No.62 今より早いときなんてない
「わたしって本当にバカ……」
卒業式から二週間、呪文のように繰り返していた自分への罵倒を今夜も口にする。
痛めつけるように、ぐいぐいと枕に頭をこすりつける。カノラは底抜けに後悔していた。
もっとがむしゃらに彼を追いかければよかった。もっと食らいついて、そのまま全てを後回しにして婚約誓約書だけでも書いてしまえば良かったのだ。恋は女を強引にさせる。
暴挙かもしれないけれど、でも、翌日からヴィントが侯爵当主になってしまうなんて思わなかった。
「時、すでに遅し……」
国王から届いた『侯爵位授与と当主交代の知らせ』を見たとき、スプリング家一同は驚き、喜びで大騒ぎだった。
真っ青になっていたのはカノラだけ。
しかし、家族にも気取られてはならないと、ダイニングで必死に笑顔を作った――彼もずっと、こうやって生きてきたのかな、なんて思いながら。
その知らせを枕元に置いて眺める日々。指先でなぞっては、枕に顔をうずめてばかりだ。
「……会いたい」
しかし、卒業から二週間ほど経った今も、彼がスプリング家を訪ねてくることはない。会えもしない恋しい人を相手に、一体どうすればいいのか。
しかし、事態は動き出す。
翌朝、スノライン家から使者がやってきたのだ。
「お元気そうでなによりです。カノラ様」
「ランタさん! ようこそいらっしゃいました。全然元気じゃないです」
「ははは、そのようで」
侍従ランタは真っ白な襟をピンと立て、にこやかに笑う。彼が通されたのは客用の画廊だが、敷地内に入るのは初めてだった。
「あの、ヴィンくんはどうしてますか? ちゃんと食べてますか?」
「ええ、元気でいらっしゃいますよ。叙爵されたばかりなので各所を回ったり、そろそろ社交シーズンも始まりますので大忙しです」
「そうですか……。スプリング家に来る時間もなさそうですね」
その問いかけに、ランタは片眉をあげて訝しげにする。
「失礼ですが、ヴィント様からの知らせを受け取っていないのでしょうか?」
「ゼロですね」
ランタは「あの小僧……」と小さく呟く。常人であれば聞こえなかったかもしれないが、こちとらピカイチの耳だ。ばっちりと聞こえたし、しっかりと不良侍従だ。
「コホン。実は、本日うかがったのは、スプリング子爵家に置いてある荷物の回収についてです。ヴィント様から事前に連絡を入れる予定でしたが、行き違いがあったようですね」
「荷物?」
ノーザランドのアトリエ部屋にあった荷物は、ほとんどスプリング家に戻されていた。画集やイーゼルなどは元々スプリングのものだし、彼の私物と言えば絵の具と筆と――絵くらいだ。
「ヴィント様からは、こちらにある絵画のほとんどを廃棄するよう指示を受けております」
「絵画を廃棄……!?」
ランタはメモを取り出す。
そこには物置小屋にある失敗作や、ナンバリングがされている作品の廃棄が指示されていた。ヴィントの筆跡だ。省かれているのは、売却目的で描かれた作品だけ。
「スケッチブックは!? 大量にありましたよね!?」
ノーザランドから戻ってきた荷物に、彼のスケッチブックはなかった。あそこにはカノラの絵があるのに。
「廃棄の予定です。こちらの絵画を回収後、すぐに廃棄業者を探して渡すように指示を受けておりますので」
相変わらず仕事が早い。ランタの視線から察するに、馬車の中に積み込まれているのだろう。
「あの、彼は絵をやめるつもりなのでしょうか? 侯爵になったから……?」
「え? いえ……それはわかりかねますが」
きっとそのつもりなのだろう。だからフークリンとの贋作対決にアノニマスの名前を賭けたのかもしれない。嫌な想像が、カノラの中で確信に変わっていく。
怒りとも悲しみとも言えない感情が、心の奥で沸々とする。カノラだけが知る彼の痛みの断片がそこに乗っかって、なにかが噴き出しそうになる。
血液みたいにドロドロとしていて、ガラスよりも透明な感情。切なくて、やるせなくて――
「やっぱりこんなのダメ」
「カノラ様?」
「絶対に捨てさせない。大切なものは、きちんと大切にするものよ」
カノラは立ち上がった。一度私室に戻り、クローゼットの奥にある巾着袋を引っ張り出し、ランタに突きつける。
「絵画はすべて買い取ります。これで足りますか?」
「熱意がすごいですね。残念ながら、それはできかねます」ランタは静かに首を振る。
「カノラ様には売るなと、ヴィント様からきつく言われておりますので」
開いた口が塞がらない。
「もー! ヴィンくんらしい。あの人、先手を打つのが生きがいなのかしら」
「ええ、まったく。困ったものです」
ランタの懐からほくほくと音が聞こえる。どうやら金を握らされているらしい。困ったものだ。
その様子を見て、ピンとひらめく。彼はそれしか指示を出していないのだろう。要するに、買わなければいいのだ。舐めてもらっては困る。恋は人を性悪にするのだ。
「ランタさん。絵画は著作物。うちは絵画の廃棄も得意なんです。廃棄業者をお探しでしたら、うちに任せてもらえませんか? 今なら無料です」
「ほほう? 思いの外、悪い話が舞い込んできて驚いております。いや、しかし……」
渋るように、彼は懐に手を当てる。そこには廃棄業者に支払う料金も入っているはずだ。
そこでカノラは巾着袋の中からコインを一枚取り出し、天井に向かって投げた。ピィン、トスン――少し固い音。コインはカノラの手の甲に乗せられている。
「スケッチブックも含めた全作品。廃棄の権利を賭けましょう。表ならわたし。裏ならランタさん。あなたが勝ったら……アゼイ作をどれでも一枚さしあげます」
ランタは目を丸くして、にやりと笑う。
「ははっ、胆力のあるご令嬢ですね。そこまでおっしゃるなら仕方ありません。乗りましょう」
「ありがとうございます。表です」
カノラが手をどけて見せると、ランタはぶふっと吹き出した。
「……失礼。素晴らしい。では、仲介料としてこちらを頂戴いたします」
ランタはカノラのお金をそっと取った。結局受け取るのね、とは思った。卒業式での貸しもあったので、カノラは黙って頷く。口止め料だ。
馬車に載せられていた大量のスケッチブックを受け取った後、カノラは尋ねる。
「あの……ヴィンくんと話したいのですが、会う手立てはないのでしょうか」
ランタは困ったように眉を下げる。一瞬、首を横に振りかけたが、彼は目をつぶって続けた。
「……叙爵奉告の夜会でしょうかね。御披露目として、スノライン家主催のレセプションが開かれます。特に、御学友のダンテ様はご招待させていただくことになるかと。前伯爵の意向もあり、未婚のご令嬢は積極的にご招待する予定ですので、カノラ様も是非に」
未婚のご令嬢を招待。少し引っかかったが、そこでランタが御者席に座ったので、カノラは慌てて出席を表明する。
「ヴィンくんに伝えてください。『逃げても隠れてもムダよ。絶対に捕まえる。諦めないからね!』って」
「……かくれんぼですか?」
「似たようなものです」
確かに、人生はかくれんぼに似ているかもしれない。今になって、彼の言葉の意味がわかってしまった。
ランタは、「かしこまりました」と言って帰宅した。
しかし、数える程度しか夜会に出席したことがないカノラ。途端に不安になって、また枕に突っ伏す。そのうち枕がへこんでしまいそう。
ごろんと仰向けになって、白い天井を見る。夜会といえば、男性のエスコートが必要だ。ダンテに引っ付いていこう。
身なりも気になるところ。ドレスや髪飾りも揃えたいし、爵位披露のレセプションなら、主役に話しかけても許されるようにご令嬢オーラも纏いたい。
スノライン侯爵の近くにいても違和感のない女性。天井に浮かんでくるのは、美しく聡明なご令嬢だ。
「……夜会のとき、ルーナさんとの婚約発表もするのかな」
そう思った翌日、カノラの元にとびきりの知らせを持った訪問者が現れる。
ルーナ・ノルドの再来だ。




