No.45 届かなくても、手を伸ばしてみて
翌週。寒さと生活に慣れてきた頃、ノーザランド貴族学園の新学期が始まった。
「うーん、取れない。あとちょっと……!」
初日から、カノラは一生懸命に手を伸ばしていた。
音楽科の教室に入ったところまでは和やかだった。クラスメイトも留学生に沸いていたが、教壇に立って名乗った瞬間、それは砕け散った。
カノラ・スプリング。あのセントステイト王立学園のコンクール優勝者。他国の音楽科にまで名前が知られているとは思わなかった。
彼らからすれば、王立学園こそが目指す場所だ。その一位が逆に留学してくるなんて。『音楽を捨てて何にしに来たの?』そう囁かれた。
早く帰れよという激励なのか、ただの嫉妬なのか。高い棚の上に隠されてしまったヴァイオリンケース。
必死に探して、楽器保管室でやっと見つけた。壊れかけの楽器が入った箱を横にずらし、手を伸ばす。物を隠されるとこんな気持ちになるのね……なんて、遠い目になってしまう。
「音楽、捨ててないんだけどな」
優勝してからも、練習は一日だって欠かしたことはない。スノライン領にいたときも、ヴィントが刺された日だって、毎日。
王都とは違う温度。寒さでかじかむ指を動かす度に、学ぶことの多さに胸が熱くなった。
でも、そう見えてしまうのも……わかる。
「『恋祝福』の作曲者も、こういう気持ちだったのかな」
コンクールの曲目だ。ヴィントが教えてくれた、作曲者エルビウムが恋をして奏者に転身した話。
あのとき、カノラは強く憧れた。一番大切なものを捨ててでも一緒にいたい――好きな人からそう思われてみたい、と。
でも、こうして手を伸ばして、届かなくて、初めて気づく。彼は音楽を捨てたわけではないのかも。それを二人で守りあった結果が、奏者としての活躍なのかもしれない。
大切なものを、大切にする。当たり前のことだ。
「あ、届いた!」
持ち手を掴む。そのままグイッと持ち上げようとしたところで、手前に置いてあった箱に引っ掛けてしまう。
「きゃあ!」
避けようとして体勢を崩し、乗っていた踏み台がぐらつく。カノラはそのまま床に倒れ、右半身を軽くぶつけてしまう。
いたたたた、なんの試練よ、と思って目を開けると、棚の上にあった箱がゆ~らゆらと今にも落ちそうになっているではないか。
立ち上がって箱を押さえるか、転がって避けるか。箱に何が入っていたかしら、確か古い――ゆらり。「ひぃ!」カノラはケースを抱きしめたまま素早く転がる。
一拍の後、古びたシンバルの音が耳を劈いた。
「こ、こわ……」
頭がかち割れるところだった。床にへたり込んでいると、保管室の扉が開けられ、わらわらと生徒が入ってくる。
もう放課後。音楽科だけでなく、残っていた普通科の皆さんも何事かと様子を見にきたらしい。
「カノラさん!」
凛とした声。まるで海を切り開くように、人集りが二つに割れる。
ルーナはへたり込むカノラを見て、小さく悲鳴をあげ、駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? お怪我はございませんか?」
「は、はい」
初登校だし心細いだろうと、放課後に音楽科まで足を運んでカノラの様子を見に来てくれたらしい。見当たらず、何かあったのかもしれないと察して、この時間までずっと探してくれていたようだった。
ルーナの視線は、扉付近にあるテーブルに向けられる。そこに置かれたカノラのヴァイオリン。次に、カノラが抱きしめているケース。転がった踏み台、シンバルと箱。埃まみれの、カノラの制服。
彼女は眉をひそめ、立ち上がる。
「皆様、カノラさんに怪我はないようですわ。わたくしのお友達を心配してくださって、ありがとうございます。ただ――」
彼女はそこで言葉を止めた。黒い瞳が一瞬だけ鋭くなる。生徒たちの反応から、ケースを隠した張本人を見つけたのだろう。カノラがヴァイオリンを弾いている隙に、ケースを盗んだ生徒。
「これをただの事故として処理して良いものでしょうか?」
静まり返る部屋。彼女は大貴族ノルド侯爵家のご令嬢だ。その一言の重み……物理的に首が飛びかねない。カノラは慌てて立ち上がった。
「シンバルの片付けを!」
思ったよりも大きな声になってしまい、途端に恥ずかしくなる。「誰か、手伝ってくれませんか……?」と少し小さな声で伝えた。
五拍ほどの間があって、音楽科の生徒が二人、おずおずと手を挙げた。たぶん犯人なのだろう。やらせていただきます、と彼らは頭を下げた。
ルーナは目を丸くして『これでいいんですの?』と視線を寄越す。
「ケースだったから。わたしかヴァイオリンだったら、許してません」
例えば階段から突き落とされたりね。いるんですよ、そういう人も。そう言って腰に手を当てると、ルーナは眉を下げて小さく笑った。
まだ人集りがある中で、ルーナはしゃがみ込み、カノラの制服についた埃を払ってくれる。侯爵令嬢に膝をつかせるだなんて、とカノラは恐縮したが、ルーナはくすくすと笑っていた。
そこで廊下から駆け寄る音が聴こえてきた。この音はヴィントとダンテだ。
「どうしたの。騒ぎになってるけど――大丈夫?」
心配そうに眉をひそめるヴィント。かちりと音を立てるように目が合った。確かにそうだったはずなのに、彼の視線はすぐにルーナに向けられる。
「ルーナ嬢、怪我は?」
「ええ、わたくしは大丈夫ですわ」
ヴィントの手がルーナに差し出され、当然のように彼女はそれに手を重ねた。軽々と手を引いて、彼女を立たせる。
「え、ケースを取ろうとして踏み台から……落ちた? カノラ、怪我はない?」
「うん――大丈夫」
「そう。あまり無理はしないようにね」
ヴィントからは瞥見されただけだった。近寄ることも、落ちた状況を聞かれることもない。
「どーせ、カノラとルーペがダブルでドジったんだろ?」
横からダンテに茶々を入れられる。『ドジ』の一声で、まだ残っていた緊張感が一気にほぐれる。部屋にいて様子を見ていた生徒たちも、ここで出て行った。
ダンテの手には、教室に置きっぱなしだったカノラの鞄やコートが抱えられていた。迎えに来てくれたのだろう。ヴィントの腕にはルーナの荷物があった。
「ちょっと話したいことがあって、二人を探してたんだ。……とりあえず移動しようか」
ここでは話せない内容なのだろう。四人は場所を移動した。
学園内レストランの個室でセイルドと合流する。カノラの制服が少し汚れていることに気付き、過剰に心配されてしまう。温かい紅茶を用意してくれて、やっと息をついた。
隣では、ダンテが謎の紫色の液体をすすっていた。
「お兄ちゃん、もっとお行儀よく飲んでくれない? うるさいんだけど」
「別にいーじゃん。誰もいねーんだから」
ここには侯爵令嬢もいるぞ、とカノラは思った。ルーナはダンテを見て、なにやら頬に手を当てている。紫色の液体に向けられるするどい視線。
カノラは慌ててヴィントに話を振った。
「えっと、それで、ヴィンくんの話っていうのは?」
「俺の侍従に調べさせたら、ここ一週間でフークリンらしき人物の目撃情報があった。長身で黒髪の長髪男。たぶん、やつはノーザランド内にいる」
「え!?」
カノラとルーナは目を合わせた。
「どこにいるの?」
「それがわかってたら、もう俺が直接話に行ってるよ。訪れる店をころころ変えるから捕まえにくい」
むしろ捕まらないようにそうしているのだろう。
「じゃあ……リエータさんのときみたいに罠をしかけておびき出すの?」
「サンライトの子がいればそうしてたけどね。そうもいかないから悩んでる」
「ということは、満を持して、わたしの出番ですね?」
「カノラを使えたら悩んでないよ。寮に帰ってクッキーでも食べてたら?」
「相変わらず辛辣ですね」
そこでルーナが「リエータさんとは、どなたですか?」と尋ねる。カノラの友人であり、女好きのフークリンをおびき出すために一度協力してもらったと説明する。
「そういうご事情がありましたのね。フークリンの好みの女性でなくてはならない、と。では、わたくしではいかがでしょうか? 上手くできるかはわかりませんが」
ヴィントはルーナを見て微笑む。
「それができれば良いですが。そんなこと、貴女にやってほしいなんて言えないな」
窓から注ぐ西日が、彼の瞳を照らしていた。
思い出してしまう。彼の銀髪が夕日に染まっていたことがあったな。美術準備室、スプリング家のアトリエ、ダイニング。色んなところで、夕日が沈むまで一緒に過ごしてきたのにな、って。
―― なんか……くるしい
西日が眩しい。初日からケースを隠され、真新しい制服は埃まみれで。なんだか胸がつまって上手く呼吸ができなくなる。
「カノラ嬢、紅茶のおかわりは?」
ぱっと顔をあげると、セイルドがこちらを見ていた。まだカップの中に紅茶はある。
「ケーキがいいかな? それとも、焼き菓子?」
やたら甘いものを勧めてくるセイルドに、ちょっとだけ笑った。じゃあケーキを、と言って右手を挙げる。
そのとき、ヴィントが一瞬だけこちらを見た――気がした。カノラが顔を向けると、やはり気のせいだったのか、彼は紅茶のカップに視線を落としていた。




