No.29 嘘つきの王様
頭から湯を被ると、トマトジュースが洗い流されていく。染み込んだ赤色を消そうと強く擦る。皮肉なことに、真っ白な肌が赤みを帯びていった。
「はー、さっぱりした。カノラは知ってた? トマトって、洗ってもなかなか落ちないんだよ」
「うちの兄が本当にごめんなさい……いえ、兄というか、諸々ごめんなさい」
「諸々、詳しく聞きたいなぁ」
ヴィントが意地悪に微笑むと、カノラは肩をすぼめてしまった。
「本当に申し訳なく思ってるんですよ? あんな豪華な客室まで用意してもらうなんて……近くの宿屋に泊まるつもりだったのに」
徐々に声が小さくなるカノラ。その横で、ダンテは大きな声で喋る。
「まじラッキー♪ ヴィンさんきゅーな!」
「お兄ちゃん。さては初めからそのつもりだったのね? スノライン家にお世話になるなんて聞いてない。あぁ、もうどうしよう。もし失礼があったら、一家で首を差し出すべきね」
顎に手をあて、遠くを見つめながら早口になる彼女。淡々と焦る姿がカノラらしい。
慌てん坊で抜けているようだが、案外、肝が据わっている。それがヴィントのお気に入りポイント。ついつい声を出して笑ってしまった。
「この調度品の列にスプリングさん家の首が四つ並んでも、俺も母さんも嬉しくないかも」
「かも!? その二文字に恐怖を感じます。怖いこと言わないで」
「そんな凄い人じゃないから大丈夫だよ」
「それはヴィンくんが息子だからでしょ。崇高な御方ですよ。お兄ちゃんも失礼のないようにね!」
失礼が服を着て歩いてるような男は、テキトーに返事をしながら先頭を歩く。ヴィントの前を陣取り、口笛を吹きながらずんずんと。裸の王様の方がよっぽど常識人だろう。
ここ本邸は、領民からスノライン領主館と呼ばれている。外観は館というより城に近い。
中心街から少し離れたところにあり、決して目を引くような建物ではない。
しかし、厳かに佇む領主館は、領民に規律や秩序を思い出させる重厚感がある。心の重責だ。
その中身も、また一段と重々しい。
ヴィントたちが歩いている廊下には採光を取り入れるべく窓があるのに、雪に遮られた光はここまで届かない。
美しい調度品を端に追いやり、真ん中に敷かれたロイヤルブルーの絨毯。通る客は皆、踏んでいいのか戸惑うほどに美しい。踏み心地は最高だけれど。
そんな廊下を口笛ぴゅーぴーと進むのだから、やっぱりダンテはとっても強い。最後尾をそろそろと歩いている妹の方は、顔色と絨毯がほぼ同色。
この場合、ダンテが特殊であって、カノラの方こそ正常な反応だ。ヴィントからすれば、母ルミアが仰々しい存在なわけもないが。
真っ白な扉を三回ノックする。返事があったので、どうやら寝てはいないらしい。
少しだけ扉を開けて、まずはヴィントが顔を出す。母親は背を向けていた。ベッドの上に腰掛け、祈りを捧げているようだ。その手が解かれるのを待ってから声をかけた。
「ただいま、母さん」
「待たせてごめんなさいね。おかえりなさい、ヴィント。ふふ、久しぶりね」
緩いウェーブの銀髪を真っ白な手で整える。青い瞳を細めて柔らかく微笑む。ロイヤルブルーの絨毯によく似た色だ。
「顔色は良さそうだね。友達を連れてきたんだけど、挨拶してもらって大丈夫?」
「もちろんよ」
ルミアは嬉しそうに頷く。
「あらあら! お客様がいらっしゃるとは聞いていたけれど、ダンテくんだったのね。お久しぶりね」
「ルミアさん、体調どおっすか? ちゃんと食べてますー?」
「おおおおにいちゃんんん!?」
カノラは必死に止めているが、その心配を余所に、ルミアはコロコロと笑う。目尻に刻まれた皺は、彼女の柔らかな雰囲気を彩るアクセサリーだ。
「はじめまして。ヴィントの母のルミアです。可愛らしい女の子が来てくれて嬉しいわ。この部屋に春がきたみたい。ダンテくんの妹さん?」
「はひ! カノラ・スプリングと申します! ルミア王女殿下にお会いできるなんて、至極光栄にございます!」
カノラは直立で頭を下げる。
「ふふ、久しぶりに『殿下』なんて呼ばれたわ。今は伯爵夫人ですもの。かしこまらなくても大丈夫よ」
「はひ! かしこまりました!」
「……カノラ、相変わらずカミカミだね」
あまりの緊張具合に、ヴィントはルミアと目を合わせて笑った。
彼女の名前は、ルミア・スノライン。
現国王の実妹であり、スノライン伯爵家に臣籍降嫁した元王族だ。
「ダンの滞在は一か月。そのままノーザランドに留学する予定。カノラの滞在は二、三日の予定……だけど、未定ダヨ」
見えないところで、カノラに足を踏まれる。むぎゅ。母親の手前、未定ということにしておこう。
「コホン。あとは――エルの紹介か。あれ? エルは?」
「外よ」
ルミアが指差す方向には、庭へと続く扉がある。
「庭……ですか?」
雪の下に美しい庭があるとは思えないのだろう。カノラは窓に駆け寄り、張り付くように外を見る。春の姿を想像しているのか、黄色の瞳がきゅるりと輝いた。
ヴィントは隣に立って、その瞳を見つめる。カノラの視線は真っ白な庭に向けられたまま、ふと四阿でそれを止めた。
「あれがエルビウムくんのお墓ですよね?」
「墓?」
はて。ヴィントは首を傾げる。すぐそこに元気に駆け回っているエルビウム(犬)がいるのに、墓とはなんだろうか。
もしかして元気な犬の死を願って予め墓を立てる残忍な野郎だとカノラに思われているのかな。うーん、そこは否定できない。
あるいは、カノラが犬嫌いという可能性もある。『お墓ですよね?(圧)』という婉曲表現によって、犬を排除しろと伝えているのかも。意外と残忍だ。ちょっと滾るかも……とか下らないことを考えつつ、続きを促す。
「なんの話?」
「だから、天国にいるエルビウムくんの話ですよ。庭にお墓があるって言ってましたよね」
「エルビウムならあそこで駆け回ってるけど。母さんの犬を駆除したいって話? カノラはワイルドだね」
ルミアはダンテのおしゃべりに付き合っているので、こちらの話までは聞こえていない様子。それでも一応、カノラの耳元で小さく尋ねてみると、彼女のあごがカツーンとはずれた。
「駆除!? え? あの犬がエルビウムくんってこと? 画家のフークリンさんに言ってた話はなんだったんですか?」
「フークリン……?」
そこで記憶を漁ってみる。言われてみれば、そんな話をしたような。フークリンから菜の花の模写の在処を聞き出すために、酒場でほらを吹いたのだ。
「あぁ、思い出した。あれは嘘だよ」
「うそ!? 嘘でしょう!?」
「うん、嘘だよ。あはは」
「エルビウムくんが息を引き取った日の悲しみも!?」
「元気だしね」
「すっかり騙されました」
不満そうなカノラの頬に軽く触れて、ごめんねと謝る。やっぱり彼女を笑顔にするのは、とても難しい。
「カノラ。俺はね、必要であればちゃんと嘘もつけるんだよ。知ってるでしょ?」
「言われてみれば、フォル様にもリエータさんにも、たくさん嘘をついてましたっけ」
「必要だったからね」
にやりと笑ってみせる。
「わるーい顔。国王の甥っ子とは思えませんね」
「国王が国一番の嘘つきかもしれないのに?」
そこでルミアとダンテのおしゃべりに区切りがついた様子だったので、部屋を出ようと二人を促す。あまり長居をしていると、ルミアの身体に差し障る。
「カノラさん、ゆっくりしていってね。寒い土地だけれど、領民は皆、心が温かいの。もしここが気に入ってくれたら……今度は暖かい時期にも遊びにいらしてね。春になって花が咲くと、お庭もとてもキレイなのよ」
「は、はい! ぜひ!」
母親とカノラが交わした約束を、音楽のように聞き流す。ヴィントは積もる雪ばかりを見ていた。




