No.35 甘い、苦い、痛み止め
ナイフで刺されてから数日後。
直後から続いていた熱でしばらくは意識が朦朧としていたが、今朝は身体が軽い。
だが、傷はまだ塞がっていない。寝間着を替えるだけでも一苦労だ。いくらか楽になった痛みと戦いながら着替えを終え、ソファに背中を預ける。
トントントン、私室の扉が叩かれる。
「おはよう、ヴィンくん。朝食とお薬を持ってき――あ!」
カノラはむすっと口を曲げる。
「もう! また一人で着替えたの?」
「大人だからね。着替えくらい一人でできるよ」
ヴィントは右肩に触れる。筋肉を浅く抉った刺創。スノライン家お抱えの医師の見立てでは、二、三週間で完治するらしい。
「幸いなことに名の知れた音楽家でもないしね。問題ないよ」
「問題ありです。名の知れた『名もなき画家』でしょ」
「描いてみせようか?」
「だーめ。傷が開いたらどうするの? お願いだから完治するまで何もしないで」
わたしにやらせて。わたしがやるから。この数日間、毎日のように枕元で繰り返されたおまじないだ。カノラの真面目が大爆発している。
夜中まで付きっきりで看病すると言い出したときは、さすがに困った。一応、男だが。
「カノちゃん。罪悪感で他人の世話をしようなんて感心しないな」
「え? 罪悪感?」
彼女は少し目を丸くする。
「えっと、これは……そういうのじゃなくて……。と・に・か・く!」
ヴィントの隣にふわりと腰掛け、彼女は距離をつめてくる。思わず扉に視線を向けると、廊下に佇む侍従ランタと目があった。うん、扉は全開だ。
「おねがい! わたしにお世話係をやらさせて。せっかくルミア様から代わってもらったんだもの」
「代わりと言われてもなぁ」
母親は看病される側だ。今も一階の部屋で寝込んでいるみたいだし。
「あー……でも、ほら、侍従もいるし。カノがそこまでする必要ないよ」
「必要ないのはわかってるけど、わたしがやりたいの。ヴィンくんがイヤなら、諦めるけど……」
しょぼんと萎れていく黄色の瞳。
どうしたものかと頬を掻く。嫌ではないから困ってしまう。
「うーん、じゃあ(カノラの罪悪感が)治るまでの間、お願いしようかな」
「ほ、本当!? ありがとう、約束ね」
痛くはない左手の小指を絡め取られ、謎の指切りをさせられる。彼女は『嘘ついたら針千本飲ます』と高らかに宣言する。ナイフで刺された挙げ句、針千本とはなんたる拷問。
小指はほどなく解かれてしまい、世話役に就任したばかりの彼女は嬉しそうに薬を準備する。お世話の第一弾だろうか。ふんふん~♪と口ずさむ鼻歌は、苦い薬を甘くする魔法に違いない。
「あ、そうそう! 例の絵画がお昼すぎに届くそうですよ。画商さんも領主館に来るって」
「わかった。ダンにも伝えておいて」
盗まれた絵画――ドワルコフの真作と思わしき絵画を、直接確認することになっている。
「鑑定のためとはいえ、画商さんに見せちゃって平気なのかしら?」
「うん、昔から知ってる人で、口の堅い気のいいおじさんだから」
「それなら朝食をもりもり食べて、元気な姿を見せてあげないとね」
カノラが持ってきたトレーには、湯気が立つスープやとろとろの卵料理が並べられている。
どう見ても、片手で食べられそうにないラインナップだ。もう解熱して食欲もある。普通の朝食メニューで良いのに。ほら、サンドイッチとか、あるでしょうよ。
「今朝はとてもスープだね」
「うん、まさにスープね」
カノラは一直線に手を伸ばし、スプーンを握りしめる。凶器のようにきらりと光る。
「それでは早速。お世話第一弾ね。ふーふー。はい、あーん」
「なるほど。これが第一弾だったかぁ。難易度高めだね」
「じゃあ、ひとくちの量を少なくしますね」
むしろスプーン山盛りでお願いしたい。
果たして銃弾はどれほどあるのだろうか。きっと彼女の気が済むまで止まないはずだ。心臓に食らう風穴の数を想像して、脈が速くなる。どきどき。
最後の抵抗。口を開ける前にギロリと廊下を睨んでみる。
だが、そこに侍従の姿はなかった。『おいこら、スープはおまえの仕業だな?』という冷淡な視線は、そそくさと廊下をスキップしているだろうランタには届かない。
世界一、美味しい朝食。甘い薬に、甘い時間。ごちそうさま。
昼過ぎ。例の絵画と画商が領主館にやってきた。ヴィントの怪我を見て、画商のおじさんは感動で涙ぐむ。
「くぅ! さすがはスノライン領の宝!」
宝なのにバシバシと背中を叩かれる。痛い。
「ヴィント様の英雄譚は語り草になっていますよ。領民は皆、感謝感謝! 先日までの治安の悪さが嘘のようです」
怪我の功名。ヴィントは領内に事件のあらましを流布させた。
次期領主が強盗犯と対峙し、勇敢に戦って負傷。盗まれた思い出の品物を取り返した、という美談だ。盗品が絵画だというのは伏せられたが。
荒れていた治安は一気に沈静化。転んでもただでは起きない男。領地統制、無事に完了。
「落ち着いてよかったよ。平和が一番だから」
「ルミア様が臣籍降嫁され、ヴィント様がお生まれになって十八年。この雪深き地には、平和とともに春が来ました。領民悲願の侯爵位も夢ではありませんなぁ」
「あはは、いつも通り大げさだね」
「大げさなものですか! 領民は皆、ヴィント様を敬慕しておりますよ」
はっはっはー!と豪快に笑い、また背中を叩かれる。とても痛い。カノラがくすくすと笑いながら、傷に障るので、と止めてくれた。
「じゃあ早速、見てみようか」
テーブルの上に置かれた一枚の絵画。
ヴィントは肩の刺創に軽く触れ、視線を向けた――その傷を抉る、一枚に。




