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No.46 薄く透明なガラスを叩き割れ


 この感情に名前をつけたい。


 例えば、右肩よりも疼く胸の痛みとか。目が合ったはずなのに、それがなかったことにされたときの落胆とか。


 寮の部屋にかかるショッキングピンク色のカーテンを開け、カノラは窓から外を眺めた。

 同じ雪なのに、スノライン領で見たそれとは違う色。もっと銀色に輝いていたはずだ。そこに少しの空色が重なって、美しい降雪だったなぁ……なんて、数週間前の雪景色を懐古する。


 降雪の音に混じって、廊下からかすかに足音が聞こえてくる。丁寧に床を撫でるような足音、そして三回鳴らされたノック音の間隔と響き方。扉の向こう側にいるのは、ヴィントだ。


「ヴィンくん?」

「正解。……ちょっといい?」


 冷えた頬にぶわっと熱が灯る。小走りで扉に駆け寄り、勢いよく開けてしまった。


「うわっ、びっくりした」

「ご、ごめんなさい。この扉やたら軽いですね」

「そう? 十八年間、数ある扉を開かせてきた俺だけど、こんな重い扉は類を見ないけど」


 そうかしら、と思って軽く扉を動かしてみる。

 扉をパタパタしたせいか、廊下の冷たい空気が部屋に入り込む。うぅ、寒い。早く扉を閉めないと。


「とりあえず、どうぞ」


 カノラが招き入れようとすると、彼は眉を下げた。


「……その感じだと、俺が困るんだけど」

「え?」


 部屋に向けられた視線。なにが困るのかしら。


「あ、カーテンの色? ショッキングピンクはちょっと目に悪いよね。ヴィンくんって、案外インテリアにこだわるタイプ?」

「……そーそー、こだわるタイプ。まあいいや。ダンも呼んでおいたから」


 そう言って、ヴィントはソファに座った。その手には荷物が抱えられている。話をしにきたわけではなさそうだ。


「肩のところ、痛むのかなと思って」


 救急箱だ。

 部屋に訪れた理由はこれだったのか、と腑に落ちた。誰にも気付かれていないと思ったのに。


 このアイスブルーの瞳を前にして、嘘や誤魔化しは通用しないだろう。カノラは静かに頷いて、胸のボタンを一つ外す。ヴィントに背中を向けてから、ワンピースの襟ぐりをぐいっと引っ張って肩を出した。

 

「……触ってもいい?」

「え? うん、むしろ手当してもらいたいのでお願いします」

「うん。触るね」


 肩に触れた彼の手は、小さく震えていた。お風呂に入ったときに鏡で見て、カノラも驚いた。きっとヴィントもそうだろう。


「ひどい痣だね」

「色はすごいんですけど、痛みは軽いんです。ヴァイオリンも弾けます」

「そう……でも、すごく痛そう。状況からして……また、なにか嫌がらせをされるんじゃないかって、それくらい予想できたのに――ごめん」

「ふふっ、ヴィンくんが謝ることじゃないのに」


 手当をしながら、ヴィントは何度かごめんと言った。


 スノライン領で、カノラを庇って刺されたときの彼の言葉を思い出す。カノラを守れたから格好悪くてもいいや、と言った彼の笑顔。

 カノラが怪我をしそうになると、おっちょこちょいだのなんだの悪態をつきながらも、触れる手はいつも優しい。


 ヴィントのせいではないのだから謝らないでほしい……と思う一方で、ごめんといわれる度に、カノラの顔は熱くなる。どうしてだか、彼の心の内側に入れてもらっているような気がしてしまう。


 ごめん、という言葉は不思議だ。もうこれ以上、なにもできないと線引きされているようにも聞こえるし、もっと仲良くなりたかったとか、もっと距離を縮めたいとか、そういう特別な意味があるようにも聞こえる。 


「ヴィンくんは、ちょっとずるいと思う」

「え?」

「謝るなんて、ずるいです」


 ずるい。どうして謝るの。離れたり近づいたり、彼との距離はどうして一定にならないの。離れるなら、はじめから近づかなければいいのに。近づくなら、もう離れなければいい。


 こんなことされたら……もっとそばにいたくなる。目が合ったらそらさないで、前みたいに優しく微笑んで。今までずっと簡単に触れてきたくせに、触れる前に許しを乞うなんて彼らしくない。


 首筋の熱が胸まで降りてきて、焦燥がひどくなる。

 こんな風になるつもりはなかったのに。


「カノ……?」


 カノラが答えずにいると、扉の先から足音が聞こえてきた。このふざけたリズム感はダンテだ。


「おっつー。うわ、すげぇ痣になってんじゃん」

「あ、ダン。……タイミングがいいね」


 ヴィントは薬を塗る手を止めて、そこで代わろうとした。が、ダンテの手当てがぐちゃぐちゃすぎて、結局はヴィントが丁寧にガーゼを当て、痣を保護してくれた。


「ありがとう、ヴィンくん」


 ガーゼがクッションになったせいかソファに背を預けても、ほとんど痛みを感じない。これなら日常生活にも支障はないだろう。


「……なぁ、おまえらって、どうなってんの?」


 向かい側のソファに寝転がっていたダンテは、手当を終えた二人を訝し気に見てくる。

 カノラはヴィントと目を合わせて、お互いに彼の発言の意図がわからないというアイコンタクトを取ってから、どういう意味なのかと返した。


「ほら、前に言ってたカノラの好きなやつ。一人息子の嫡男だっけ? 回りまわってヴィンのことじゃねーの?」


 たしかに、どちらも一人息子の嫡男だ。偶然か、性癖か。


「ヴィンもカノラのこと好きだろ。オレ的にはおまえら二人はくっつくもんだと思ってたんだけど、どうなってんの?」


 バカ兄の本領が発揮されている。カノラは焦った。焦りに焦ったが、ここで焦っては全てを失う。指先一つでも動かしたら、いろいろと決壊しそうだ。

 この謎の緊張感。確実に否定できるところから、丁寧にほぐしていかねば。


「あのねぇ、お兄ちゃん。ヴィンくんがわたしを好きになるわけないじゃない」


 ヴィントは間髪入れずに、そうだね、と重ねる。


「想像すると、かなり難しい……」

「それはそれで失礼ですけどね?」


 いつもの空気に少しほっとする。胸に走る痛みは、右肩の痛みのせいにした。


「ダンの勘違いだよ。カノちゃんの好きな人は――いや、俺はただ応援してただけ。ダンに協力するのと同じだよ」

「まじか。じゃあ、好きなやつって誰だよ?」


 ヴィントが答えなかったので、カノラは小さな声で”フォル・ハーベスだった”と伝えた。なんとなく、居心地が悪い。


「フォル? どんなやつだっけ? 色は?」

「騎士科の二学年の人よ。黒髪で黄色の瞳」

「まじか! そいつとは上手くいくかんじ?」

「まさか。フォル様はリエータさんと婚約したから」


 ショックを受けるかと思いきや、ダンテは手を叩いて笑っていた。


「うけるー。じゃあ、カノラの恋はオールオーバーっつーわけか。いやー、残念無念のおつかれさん」

「軽いわね」

「妹の失恋程度で重くなれねーだろ」


 ダンテはソファから身体を起こして、ヴィントに向き合って座った。


「ヴィンの方は、ルーペとガチで婚約までいくかんじ?」

「そうだね。何らかの外的要因で、春までにご破算にならなければ」

「そーかー、わけわかんねぇな。超絶モヤるー!」

「言ってることがわからなくて、俺もモヤってる」


 ダンテはぶつぶつと呟き、クッションに顔をうずめる。珍しく悩んでいるようだった。


「まーいいや! オレは全力でヴィンの結婚を推す!」

「えー……怖いから余計なことしないでほしい」

「そう言うなって。オレの人生はヴィンの結婚にかかってる!」

「なにそれ。他人に人生かけるのやめてくれる?」

「オレだって他人に運命決められたくねーわ。おい、カノラもヴィンとルーペを応援しろよ?」


 そう言って念押しする群青色の瞳には、少し焦燥が混じっているように見えた。いつになく鋭い瞳を向けられ、カノラの目は右に左にさまよってしまう。


「……うん。ヴィンくんもルーナさんも、幸せになってほしい」


 どこを向いていいかわからず、部屋の中で異質だったショッキングピンクを見ておく。なんだか目に悪い色でついつい睨んでしまう。別にカーテンが悪いわけじゃないのにね。


「俺も。カノラには幸せになってほしい――絶対に」


 そう言って、彼は救急箱を閉じた。




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