No.38 膨張する期待
熱い湯に身体を浸ける。濡れた銀髪をかき上げ、青い瞳が痛むほど強く目を瞑った。
黒髪長身の男、画家フークリン。忘れるはずもない。四連作【菜の花】を勝手に模写した男だ。
模写は二枚も描かれてしまった。
一枚は消去済みだが、もう一枚は隣国ノーザランドの大貴族、セイルド・ノルドの手の中にある。
それを消し去る。
これだけは、絶対に成し遂げるつもりだ。
これまでヴィントを動かしていたのは、澄んで流れる苛立ちとか、胸の奥で弾む恋心とか、そういう感情だった。
だが、ここにきて少し色を変えた。
濁ったのだ。深いところにあった澱がかき乱され、心の中を漂い、光を遮る。
あのとき、フークリンの正体を見破れずにみすみす逃がした。誰が逃がした? なぜ逃がした? 恋心は、判断を狂わせる。
あぁ、早くこの恋を殺さなければ。
全部真っ新になって、返り血までも綺麗に洗い流さないと――。
「洗い流すのも大変でしょ? わたしが手伝ってあげたのに」
彼女の声で、はっと我に返る。
「さっぱりすると気持ちいいよね」
彼女は残酷なほど優しく微笑む。ほかほかに温まった身体に、柔らかいガウンを羽織らされる。
「ヴィンくん、袖を通せる?」
「大丈夫。――ありがとう、カノラ」
「どういたしまして、ふふっ」
傷の治りが良く、やっと全身入浴ができるようになった。
入浴の手伝いもするとカノラは言って聞かなかったが、さすがにそれは怪しい雰囲気になってしまうので、丁重にお断りした。苦渋の決断。理性の勝利だ。
世話役を承諾したことで、彼女とは常にべったりの状態。妾だの愛人だの、悪い噂はすぐに広まる。恋は人を餌にして、自身を繁殖させるから。
決して口にできない餌を目の前でぶら下げられ、ヴィントは濡れた銀髪を優しく拭かれる。癒しこそ最強の拷問だ。
「カノちゃん。もう乾いたからいいよ」
「もうちょっと。銀髪は拭き心地も違いますね」
「なにそれ。誉め言葉?」
「ふふっ、ずっと触っていたいくらい」
「……それはどうも」
まるで子供になったみたい。でろでろに甘やかされた数日間。味を占めた悪い心は、頭とは裏腹。『これはこれで悪くない。一生続け』なんて思うときもあった。
「銀髪なんて別にいいものでもないけどね」
タオルがくすぐったい。カノラにつられて頭まで動かさないように、首に力を入れる。
「素敵なのに。ルミア様と並んでると、本当に神々しいもの」
カノラはそこで手を止めた。次は櫛を使うらしい。
「でも、瞳の色はヴィンくんの方が明るいよね。ルミア様はお兄ちゃんの瞳に近いかも。海みたいな深い青」
「国王もそうだよ。俺は王弟に近い色かな」
親子の話題で、ふと思い出す。
「あのさ……明日、被害者の親子が領主館に来るけど、本当にカノも会うの? 気が重いくせに」
彼女はタオルを片付けはじめた。いつの間にか、髪はさっぱりと乾いている。
「……ヴィンくんって、なんでも知ってるよね」
全部バレてるよ、と笑って答えると、彼女は少し笑みを返して、深いため息をついた。
「正直に言うと、とても気が重い。贋作だなんて伝えたら――きっと悲しむもの」
「だろうね」
だからこそ、贋作だと告げなければならない。
悲しいかな、贋作者フークリンを仕留めるためには、被害者が必要だ。親子にはフークリンを訴えてもらい、証拠として贋作【ランチタイム】を提出してもらう。捕縛すれば、あとは芋ずる式に罪を暴けるはず。
「と、ところで!」
真面目なことを考えていたのに、可愛らしい声で散らされる。『ところで』という言葉で話題を変える人間を久しぶりに見たなぁ、とヴィントは思った。下手だなって。
「なに?」
「あの、ヴィンくんは、か……けっこ……」
「え? かけっこ?」眉をひそめる。
「話題を変えてまで聞きたかったことが、俺の足の速さ? 知っての通り、ほぼ亀だよ」
「違うの、カメなのは知ってるの」
そうですか、と真顔になる。
「だからね、その、春になったらヴィンくんは何になるの?」
「春になってもヴィント・スノラインのままだと思うけど。今のところ羽化する気配もないし」
「うん、そうよね。もし羽化したら蝶になるよね」
ならないが。
カノラは畳んだばかりのタオルをぐしゃぐしゃにしながら、あのね……と続けた。
「卒業後はどうなるのかなーって」
「ああ、そういう話か」
ヴィントは飲み物を口にする。あと三か月程度で卒業だ。
「おおまかに言えば、父親の跡を継ぐよ。領地と王都を行ったり来たり。議会、社交、領地経営。でも――」
「うん?」
「カノラにとっては、今までの俺と変わらないよ」
兄の友人という距離感は、ずっと変わらない。
「春になっても、うちのアトリエに来てくれる? 一緒にランチしたり」
「もちろん」
「そっかぁ。ふふっ、よかった」
それは、いつもの彼女より少し高い声に聞こえた。
―― ……ん?
わずかな違和感。ちらりと横を見ると、彼女の頬が緩んでいるような。ゆるんゆるんのへにゃへにゃだ。
「……え、待って。カノ、どうしたの? なんでそんなこと聞くの?」
そんな顔を見せられたら、こっちまで頬が緩んでしまう。膨らましてはいけない期待が膨張していく。まさか、いや、そんなまさか。
「ふふっ。実はね、フォル様から手紙が来たの。春になって帰国した後の予定を聞かれて。それから――他にもいろいろと!」
期待は散った。
「ヘー、ふーん。フォルくんから、ね」
みるみるうちに赤くなる彼女の頬。えげつねぇ赤だ。はいはい、知ってる知ってる。犯人はいつもフォル・ハーベス。
コンクール当日のあらましは、カノラから聞いていた。さっぱりとした顔をしていたが、彼とリエータが上手くいったからといって、すぐに割り切れないのだろう。自分で恋を終わらせるのは、存外難しい。
―― それにしたって、でろでろに溶けた顔しちゃってさぁ
口の中で舌を噛む。そりゃあ、ヴィントだって面白くはない。
恋人同士になりたいなんて願望は、彼女に恋をした五秒後にキレイさっぱり捨て去っていた。
でも、あるでしょうよ。奇跡が起きて両想いになったらどうしようという杞憂とか。もし告白されて口からイエスが出ちゃったら、どうやって結婚まで漕ぎ着ようかといった画策とか。
そんな初恋特有の可愛らしい悩みを巡らせていたときもあった。二学年の秋までの話だ。遠い昔すぎて涙が出る。
まかり間違ってカノラと恋人になれたとしても、いつかは別れなければならない。一度手に入れたものを手放すのは……難しいこともよく知っている。
まあ、杞憂は杞憂なわけで。
そもそも両想いにならなかったし、カノラが好きになったのはフォル・ハーベスだったし、悩む必要はなかった。大助かりだ。本当に涙が出る。
「それでね、春になったらヴィンくんは卒業でしょ? どうなるのかなーって気になっちゃって。でも、なにも変わらないならいいの。良かった、ふふっ」
「アハハ、ヨカッタネ」
あぁ、冷えた身体に苛立ちが染みる。フークリンめ、許すまじ。大体、黒髪の男とはそりが合わないんだよ、まったくもう。さっさと寝よう。
そして、翌日。ヴィントは心優しい未来の領主として、領民の前に立つ。
重苦しい領主館を訪れたのは、被害者の親子だ。父親を守ろうと、折れた棒切れで必死に戦った男の子。
ヴィントが自身の首を絞めてまで欲していた瞬間がくる。この恋を殺すことになる――勇敢な少年との再会だ。




