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No.59 芽吹く生き物


 アトリエ部屋でのキスから一週間。

 カノラはヴィントと話せていなかった。


 この一週間、彼は食事すらアトリエ部屋でとっている。 学年も専攻も違うから学園内で見かけることもあまりないし、放課後はアトリエ部屋に直行してしまう始末。


 今、アトリエ部屋にはダンテが入り浸っているようだ。アゼイの色の置き方や描き方を相談しているらしく、彼が集中したいというのも……わかる。


 でも、きっとそれだけではないと思う。たぶん、避けられている。


 キス自体は嬉しかったし、四六時中、頭の中を占拠してしまうため、にやにやしたり突然叫び出したくなって顔を覆ったり、もう大忙しだ。


 でも、あれは事故なので、重きを置くものではないとも思う。それはキスよりも、スケッチブックとヴィントの赤面の方に置かれた。あんなに可愛い彼を見たのは初めてで――目に焼き付いて離れない。


 彼の気持ちを確かめたくなってしまう。でも、避けられていることこそが、その答えなのかもしれない。



 そんな気持ちを抱えたまま、カノラはノルド侯爵家を訪れていた。


「ルーナさん、お忙しいのにお時間もらっちゃってごめんなさい」

「わたくしたちはお友達同士ですもの。カノラさんからお茶をお誘いしてもらえるなんて嬉しく存じます。……わたくしも、カノラさんとお話ししたいことがございますので」


 ティーカップを持つ手は華奢で美しく、声も穏やかで気品にあふれている。

 しかし、ルーナの黒い瞳はいつもより暗い。金髪の艶も半減している。あからさまに、ルーナ・ノルドの輝きが損なわれている。この一週間で、何があったのか。


「もしかして、ルーナさんもなにか悩んでらっしゃいます?」

「え、ええ……。ですが、まずはカノラさんのお話から。なにか、わたくしに相談事があるのでしょう?」


 彼女は水を向けてくれた。

 カノラは窓の外に降る雪を見て、唇をきゅっと結んだ。心のまん中にあるものが、ぽうっと灯って、あたたかくて……その温度のまま言葉にした。


「わたし、ヴィンくんのことが好きです。好きだと――いえるようになりました」


 ちゃんと言葉にしたのは初めてだった。スノライン領で芽生えた気持ちが胸から湧き出て、目の奥がつんとする。

 ルーナに伝えることが正しいとは思っていない。でも、誰かを傷つけたとしても進みたかった。そういう恋をしてしまったのだ。


「そうですのね。……いえ、そうではないかと感じていました。カノラさんは、ヴィント様に恋をしている。恋……」


 ガタンと音を立て、ルーナは急に立ち上がった。可愛らしい丸いテーブルの向こう側からずんずんとこちらに近付いてくる。陰っていた黒い瞳が、ぎらぎらしていた。


 平手打ち、罵詈雑言、帰国命令。それらが脳裏を過る。どんな痛みもばっちこい。カノラは目を瞑って、顎をあげた。


「カノラさん、恋を教えてください」

「……はい?」

「恋とはどういう感情ですか? ヴィント様の、どこを、いつから、どのように慕ってらっしゃいますの? 他の男性との違いを、カノラさんは明確に自覚しているということでございましょう? なにか特別なものを感じていたのですか? いつから!?」

「すごいしゃべりますね」


 思っていた展開と違う雰囲気に、カノラはとりあえず顎を下げる。


「あの……不快ですよね? ヴィンくんはルーナさんの婚約者ですし」


 彼女は小首を傾げる。本当に怒っていないようだ。


「正式に婚約をしているわけではございませんし、わたくしが不快に思ういわれはないかと」

「でも、他の女性がヴィンくんの周りにいたら不安になるし、気持ちの良いことじゃないかなって」

「ということは、カノラさんはわたくしに嫉妬心をお持ちだった、と?」


 これには唸ってしまう。あるにはあるが、そんな単純ではない。


「……難しいですね」カノラは両手を広げる。

「こんな風に、全ての感情が膨らんで大きくなるんです。うれしさも、悲しみも、怒りも、楽しさも、ヴィンくんに関わることの全てが振り切っちゃう」


 ルーナは目を見開き、胸の前で手を握りしめる。共感で頷いているのか、相槌を打っているのか、とにかく興味深そうにしている。


「できれば、この膨らんだ気持ちを、ヴィンくんに伝えられたらいいなと……思っているんです」

「ええ、もちろんですわ! 自由恋愛は平等にあるべき概念ですもの」


 にこにこと答えるルーナ。なんかイマイチ伝わっていない。カノラは意を決して、鋭い質問を投げかけた。


「……あの、本当におこがましい話なのですが、それでヴィンくんが婚約白紙を決めたら、ルーナさんはどう思いますか?」


 すると、彼女は即座ににこりと微笑む。


「あら。その質問から察するに、カノラさんには勝算がございますのね?」

「え!?」

「可能性がゼロのことを心配する人は、稀でしてよ?」


 彼女は紅茶を一口飲んで、顎に手を当てる。


「そのご様子からすると、ヴィント様にもなにかしらの感情があるのは確かでしょう。ですが、スノライン伯爵令息としての判断もありますし、なんとも言えません。ノルド侯爵家としては、他に有益な嫁ぎ先があるか調整をしておくべきですわね」

「調整」


 どこまでいってもビジネスライクだ。


「ルーナさん自身はどう思いますか? 悲しいとか腹が立つとか」


 ルーナは目を丸くする。続くカノラの話を、遮ることも、否定することもなく、ただ黙って聞いてくれた。


「わたし、ルーナさんが自由恋愛の話をしたとき、すごく良いなって思ったんです。決まっている未来を、あんな風に自分なりに楽しんで、彩っていけるのって……すごいなって。ヴィンくんと恋をしようと努力していたことも知ってるから、ルーナさんがどう思うか、ちゃんと聞きたいと思ったんです」


「わたしくが、どう思うか……?」


 ルーナは薄く唇を開いたまま動かなかった。

 しばらくして、彼女は何かに気付いた様子で「ええ!?」と大きな声を出した。


「ルーナさん? どうしました?」

「……デートのことを思い出しました。カノラさんの問いに対する答えは――”いいえ”です」


 まるで雲が晴れていくようだった。侯爵令嬢という生き物から、彼女自身が少しずつ露わになっていく。黒い瞳が右にいったり左にいったりしながら、頬に当てられた手が震え出す。


 ルーナは何かに怯える子供のように、口を結んでいた。口を開きかけて、また結ぶ。そして、やっとそれを解いた。


「この婚約がなくなっても、悲しく思えません。寝る前にヴィント様を思い出すこともない。手に触れても心は平坦なままです。他の女性と話している姿を見ても心が乱されない。心臓が大きく脈打つことも、楽しくて心が舞い上がることも――ない」


 これは大きな問題ですわね、と一言つぶやいて、ルーナは俯いた。


 そして、ゆっくりと立ち上がり、窓の外に視線を向ける。強い西日が雪雲を切り開く。放課後の夕焼けは、彼女の金髪を朱色に染めた。


「わたくしは、カノラさんの恋を応援いたします」

「え!? な、なぜ? まさか、またクマノミとイソギンチャクですか……?」


「イソギンチャク?」ルーナは首を傾げる。

「あ、ギブアンドテイクということですわね。ふふっ、カノラさんって面白い! 見返りなど必要ございません」


 彼女はクスクスと笑いながら、カノラの方に向き直る。


「これは私利私欲なのです。わたくしは自由恋愛の行く末を見たいだけですもの。どうか、見せてください――カノラさん、負けないで、がんばって」


 カノラの手をすくい上げ、それをぎゅっと握ってくれる。あぁ、あたたかい。人のぬくもりだ。


「……ありがとうございます。次はルーナさんの番ですね。どんな悩みですか? わたしでよければ全力でお助けします」


 カノラが手を握り返すと、彼女は小さく首を振った。


「もういいのです。答えは出てしまいましたから」


 真っ赤な夕日を見つめながら、ルーナはきゅっと唇を結んでいた。

 

 この日の会話が、後々、カノラの恋に大きな変化を与えることになる。それを知らずに、カノラはただ彼女を見ていた。


 そして、同じ頃。彼にもそれが起こり始めていた――もう二度と戻らない、大きな変化が。

 

 


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