No.39 決する
「ヴィントさまぁ!」
スノライン領主館に少年の声が響く。
初めて訪れた憧れの場所。六歳の男の子は目を輝かせ、さらに憧れのヒーローであるヴィント・スノラインが現れたところで声を上げた。
手を大きく広げ、ロイヤルブルーの絨毯の上で小さくジャンプ。全身で喜びと感謝を伝えてくれた。
まずは盗まれた絵画を見せ、以前から変わりがないことを確認してもらう。事件後、親子が絵画と再会するのは初めてだ。
大きく息を吐き、少し古びた額縁に触れる父親。絵を見つめる目は、穏やかだ。
「本当に、ありがとうございます。なんと言っていいか……本当に……帰ってきて、嬉しいです」
父親は打ち明けた。スノラインのご子息に怪我をさせてしまったことが、胸に重くのしかかっていた、と。ここに来るまでの間、思い悩んでいたようだ。
しかし、ヴィントと対面して、それらの罪悪感は感謝に変わったようだ。父親の眼差しは陰りもなく、清らかなものだった。
「スノラインの領民――ヴィント様の民として生まれたことを、心から誇りに思っています」
真っ直ぐな謝辞に、ヴィントは口の端を軽く上げてかぶりを振った。
「実際は、そんなに格好良い立ち回りでもなかったんです。犯人を判別したのは、彼女――カノラ・スプリング、犯人を取り押さえたのは騎士たち。僕は――いや、俺は何もしていない」
少し眉を下げ、絵に視線を落とす。
「そして、この絵が……それだと見抜いたのは、ダンテ・スプリング。二人はアゼイの孫でね、学友として領地に来ていたんです」
ふんぞり返るダンテを前にして、「はぁアゼイのお孫さんですか」と、父親は気のない返事をした。絵画に興味がなければ、反応はこんなものだろう。
むしろ、彼の思考は『それ』のところで止まっているようで、少し身を乗り出す。
隣に座る少年は、時折父親にこそこそ質問をしながら足を揺らして大人しく座っていた。
ヴィントは一拍置いてから話を続けた。
「奥様は画家ドワルコフの作品だと思って購入したようですね。覚えは?」
「はぁ……ドワルコフですか? そんなこと言ってたかなぁ」
父親は息子に視線を向けるが、ジュースを飲みながら足を揺らしているだけだった。
「たしかに掘り出し物だとは言ってました。ですが、私も芸術に疎いもので。ドワルコフ……でしたっけ? ははは、価値もわからず申し訳ありません」
ドワルコフはセントステイト出身ではないが、誰もが名を知る画家だ。
「いえ、謝る必要はありませんよ」ヴィントは柔らかく微笑む。
「僕も毎日パンを食べるのに、パンを作り出した人物の御高名を存じ上げませんから。こと絵画や音楽になると知らぬは浅学だと蔑むのは、それこそ浅慮です」
父親の肩からスッと力が抜けたのを見て、ヴィントは少し身を乗り出す。
「ですが……この絵は本物ではなく、贋作だと思われます。これがお話したかった本題です」
「が、贋作!?」
芸術に疎い父親も顔面蒼白。
大人しくしていた少年も、『がんさく』が悪いことであると知っているらしく、むむぅと唸る。
「ねぇ、ヴィントさま。お母さんはだまされたの?」
「そうかもしれない。ただ、本当に贋作なのか証明するのが先かな」
ヴィントは親子を交互に見て、話を切り出す。
「まず絵画品評会という組織で鑑定をしてもらいます。その上で贋作者を訴えてもらい、事件化したい。それが僕からの提案です」
ヴィントは絵の端っこを指差して、ゆっくり説明をする。アルコールテスト、絵の具の顔料の特定、キャンバスを固定している釘や木材の年代の調査をしたい、と。
「なんとなく理解しました」
父親は絵を見つめる。
「本当に贋作だったら、この絵は……どうなるんですか?」
そして、不安そうに口を結んだ。
「贋作を破棄させる法律はありません。かと言って、返却することも難しいんです」
贋作者を裁く法律はあっても、贋作を壊す法律はない。
だが、贋作だと識別されたものを個人で保管していると、長い時を経て、また再び真作として世に放たれてしまう。そして、新しい被害者を生む。その繰り返しだ。
セントステイト王国では、持ち主が破棄しない場合は、国が絵画を保管することになっている。
「その代わり、補償金が支払われます」
今回は贋作の質が良いため、購入金額より高額になるだろう。ヴィントが補償金額の資料を取り出すと、少年の手がぴくりと動いた。
その小さな手は、父親のジャケットの裾を握りしめる。父親は悩む素振りを見せなかった。資料に視線を落とすことなく、真っ直ぐとヴィントを見る。
失礼を承知で申し上げます、と前置きをした上で、首を横に振る。
「絵の鑑定をお断りします。それで処罰が下るのであれば、受け入れます」
ヴィントはすぐに返せなかった。父親の言葉が上手く呑み込めない。
「え……? いや、処罰はありませんが……」
絵画に関わる人間にとって、真贋は一番重要な価値観だ。
美術館にはたくさんの絵画が飾られている。どれも専門家たちに真作だの贋作だの、こぞって批評されてきたものばかりだ。
昨日までゴミみたいに捨てられていた絵画が、瞬く間に脚光を浴び、持ち主に栄光と巨万の富みを与えることも多い。
だが、贋作だと判明したとき、それはゴミとなる。
父親は少年の頭を優しく撫でながら、はははと笑う。
「考えなしだとお叱りを受けるかもしれませんが、絵を手放したくないんです。妻がこの絵を飾っていたのは、価値があるからではなくて――ただ、この絵が大切だったんじゃないかなぁ」
彼女はそういう人でした、と父親は微笑む。
ヴィントはスプリング家の四連作を思い浮かべた。その価値は、誰が決めるのか。
「……奥様がこの絵に出会ったのは七年前です。僕が思うに、なにか思い入れがあったはず。心当たりはありますか?」
七年前、と父親は呟く。口元に手をやって、しばらく。ぱっと顔をあげた。
「そうか、あの中身は絵だったのか」
七年越しの謎が解けたのか、確かめるように彼は何度も頷く。
「妻と初めて出会ったとき、大きな荷物を抱えていたんです。引きずるわけにはいかないと言って無理をしていたので、運ぶのを手伝って――それがきっかけでした」
彼ははにかむように笑う。少しずつ震えていく唇を、きゅっと噛んだ。
「素知らぬ顔で飾って、毎日幸せそうに眺めて――言ってくれたら、良かったのになぁ」
絵画を見つめる父親の瞳は、少し潤んでいた。愛おしそうに額縁に触れる。
「……贋作でもいいです」
父親は震える声で言った。
「どちらでも変わりません。大切にします。この子が大きくなっていく姿を、絵の向こうで妻に見守ってもらえたら……それで十分なんです」
この絵がないと落ち着かないよな、と父親は少年に笑いかける。
少年は大きく頷き、絵の上で手を広げた。宝物を見せびらかすみたいに。
「うん、偽物だっていいよ。ヴィント様も見てよ! この絵、すっごく良いでしょ!? オレはだいすきだよ!」
父親はこらこらとたしなめながらも、大切にしような、と頭をなでる。親子は幸せそうに頷きあっていた。
―― 贋作でもいい……か
「……そうだね。鑑定も。事件化も。全部なしにしよう」
この絵は、ただの模倣作だった。
これ以上、親子から奪うものはない。
ヴィントはそう言い切った。
帰り際、なにやらもじもじとしている少年。ヴィントが声をかけると、パッと顔を明るくして、ポケットから何かを取り出す。
しわくちゃになった手紙だ。それをぐいっと胸に押し付けてくる。
「ヴィントさま、読んでね! ありがとう!」
もう一度「ありがとー!」と大きな声で叫んで、何度も振り返って手を振って、親子はあの小さな家に帰っていった。
「手紙、ですよね? なにが書いてあるのかしら?」
少年が去ったあと、カノラに促されて手紙を広げてみる。
年齢の割に賢い子だなぁと思っていたが、インクがあっちこっちに飛び散っていて、一生懸命に書いただろう字も、とっ散らかっていた。解読が難しくて、カノラと目を合わせて微笑んでしまう。
「えっと……ヴィントさま、かな?」
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ヴィントさま
ケガはだいじょうぶ?
絵をまもってくれてありがとう。
お父さんにはナイショの話だよ。
ぼくは、絵の中にいる女の人とおしゃべりをしてました。
泣いちゃったこと、さびしいこと、イヤだったこと。
お母さんとしてたみたいに、寝るまえに絵の中の人とおしゃべりすると、とってもいい夢を見られます。
きっと、ぼくのお母さんは絵になったんだ。
絵の中でにこにこしているお母さんがだいすきです。
これからは、ぼくがまもるよ。
ヴィントさま、ありがとう!
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つたない字で書かれた手紙。滲んだインク。
額縁の下の方だけが黒ずんでいたのは……母親に抱きつくように、あの子が毎日触れていたからだ。
良かったですね、ヴィンくんはすごいね、とぐちゃぐちゃに泣きながら、カノラは何度も手紙を読んでいた。
でも――ヴィントはとうとう何も言えなくなってしまった。
視線の先には、底なし沼のような深く美しき碧の色。ロイヤルブルーの絨毯に落ちたまま、顔をあげられなかった。
次話、第二章ラストです。




