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No.40 恋

  


 寝支度を整えたヴィントは、カノラにおやすみと告げて、部屋の鍵を閉めた。


 予定通り、夕刻前に父ロスカが領地を訪れた。

 王都から持ってきた仕事は思うように進まず、それらは父親に奪われてしまい、あまり多くはない書類が机の上に置かれている。


 その一枚に、治った右手で『ヴィント・スノライン』とサインを入れる。まるで自覚を問われているようだった。


 刺されたことは、致命的だったと思う。ノーザランドへの留学も、菜の花の贋作事件も、自由にやらせてもらうためには……クマノミとイソギンチャク。見返りがなければならない。


 サインした書類を端に寄せ、机の引き出しの鍵を開ける。十五センチ角程度の額縁を奥から取り出す。絵の下部に小さく書かれた【No.000】の文字。


 ヴィントが六歳――ちょうど、手紙をくれた少年と同じ頃。スノライン領をふらりと訪れたアゼイ・スプリング本人に渡された絵画が、この【零番】だった。


 それから紆余曲折あり、泣いて絶望して、恋をして浮かれて、また泣いて……。心を鍛えるように熱と冷を繰り返しながら、絵を描き続けてきた。


 母親にも父親にも、ダンテやカノラにでさえ、零番のことは言っていない。


 ヴィントは零番をぼんやり眺める。木板に描かれた絵だ。裏側は板の端から端まで均一に絵の具が塗られている。

 表側は彩色のない簡単な線画。あたたかみのある大きなダイニングテーブル。暖炉に灯るゆるやかな火。


 アゼイは本当に怖い画家だなと、小さく自嘲する。心が渇くほどの幸せな光景を、このヴィント・スノラインに渡すだなんて。


 陰鬱な夜が過ぎていき、カーテンの隙間から鈍い光がじんわりと注がれる。

 ヴィントは鍵付きのトランクケースを引っ張り出して、その中に絵を入れた。鍵を閉めて、目の前の窓を開け放つ。


 夜明けの空気がびゅうっと吹き込んだ。渇いた喉を通り、そして肺を凍らせる。


 ぬくもりのない手のひらで、トランクの鍵を――小さな小さな銀色の鍵を握りしめ、窓から勢いよく投げ捨てた。きらりと光って、そして、雪に消えていく。


 ―― さようなら、ありがとう


 少年を思い出し、真似をして小さく手を振った。




 気づけば、スノライン領を訪れてから三週間ほど経っていた。明後日には領地を離れ、ノーザランドへと移動する。


 しんみりしてしまいそうな空気の中、ヴィントはカノラと押し問答を繰り広げる。


「ヴィンくん、肩のケガはどう? 留学先でもお手伝いが必要だよね」

「おかげさまで、スープも右手一本でいけるよ」

「お着替えは? さすがに難しいよね」

「四歳の頃には完璧だったはず。母さんに聞いてみたら?」

「じゃあ――」

「なにを言ってもムダだよ」


 彼女が黙り込む姿を見て、くすくすと笑う。一生懸命なところが最高に可愛い。たぶん一生、可愛いんだろうな。


「ごめんごめん、嘘だよ。一緒に留学しよう」

「え!?」


 カノラは声をあげて、本当かと何度も尋ねてくる。


「そもそも、俺の許可なんていらないよ。シンスおじ(父親)さんが許してるなら、それが全てだから」

「でも、無理やりついて行って邪魔になったらイヤだなぁと思ったの」

「あはは、真面目なところがカノラのいいとこだよね」

「だって! ヴィンくんがあまりにも強くダメっていうから……」


 彼女は少し上目遣いで首を傾げる。


「どうしてあんなに反対してたの? 贋作事件が危険だから?」

「それはある」


 しかめっ面をしてみせる。でも、すぐに目尻を下げて小さく笑った。


「あとはね、セイルドに押し負けて結婚することになったら嫌だなと思ってたのもある」

「え……!?」


 カノラはぶんぶんと首を振る。振りすぎたのか、いくらか顔が赤いような。


「前にも言いましたけど、わたしはセイルド様のことを好きになりません。絶対に」

「絶対に?」

「絶対に。……わたし、惚れっぽく見えます?」

「ううん、そんな風に思ったことないよ」


 それだけフォル・ハーベスが特別だったのだろう。少し同情して「セイルドも根はいいやつなんだけど」と、適当なフォローを入れておく。


「明後日にはノーザランドに行く。忘れ物のないようにね」

「子供扱いやめてもらえます?」


 むくれる彼女の頬に触りそうになり、その手を引っ込める。迷子にならないようにちゃんとついてくるんだよ、と茶化すだけにした。



 翌々日、三人は(正確にはランタも含めて四人だが)北へと移動した。


 北国ノーザランドは、セントステイト王国と並ぶ大国だ。だが、北側は凍土が広がっているため、栄えている都はスノライン領に近い。一日あればすんなり到着できる。


「っつーか、オレらってどこで寝泊りすんの?」


 馬車の中、やっぱりパンをもぐもぐと頬張るダンテからとんでもない質問が投げられる。


「知らないの? 申請のとき、お兄ちゃんと一緒のところに住むって書いて通したのに」

「オレはヴィンと同じとこって書いたぞ」

「俺も、同じく」


「……サークルオブ他力本願ね。申請がザルすぎるわ」


 スプリング兄妹の不満げな顔を見て、ヴィントはぶふっと吹き出してしまった。相変わらず自由すぎる。


「ごめん、嘘だよ。ちゃんと用意してある。元々はセイルドのせいで留学することになったし、ノルド家にお世話になろうと思ってたんだけど」

「え、まさかノルド侯爵家で生活するの……?」


 カノラは顔面蒼白。

 ノルド侯爵家は大貴族だ。そびえ立つ敷居は、きっと五メートルくらいはあるだろう。跨げないし飛び越えられない。


「そうやって嫌がるだろうから白紙にしておいた」

「ふぅ、安心しました。でも、じゃあどこに泊まるの?」

「せっかくの留学だから、学生寮に申し込んでみたんだ」

「学生寮……?」


 食事以外は自主自立。普通のお貴族様だったら眉間にしわを寄せる場面だろう。スプリング兄妹は、ゆっくりと笑みを広げ、身を乗り出す。なにそれ最高、楽しみすぎる。一気に馬車の中が賑やかになった。


 夕刻、馬車はノルド侯爵家の前に到着する。

 ヴィントがノーザランドに滞在するときは、到着日に挨拶をするのが通例だ。


 通された応接室は、汗をかくほどの熱気だった。暖炉の熱が煌びやかな調度品を熱して、ぎらぎらと音がするようだ。


「今か今かと待っていたよ」


 秋に帰国していたセイルドは、以前より少し痩せたように見える。彼もまた自分の領分にいることで、息苦しさを感じているのかもしれない。ヴィントは少し眼差しを緩め、握手を交わす。

 

「カノラ嬢も、よく来てくれたね。春まで貴女と過ごせるだなんて夢のようだ」

「は、はあ……有難いお言葉、コウエイに存ジマス」


 いや、息苦しさとか一切感じてないな。自由な金髪野郎だ。カノラの手に熱烈なキスをかましているところを見るに、あの非常識プロポーズは今も有効らしい。


 でも、もう二人の間に入ることは――しない。


「あらあら、お兄様。そんな風に女性に近付かれては、怖がらせてしまいますわよ?」


 開かれていた扉の方から高い声がする。ヴィントは顔に笑みを貼り付け、振り返った。


「ルーナ嬢、お久しぶりですね」

「お会いできてうれしいですわ。ヴィント様」


 彼女の名前は、ルーナ・ノルド。

 セイルドと全く同じ色。波打つ長い髪は、月の光によく似ている。


「ダンテとカノラ嬢は初めてか。紹介しよう。妹のルーナだ。年は一個下。カノラ嬢と同じ学年になるのかな」


 さすがはカーテシーも美しい。上品ではあるが高圧的ではない。


 カノラは少し頬を緩めて挨拶を返していた。

 一方、ダンテは面倒だったのか長旅で眠いのか、シンプルに名乗っただけでソファに座ってしまった。ぶれない失礼さだ。


 そんな男に目をやり、ルーナは不思議そうに頬に手を当てる。


「スプリング……? お二人は画家アゼイの御令孫でしょうか?」

「は、はい」

「ということは、お兄様が出会った運命のお相手は、カノラ様ですのね! わたくしもアゼイの大ファンですの」


 ルーナは全く疑わない目で続ける。


「ぜひ仲良くしてくださいませ。わたくしたち、将来は姉妹になるのですから、ふふっ」

「姉妹」


 セイルドのことだから、カノラとの婚姻を吹聴しているのだろう。ルーナの中では、もう二人の婚姻は確定している様子。

 そう言えば、こちらはスプリングとは違ってシスコンブラコン兄妹だったな、とヴィントは苦笑い。


 さすがに否定しようとしたのか、カノラは顎先をあげた。だが、ルーナの方が先に口を開く。


「あら? ということは、ヴィント様とカノラ様も義理の御兄妹になるのですね」


 カノラの視線が、ゆっくりとヴィントに向けられる。可愛らしい唇が、わずかに震えた。


 揺れる真っ直ぐな茶色の髪にも。

 まんまるの黄色の瞳にも。

 もう愛しさを向けてはならない。




 贋作【ランチタイム】の持ち主である、少年からもらった手紙。


 つたない字で書かれた言葉が一生懸命であるほど、向けられる感謝が純粋であるほど、右肩の傷が痛んだ。心をぐちゃぐちゃに壊された。


 だって、あの絵を――母親を亡くした小さな子供がすがるように触れていた絵を、ヴィントは切り捨てたのだ。


 手紙を読んでから、何度も思い出した。

 泥だらけの馬車道で『絵なんてどうでもいい。全部奪っていい』と言い放った。空言ではなく、本気でそうするつもりだった。


 あの瞬間の自分は、たった一人の大切な人を守ったと同時に、小さな少年の心を切り捨てたのだと……そう思った。


 こんな感情は許されるのだろうか。


 この肩の傷は、彼女を守った勲章なんかじゃない。これは罰だ。

 立場を捨て、温かな愛を欲し、いつまでたってもぐだぐだと恋を殺せなかった自分への、罰。



「え……? ヴィンくんとわたしが兄妹? どういう意味ですか?」


 ヴィントはにこりと微笑む。カノラの隣から、一歩一歩ゆっくりと離れ、真向かいに立っているルーナの隣へと身体を移した。


 大丈夫、うまくやれる。

 今までもずっと上手くやってきた。

 そう言い聞かせて、口の端を精一杯あげた。


「春になったら、ルーナ嬢と婚約するんだ」


 カノラの瞳が見開かれる。


「春に、婚約……するの? 知らなかった」

「……うん、三日前に決まったから」


 カノラから目をそらす。すると、たまたまルーナと視線がぶつかって、彼女はにこりと微笑んだ。


「一年後、ルーナ嬢が卒業したら結婚する。だから――そうだね。セイルドとカノラが結婚したら、俺たちは義理の兄妹になるのかな。おもしろい偶然だけど」


 最低最悪の偶然だ。その可能性が拭えなくて、だから、セイルド・ノルドに近づいてほしくなかった。

 

 カノラは少し口を開いて、まんまるの瞳をルーナに向ける。それから口をきゅっと結んだ。


「そうだったんですね……。えっと、少し早いですけど、婚約おめでとうございます、ヴィンくん」


 無邪気な笑顔で、世界一鋭利な『おめでとう』を差し向けられる。大丈夫。どんなに痛くても、血だらけになっても、痛くないふりをすればいい。


 ―― でも……好きだよ、って……言いたかったな


 本当は、彼女に選ばれたかった。

 あんな風にカノラの恋に協力していたくせに、そう思ってしまった瞬間が、確かにあった。


 でも、どう足掻いても無理なんだ。もうずっと……諦める理由ばかりを並べて生きてきたから。


 あぁ、彼女はなんて眩しいのだろう。

 上手くいかないことがあっても決して折れない。諦めない。そのしなやかな心に、何度も胸が高鳴った。ヴィントとは正反対の生き方に、溺れるほどに憧れた。


 そんな風に、彼女はいつも綺麗で、優しくて、正しいから。婚約者の決まっている男なんて――選ばない。


 同じように、優しくて正しくて、そしてちゃんと愛を返せる男と一緒になってほしい。そんなことを考えては泣きたくなった。



 カノラは地味な色だと言うけれど、彼女の髪より可愛い色をヴィントは知らない。感情を混ぜるように絵の具を混ぜ合わせ、何度も作ってきたマロンタルトみたいな甘い色。


 ―― ずっと、好きだったよ


 菜の花が咲くように笑うところが。

 彼女の全部が、大好きだった。


 それを隠して自分に嘘をつき続けてきた、この恋は。

 もうここで、オールオーバー。


 十八歳の冬。最初で最後の恋に「ありがとう」と告げたのだった。

 




【第二章 スノライン領】終




 





第二章、終了です。

お付き合いいただき、感謝です。


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