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No.25 カノラの恋



「Program No.002。音楽科二学年ヴァイオリン専攻、カノラ・スプリング。曲目、ヴァイオリン協奏曲第一番ヘ長調『恋祝福』作品一」


 アナウンスが響くと同時に、幕が開かれる。講堂まで走ってきたカノラは、息を整えながら胸に手を当てる。


 今――()()に、フォルはいない。


 目を開いて、観客席を見渡す。夕焼けみたいな赤髪はどこにいても目立つ。兄ダンテは左端の一番前を陣取り、無言で騒いでいる様子。だいぶ恥ずかしくて、少しだけ頬が緩む。


 その隣にいるかと思ったが、今日はヴィントの姿がない。スーッと視線を動かすだけで、銀髪が輝いた。

 珍しい。彼は講堂の真ん中に座っていた。カノラの立ち位置と、ちょうど目線も同じ高さだ。


 客席は暗がりだけれど、意外と表情まで見えてしまう。同じ高さで目が合うと、ヴィントはにこりと笑いかけてくれた。


 ホッとするような、キュッとするような……その間くらいの音で、わずかに心臓が鳴る。


 先ほどの出来事を、彼が知ったらどう思うだろうか。




 一度目を閉じてから、カノラは弦に指を落とす。そっと触れて、なにかを通わせるように優しく撫でる。ため息とも呼吸とも言えない息を吐き、一気に吸った。


 タイトル『恋祝福』に似つかわしくない、激しい音階。ただ弦が擦られているだけなのに、空気がはじけて、ざわっと波打つ。

 たった一小節、いや……一音だけで講堂の温度を変えてみせる。


 指を震わせ、かき鳴らす。

 カノラにとって、この曲はフォルへの恋心そのものだった。


 まだ恋を自覚する前の、ちょうど一年前の秋。よくわからない感情を抱え、美術準備室から中庭にいるフォルを眺めていた。まさにそのとき。


 隣で絵を描いていたヴィントが、この曲を口ずさんでいた。

 

 いきなり心を鷲掴みにされ、見えている世界の色を変えるような曲調に、強く心惹かれた。いてもたってもいられなくて、何の曲か知りたくて、急かすように曲名を尋ねた。


 彼は静かに微笑んで、曲の意味を教えてくれた。


『これは作曲者エルビウムの初恋を書いた曲なんだよ』


 絵筆を置いて、淡い声で続ける。


『相手は貴族令嬢。美人でもなかったし、特別目立つ人ではなかった。それでも、エルビウムは一目見た瞬間に恋をしたんだ』


 ヴィントは中庭を――いや、それよりもっと遠くを見る。


『でも、音楽団だった彼がいたのは隅っこにある暗がりのステージの上。彼女がいたのは輝くシャンデリアの下。彼は全力でヴァイオリンを奏でたそうだよ。それが彼なりの精一杯の求婚だったのかもね』


 そこで脚光を浴び、奏者として一躍有名になったという。


『初恋の思い出に恋祝福を書いて、それ以降、彼は奏者に徹した。彼女を得る代わりに捨てたものが、作曲家になる夢だった――』


 ヴィントはそう言って、少し寂しそうに笑っていた。


 胸がぎゅうっと苦しくなった。恋の物語を読んでいても感じたことのない痛み。知らない誰かの話なのに、どうしてこんな風になるのか。


 話し終えた彼がまた口ずさむのを聞きながら、中庭に視線を戻す。そのとき、窓ガラスに映る自分の表情を見て、フォルに恋をしているのだと――初めて自覚した。


 恋という感情を教えてくれたのは、ヴィントだ。


 途端に、エルビウムの愛した女性がうらやましくなった。貴族と言えども際立つ美貌もない平々凡々な女性。そんな彼女が誰かに見つけてもらって、深く愛される。一番大切なものを捨ててでも一緒にいたい、と。


 激しい音階は少しずつ穏やかなものへと変わっていく。きっと身分違いを乗り越え、二人が心を通わせたのだろう。


 ―― あぁ、くやしいな


 本音を言えば……カノラもそんな恋愛がしたかった。


 穏やかな曲調にのせて、楽しかった恋をなぞっていく。初めて名前を呼ばれたときのこと。手を繋いで歩いた街並み。中庭で並んで座ったときは、その距離の近さに息の仕方も忘れた。


 リエータとフォルに言ったことは嘘じゃない。あのとき好きだと言えた自分が誇らしい。でも、悔しい気持ちがないと言ったら嘘になる。


 カノラだって、光の当たらないところで恋を奏でていた自分を見つけてほしかった。あなたが好きだと……言ってほしかったのだ。


 そんな風に欲しがるばかりの恋だったから、少しのことで満足できてしまうんだ。フォルの頬が染まっただけで、あんなに心が満たされるなんて。


 初めての恋だ。恋の終わらせ方なんて知らなかった。一晩中大泣きしてやっと諦めるとか、そういうものを想像していたのに。


 実際は、こんな跳ねるような幸せいっぱいの曲に思い出を乗せながら失恋している。恋って、本当にわからない。


 ―― うん。わたし、がんばったよね。好きになれてよかった。すごく……楽しかった


 諦めるとかそういうことじゃない。

 少し悲しいけれど、泣くほどじゃない。


 もう十分だ。やれることは、やった。


 そう思えたから。



 この恋は、ここでオールオーバー。



 最後のフレーズを弾き終わり、カノラはそっと目を閉じた。


 静まり返る講堂。

 客席からかすかに聞こえる吐息が、空気を解いていく。


 一拍ほど置いて浴びせられた、拍手と歓声。



 カノラ・スプリング、十七歳の秋。


 春に咲く菜の花のように。

 とびきりの笑顔で、幕を閉じたのだった。




【第一章 セントステイト王立学園】終









第一章、終了。

第二章へと続きます。


ここまでお付き合いくださっている読者様に、最大の感謝を。


「続きも読むかも」と思っていただけたら、

ブックマークをもらえると作者が粛々と喜びます。

(すでにブクマしてくれた方、ありがとう!)

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