかえりなさい、ヴィント、と。



 普段は厳しいのに、降って湧いたように不自由な自由を与えようとする父親。

 まるで息子を避けるかのように距離を取りながらも、優しく微笑む母親。


 別に、嫌悪を向けられていたわけではないと思う。だが、与えられる愛に陰りがあった。もっと早く気付けたはずなのに。馬鹿みたいだな、と銀髪碧眼の自分を笑った。


 十三歳も終わり頃になると、王都での生活にも慣れてくる。その頃、ノルド侯爵家から婚約の申し出があった。


 そういえば、と気付く。同年代が集まる場に連れられたのも数える程度しかない。この立場であれば、すでに婚約者くらい決まっていてもおかしくはないのに。


 本来なら拒否権を持たないはずの嫡男の意向を聞いてくる父親をぼんやりと眺め、ノルド侯爵家を騙す覚悟を持てないのかなと思った。断ってあげた方がいいだろうと、首を横に振る。父親は「そうか」と渋い顔をしていた。


 だが、その婚約話は一つのきっかけになった。

 一体、自分は何者なのだろう。侯爵家を騙してでも守るべき血と名前が、この身にあるのだろうか。


 ヴィントが本当の名前探しを始めたのは、さらに半年後。十四歳の初冬だった。


「ランタ。突然なんだけど、スノライン領に戻ってやりたいことがあるんだ。これから行ってきていい? 父さんには上手く伝えておいてよ。一週間くらいで帰ってくる」


「突然どうしたんです? 僕は今日からロスカ様の手伝いに入る予定があるし、さすがに一人じゃ行かせられませんよ」


「もう十四歳。一人で大丈夫だよ。協力してくれるよね?」


 ヴィントがスッと札束を差し出すと、ランタは「これは……」と言いながら素早く受け取った。とても速かった。


「コホン。十四歳が持っていい金額じゃありませんよ。一体なにをなさるおつもりですか?」


 想定内の質問。ランタの追及を避け、ひとりで領地に行くためにはこれしかあるまい。ヴィントは黙って小指を立ててみた。十四歳らしい指の立て方だった。


「は!? 恋愛に興味ゼロって感じで常に澄ました顔しやがってるいけ好かない思春期ボーイだと思ってたのに、領地に恋人がいたんですか!?」

「俺のことそんな風に思ってたの?」


 ランタは顎に手を当てる。


「しかし、はて、いつの間に……? そんな素振りありませんでしたよね」

「恋人じゃないからね」

「ははぁ、そういう関係の。まったく十四歳が持っていい関係じゃありませんよ? けしからんですね。ところで、どんな子ですか? 年上の美女?」

「けしからんのはどっちだろうね」

 

 出自を知ることに抵抗はあったが、秘密を暴いて深く知れば、今の境遇を仕方がなかったことだと割り切れるような気がしていた。


 まだ十四歳。名もなき彼にも、逃げずに足掻き苦しむ勇気があった。







参考までに、スノライン領主館の様子は、No.29とNo.30に登場しています。彼の嘘をつく度胸たるや。


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