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No.60 独り



 翌日から、カノラはどうにかヴィントを捕まえて話をしようとした。だが、それらすべてを、彼はキレイに回避する。シャツの裾すら掴めない。


 その一方で、カノラ自身も思うところがあった。今、彼に余計な感情をぶつけるのも良くないかも、と。賭けられているものを思うと、喉の奥がひりついた。


 一度、校舎内で見かけた彼は、どこか憂慮を抱えているように見えた。それは名もなき画家として、彼が作品に向き合うときに帯びる空気でもある。

 幻の五番を描き上げるまでは、そっとしておこう。そう思って、距離をとったのが悪かったのかもしれない。


 カノラが異変に気付いたのは、それから三週間が過ぎた頃だった。


「ねえ、お兄ちゃん。最近のヴィンくん、ちょっと変じゃない?」

「あー?」


 この頃にはヴィントがダイニングルームに降りてくることは一切なく、兄と二人でとる食事が日常になっていた。ダンテは大口を開けて、肉の塊をぱくりと口に放り込む。


「……ヴィンがおかしいのはいつものことだろ」

「それはそう。でも、久しぶりに廊下ですれ違ったんだけど、なんか表情が……違うのよ。アトリエ部屋ではどんな感じ?」

「さあな」


 ダンテはつまらなそうに言う。


「じいちゃんの絵の具の扱い方も筆の動かし方も全部叩きこんでやった。絵の具の亀裂の硬化の条件も、構図も色味も。オレもノータッチなんだよ」

「え? アトリエ部屋に行ってないの?」

「……もう来なくていいって、言われた」


 ダンテまで閉め出されたのだ。異常だ、と思った。カノラはテーブルに置かれたプリンの瓶をパッと取る。


「あ! オレのプリン!」

「親友でしょ。放っておいたらダメよ。絶対に変だもの」

「……まあ、いつものヴィンとはちげーけど。なんつーか、じいちゃんが乗り移ってる感?」

「画家アゼイが?」


 どうにもしっくりこない表現だ。カノラが首を傾げると、つられてダンテも首をこてんと傾ける。


「まあ、じいちゃんとはちげーけど」

「じゃあ……誰よ」

「名もなき画家野郎じゃねーの? アノニマスをいつもより煮詰めて焦がした感じっつーか。うん、これだな。しっくりくる」

「わかんない」

「ばーか。オレだってわかんねーよ」


 ダンテはぶっきらぼうに答える。心配をしているのだろう。カノラの手の中にあるプリンに目もくれず、天井――アトリエ部屋の方向を睨みながら口先を尖らせている。いつもなら楽観的に大丈夫大丈夫と言って取り合わないのに。


 急に、足先が冷たくなった。いてもたってもいられない。


「わたし、ちょっと声をかけてくる。ごちそうさま!」


 ダンテのプリンを持ったまま、カノラは三階のアトリエ部屋に向かった。



 部屋の中から微かに聞こえる音で、彼がここにいることはわかっていた。呼吸を整え、ノック三回。返事はない。


「ヴィンくん? あの……プリンを持ってきたの。入るね」


 しかし、案の定そこには鍵がかけられていた。ヴィントのことだからそうするだろうと思ったが。


「ねぇヴィンくん。大丈夫? なんだか心配で。……いらないかな?」


 もう一度ノックをすると、中から物音が聞こえてくる。カノラの耳でしか拾えないような小さな音。これは白衣が擦れる音だろう。なにかを拭いているのか、繰り返し音が聞こえた。


「いらない」

 

 ひどく低い声。でも、久しぶりに耳に届いた音は、カノラの渇いた心を掴んだ。


「……ヴィンくんに会いたい。ダメ?」


 すがるように扉に触れると、部屋の中から床を撫でるような靴音が小さく聞こえてくる。行ったり来たり彷徨うようにして、音は扉の近くで止まった。


 向こう側で扉を撫でる音が聞こえる。それに合わせて、カノラも手を添えた。扉を挟んで触れ合っているような愛しい感覚。彼の指先が、少しずつ取っ手に近付いているのを感じ取る。


 鍵を開ける音が、廊下に響いた。

 開けられた扉からは、以前よりも濃くなった絵の具の匂いが床を這うようにして出てきた。


 彼は、カノラを中に入れる気はないらしい。扉にかけられた手もそのまま、ヴィントはようやく顔を見せてくれた。


「なにか用?」


 なにがあったの。ひとりで抱えないで、もっと頼ってよ。愚痴でもなんでも聞くからね。そんな言葉を用意していたカノラだけれど、全部吹き飛んでしまった。


 彼の目が真っ赤だったのだ。目の周りには擦ったばかりの涙の痕があって、白衣の袖は――濡れていた。


「ヴィンくん……」


 ふと、彼の左手が視界に入る。何かを殴りつけたような痛々しい傷痕が見えた。


「血が出てる」

「ああこれ? 平気」


 自分の身体のことなのに、ひどく興味がなさそうに言う。

 その声はヴィントとは違う……聞いたこともない声だ。アゼイが憑依したのかとも思ったが、これは祖父の雰囲気ではない。名もなき画家の底が見えるまで掘った、暗い穴。そこに向かって言葉を投げかけているような感覚がする。


「……ヴィンくん。あなた……なにをしているの?」


 絵を描いているに決まっている。部屋から這い出てくる絵の具の匂いも、彼の白衣についたカラフルな色たちも、その証拠だ。


「贋作を、描いている」


 彼はそう言った。痛みに耐えるように顔を歪ませ、傷だらけの左手で胸を押さえつけ、どうにか言葉を紡いでいる。


「ヴィンくん、ダメよ。ひとりにしたくない。お願いだから部屋に入れて」

「嫌だ。見せたくない」

「絵は見ないようにするから。部屋の隅っこでじっとしてる。絶対に邪魔しない。話もしなくていいの。だから……お願い」


 彼は「嫌だ」と一言告げて、扉を閉めてしまった。


「ヴィンくん!」

「カノラがいたら描けない。必ず描くから……待っていて」


 かすれた声で告げられた。

 その後も、次の日も、何度も声をかけたけれど、彼はもう返事をしてくれなかった。



 全身全霊をかけて描いていると言えば聞こえは良いが、カノラはそう思えなかった。そういう綺麗事では収まらない。


 学内にいるときは朗らかな笑顔を見せていたし、ランチタイムには同級生と仲良く食事をしているところも見たが、彼は徐々に瘦せていった。

 笑っていても目の奥はどこか空虚で、元々白かった肌は日を追うごとに血色を悪くしていった。


 カノラは怖くて堪らなかった。もう贋作なんてどうだっていいじゃない、と何度も止めようと思った。

 どうして独りで抱えるの? なぜ見せてくれないの? 聞きたいことは山ほどあったけれど、それでも彼の言葉を信じて待った。


 できることと言えば、学食のおばちゃんに「あの銀髪碧眼の人の分だけ大盛にしてください!」と、こっそりお願いするくらいだ。



 そうして、一か月。

 もうすぐ留学期間は終わりを迎える。


 来週にはカノラたちが通っているセントステイト王立学園の卒業式が控えているのだ。帰国日程も決めなければならない。


 さすがに帰国日くらいは相談しなければと思い、ダンテとともにアトリエ部屋を訪れる。

 扉の前に立ったとき、何も気配がしないことに気付く。取っ手を掴むと、そこには鍵がかかっていなかった。


 ―― 開いてる……完成した!?


 喜びを綻ばせるように勢いよく扉を開く。

 しかし、絵の具の香りだけを残して、部屋には紙の一枚も落ちていなかった。まるで初めから何もなかったかのように、元のがらんとした部屋に戻っている。


「…………え!?」


 カノラは口を大きく開いて、そのまま廊下に出て部屋の位置を確認する。うん、階段から三番目の部屋。アトリエ部屋であっている。


「片付け上手ね」


 いつの間に画材を引き上げたのか。

 すぐさま二階に駆け下りてヴィントの部屋の扉を叩こうと思ったが……どうにも嫌な予感がして、そのまま扉を押してみる。


「やっぱり! 荷物がない!」

「ひゃはは! まじかよ。おもしろすぎんだろ」


 追いかけてきたダンテが、紙を見ながら笑い転げている。この空虚な部屋に、一体どんな笑い話が落ちているというのか。


「なに見てるのよ」

「ヴィントの書き置き。テーブルの上に置いてあった」


 ひったくるようにして手紙を見る。


『先に帰ってるね。完成した絵はセイルドに渡しておいたよ。贋作【菜の花】もゲット。オールオーバーだね』


 短い。健気に待ちまくった結果、余白だらけの紙が置かれて終わった。ひどい男だ。


「情緒が追いつかないわ」

「ははっ、笑える。よっしゃ、オレらも戻ろうぜ」

「もう、ヴィンくんったら勝手なんだから」


 絵画品評会の結果が出た折にはノルド兄妹と連絡を取り合うと約束し、各所に挨拶をして回る。


 カノラたちは、大急ぎでセントステイト王国へと向かった。


 





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