No.31 叫声を聞け
ローストビーフサンドイッチの和やかな朝食が嘘のようだ。泣き声は、これが現実なのだと突きつけてくる。
近付くにつれて声の輪郭がはっきりしていく。路地の奥にある小さな民家だ。
―― なにがあった?
目を細めると、そこから二人の男が飛び出してくる。一人は、布にくるまれた荷物を抱えている。
「くそ! もう来やがった」
「構うな! 逃げるぞ!」
追うか迷って、足を止める。子供の叫声が今も続いているからだ。ヴィントは民家の門に足を踏み入れた。
六歳くらいの男の子だろう。目の周りを赤く腫らし、棒を握りしめ、わめき散らしている。小さな家の大きな掃き出し窓は無残に割られ、室内には物が散乱している。
泥棒に入られたのだ。
部屋には父親らしき男性が頭から血を流し、壁に背を預けている。意識が朦朧としているのか助けを求める素振りはない。
被害者は親子。赤い血液を見て、ヴィントの心臓がぎゅっと痛む。
少年は興奮して泣いているものの、大きな怪我はなさそうだ。危険なのは父親の方だろう。様子を見るために、ダンテが部屋に入ろうとした。
しかし、そこで少年が棒を振り回す。掃き出し窓の前を陣取り、ダンテを追い返そうと暴れ回る。
「父ちゃんに触んな! 近寄るな!!」
少年には敵も味方も判別できないのだろう。すべてを敵だと見なすのは、賢くもあった。
「ダン、離れて」
勇敢な少年の前に出て、ヴィントはふわりと笑ってみせる。
すると、少年はぴたりと動きを止める。眩しそうに目を細め、銀色の髪を見て、青い瞳と目を合わせる。
「……ヴィントさま……?」
もう何度もやってきたことだ。彼らの悲しみや怒りを、持って生まれたこの色で癒してきた。言葉はいらない。姿を見せるだけで領民の心を治めるというのは、こういうことだ。
「ヴィント、さま……ヴィントさまぁあ!」
確かめるように、何度も呼ぶ。少年は瞳をゆるめ、浅い呼吸を繰り返す。上手く吸えない息を必死に整えようとしていた。
はっはっと、数回呼吸をした後、その場で膝をつく。握りしめていた棒が手から離れ、泥が混じった雪の上に転がった。
ヴィントは白いハンカチを取り出し、少年の下唇に滲んだ血を拭う。激しく上下している小さな肩に触れ、開かれた心にそっと入り込んだ。
「怖かったよね。ひとりにして、ごめんね」
少年は噛んでいた唇をゆるめ、か細い声で泣き始めた。その合間で、折れた棒を握りしめていた理由を教えてくれた。
久しぶりの晴れ間で目が覚めた少年は、父親を起こさないように抜き足で家を出たそうだ。
もう六歳なのだから、大きなスコップだってよいしょと背負える。路地に積もった雪を片付けるなんて朝飯前の超楽勝だ。
少年は三か月前に病気で母親を亡くしていた。疲れきっている父親に少しでも休んでほしくて、早朝の雪かきを自分の仕事だと決めていたのだ。
スコップをぶん回してザックザックと雪を退けていく。夢中になりすぎて、ふと気づくと父親の出勤時間が過ぎていた。
しまった、寝坊だ。
まったく朝に弱いなぁ。少年はスコップを担ぎ直し、急いで帰った。すると、家の前でガラスの砕ける音が聞こえた。なんだよ、と思って口先を尖らせて駆け寄る。誰かがボールでも投げ入れたのかと思ったのだ。
だが、部屋の中では、父親が殴られていた。
「父ちゃん!」と叫ぶと、男は父親を殴っていた手を止め、引き金をひくように舌打ちを打つ。
とっさにスコップを構えた。男はにたりと笑いながら、それをなぎ払うように金属の棒を叩き込む。ガギッと乾いた音が響き、スコップの柄が真っ二つに折れた。
腕が持っていかれるような衝撃。少年は吹っ飛ばされ、固い雪に叩きつけられた。痛みよりも先に、抱えきれない恐怖が喉を掴む。――その叫び声を聞き取ったのがカノラだ。
痛みも涙もぐちゃぐちゃに混ざって、すがるようにスコップの柄を握りしめ、無我夢中に声を出した。
そして、視界が開き、ヴィント・スノラインがそこに立っていた。
「おれ、わけわかんなくて、がんばらなきゃって……父ちゃんが死んじゃう、絶対やだって思って……」
「よく頑張ったね。――頑張らせて、ごめんね。もう大丈夫だよ」
ヴィントが頭を撫でると、少年はうんうんと何度も頷き、しばらくして目を閉じた。ホッとして寝てしまったようだ。
すぐに医師と騎士を呼び、親子は近くの診療所に運ばれていった。
同時に、現場の確認が始まる。
騎士たちにまぎれて、領主の息子であるヴィントも室内を見て回った。さすがにダンテとカノラを入れることはできないため、領主館に帰したが。
「二階が寝室。被害は一階のみ。金庫には目もくれず……かぁ」
デスクに置かれていた出勤表から、父親の出勤日だったのは間違いない。少年も普段は教会で過ごしているだろうから、この日、家には誰もいないはずだった。
犯人はこの時間が留守だと調べた上で、侵入したということだろう。窃盗には向かない朝の犯行。この家を選んだ理由があるはずだ。
詳しくは、父親に話を聞かなければわからない。だが、一つだけ明らかに無くなっているものがあった。
ダイニングの奥、日の当たらない壁にうっすらと残る埃の跡。白と灰色の境目を、ヴィントは手でなぞった。
「盗まれたのは、絵画か」
壁に触れる手が、少しだけ震えた。




