No.23 幸せを見守る覚悟
そうして迎えたコンクール当日。
カノラはヴァイオリンを片手に家を出たが、気持ちは他に向いていた。
偶然にも、この日が授業料納付の期日だった。
あれからリエータと話したが、彼女はあっけらかんとしていた。退学はサンライト男爵も了承済みだと言っていたが、それはどうだろうか。きっと期日が過ぎた後に告げるつもりなのだろう。
明るく行動力がある分、始末が悪い。本当に金持ち商人を引っ掛けたようで、もし退学するなら後妻に、という話も出ているらしい。
でも……それも幸せの形なのかもしれないと、馬車から外を眺めてしまう。
向かいの家の奥さんは後妻だけど、洗濯物を干しながら陽気な歌をうたっている。高音で跳ねるスタッカート。幸せそうな歌声だ。
どんな風に生きて、どんな人間になりたいか。本人が思い描いたものに近ければ、胸を張って幸せだと言えるはず。
でも、幸せの形はみんなバラバラだから……カノラが彼女の幸せを見守るのはとっても難しい。
―― リエータさんも聴きに来てくれるはず。コンクールが終わったら捕まえて、もう一度話したい
握手をするように、あるいは願いをかけるように、ヴァイオリンをぎゅっと握りしめる。カノラは馬車を降りた。
音楽科のコンクールは年に一度。日取りはまちまちではあるが、必ず秋に開かれる。
三学年の生徒にとっては三回目にして最後のチャンスだが、カノラは一学年のときにいきなり二位を受賞している。
三学年からすれば邪魔な存在であり、コンクールの控え室は針のむしろだった。二位ってすごい。
―― 極力、控え室にはいない方がいいよね。ヴィンくんからもそう言われたし……
昨年のコンクール後、階段から突き落とされた事件を思い出して、少し身震いする。すぐに講堂を出て、観客の波に逆らいながらカフェテリアの前を通る。
両親は出張中のため出席できないが、ダンテは来ると言っていた。ヴィントも来ているはず。だが、彼の顔は見当たらない。
そのまま渡り廊下を通り抜け、西校舎へと進む。平日なのにがらんとした校舎に、朝の光だけが点々と落ちている。
一歩、二歩、三歩。その光に足跡を合わせながら、カノラは空き教室に入ろうとした。
―― 誰もいないし、音を鳴らしても大丈夫よね
「大丈夫なわけないだろう!」
扉に触れると同時に響く声。カノラの手は止まった。どうやら空き教室で言い争いをしている様子だ。
高い声と少し低い声。閉ざされた扉の向こう側から、その二種類が聞こえてくる。
カノラの耳はとても良いから――中にいるのが誰なのか、すぐにわかってしまった。この一年間、カノラの心を奪い続けた彼の声だ。
―― フォルさま……!?
「退学して結婚だなんて間違ってます」
「私の勝手です。ハーベス様には関係ありません」
「関係ある。もうわかっているでしょう? 僕は、あなたのことが好きなんです」
扉に触れる手が冷たくなっていく。本当は立ち去るべきなのかもしれない。盗み聞きなんて良くない。
でも、少しでも動いたら何かが歪んでしまいそうで、カノラは扉に触れたまま動けなかった。
「……申し訳ありませんが、私はハーベス様に特別な感情を持っていません。今日だって、ただカノラさんの演奏を聴きに来ただけで――」
リエータはひどく不満げな声色だった。火にかけられた水がぐつぐつと揺れるような声。きっとフォルに捕まって引っ張られるように連れて来られたのだろう。
「そんなことは重々承知しています。片思いだとわかってる。だから、僕も覚悟を決めてきました」
「覚悟? 振られる覚悟かしら?」
「いや――どんな手を使ってでも、あなたを得る覚悟だ」
ドンと少し鈍い音がする。カノラには、それが何かすぐにわかった。
「卒業までの授業料全額と、諸処の費用をすべて持ってきました」
「全額」
リエータの声があからさまに高くなった。三オクターブは高かった。鞄をぱかーっと開ければ、ぴかーっと輝く札束があるはずだ。たぶん諸処の費用が多そう。
「これを全てあなたに渡します。そのかわり、卒業まで僕の婚約者として王立学園にいてください」
「……卒業まで? どういう意味?」
これまで全く聞く耳を持たなかったくせに、リエータの聴力が飛躍的にあがっている様子。札束は補聴器だ。
「我が家は騎士の家系。吐いて捨てるほどの財力はありません。例えば……スノライン家の足元にも及ばない。父親には、無関係のリエータ嬢に金を払う謂われはないと反対されました。――しかし、婚約者なら話は別だと」
「嘘の婚約で、お父様を欺くということですか?」
そうです、とフォルは答えた。平坦な声だ。
「ただ、婚約は本当にしてもらいます。我が家で暮らし、伯爵夫人としての教育も受けてもらいたい」コツコツ、と低い靴音が鳴る。
「この金であなたの一年半を買う、ということです。そして、卒業までに僕のことを好きになってもらう」
少しの間を置いて、リエータは手を叩いて笑った。
「もし、私があなたを好きにならなかったら?」
「公には僕の有責ということにして、婚約は解消します。返金は望みません」
「返金不要!?」
王立学園を卒業すれば貴族として箔がつくし、一年半を勉強に費やせば将来につながる。ノーリスクハイリターンの話に、リエータの心はひどく揺れているようだった。悩ましげなため息、美しき守銭奴。がめつさは美徳だ。
「ただし、仮に婚約を解消しても僕は諦めませんよ。また違う方法で求婚し続けます」
カノラは知っている。彼は真っ直ぐな人だ。裏工作なんてできないし、嘘も下手くそ。すぐに信じるし、すぐに騙される。そんな人が、嘘になりかねない婚約話で父親から金を引き出し『リエータを買う』と言っているのだ。
彼女にも、その覚悟が伝わっているはず。ヒールの音が響く。行ったり来たりしながら、悩んでいるようだった。
「リエータ嬢、受け取ってください」
「ちょ、ちょっと待って。今、考えてるから。うーん、あぁカネとカノラ……悩ましいわね」
「カネトカノラ?」
「ううん……やっぱりダメ。良くないわ。お断りします」
潔く断るリエータ。だが、今日のフォルは簡単に引き下がらないだろう。引いたら、そこで終わりだから。
「なぜですか? どうしても婚姻したい男性がいるなら、婚約解消後にそうすればいい。断る理由がどこにあります? あるなら、それも潰します」
「潰すだなんて、物騒なことを言いますね」
その言い回しで、リエータの断る理由が『人』であることをカノラは察した。フォルも考えついたはずだ。
思い浮かべた人物は、別だったけれど。
「……断る理由は、ヴィント先輩ですか?」
それを皮切りに、フォルの声が低くなる。冷たくあしらわれ続けた男の恋心。煮詰めて焦がして黒くドロドロになった、カラメルみたいな甘い低音。
「ヴィント先輩のどこが好きなんですか? 髪なら……僕も銀色に変えます。鍛錬をやめて勉強すれば、きっと頭も良くなるし肌も白くなる。先輩のように言葉をたくさん並べて壁を取っ払えば、もっとあなたに近付けますか? そのためなら、瞳の色だって変えてみせる」
黒髪を銀髪に変えるなんて、ガラスの破片を貼りつけたって無理だ。目玉をくり抜いたとしても碧眼にはなれない。
もって生まれたものは、変えられない。
フォルの恋は、カノラの恋とは全然違う。
カノラの髪は地味な茶色だけど、マロンタルトみたいで気に入っている。ローズブロンドになりたいなんて、思ったことはない。
服装でさえ、リエータを真似たのは一度きり。似合わないからやめてしまった。
あぁ、胸がぎゅっと痛くなる。
ありのままの自分を好きになってもらいたいと願うことと、相手に好きになってもらうために自分を捨てること。どちらの愛が重いと言えるのか。
―― フォル様……
考えるよりも先に手が動いていた。
扉を開ける高い音がキュッと響く。
冷たい風がカノラの横を通り抜けていく。
少しだけ冬のにおいがして、背中を押された気がした。
その扉は、思っていたよりもずっと軽かった。




