No.20 ガラスの靴がなくても、きっと君を見つけていた
セイルドの家から帰宅して、すぐに作戦会議だと思っていたカノラ。
しかし、ヴィントが帰宅すると言うので、この日はお開きになってしまう。
スプリング家の玄関から門までは、少し距離がある。見送りという文化を知らない兄ダンテに代わり、カノラはいつも彼を門まで見送っている。
暖かな黄色と赤色の外灯が、ぽつんぽつんと点在するレンガ道。右には来客用の大きな画廊、左には画材置き場の割にお洒落すぎる倉庫。その奥にアゼイが使っていたアトリエ小屋がある。
宝箱のような建物たち。それらをかき分けるように続くくねり道を、おしゃべりしながらゆっくり歩く。
「今日は怒涛の一日でしたね……疲れちゃった」
「フォルくんにクッキーを焼く予定だったのにね。セイルドから求婚されちゃうし、カノの恋愛は複雑骨折だね」
「まだ折れてません」
「牛乳を飲ませすぎたかな」
カノラが軽く小突いて返すと、ヴィントはくすくすと笑う。「結婚してください、だってさ~」なんて、先ほどのセイルドとのやり取りをからかってくる。
でも、門が見えてきたところで、彼はおしゃべりも足も止めてしまった。一歩も前に進もうとしない。
なにか忘れ物でもしたのかなとか、ディナーを食べる気になったのかなとか、カノラはそんなことしか思いつかなかった。
いつの間にか、吹く風が冷たくなっていた。秋という季節は、冬の一歩手前にあるのだと気付かされる。
「……ノルド侯爵家だけは、やめておいた方がいい……と思う」
ぽつりと落とされたヴィントの言葉に、カノラは首をかしげる。
「え? どういう意味?」
「結婚相手の話。外国に嫁入りなんて苦労が多いし、北国は寒いし。どうするかは、カノの自由だけど」
スノラインの領地は北の方にある。少し足を伸ばせば隣国ノーザランドだ。その寒さをよく知っているのだろう。雪がこんなに降るんだよと、身振り手振りで伝えてくれる。
その大きく広げた腕はすぐにしまわれて、本題と思わしきことを彼は口にする。
「……侯爵夫人なんて職業、全く自由がないからさ。きっとカノは楽しめない」
選ばれしシンデレラガール。彼はそう言いながら、たった三段しかない短い階段を下る。
「セイルドが贈るのはガラスの靴じゃない。二十四時間、氷の靴を履かされると思った方がいい」
固くて冷たくて、きっと立っていられない。
「だから、フォルくん家みたいな――秋のひだまりみたいな家の方が、カノには合ってると思う」
他家のことに首をつっこみすぎだね、なんて謝りながら、ヴィントは笑う。
きっと……彼の言いたいことの百分の一だって、彼女は分かっていないのだろう。だからこそ、あっけらかんと答えられる。
「さっきの求婚はお断りです。そもそも、セイルド様が好きなのはアゼイおじい様。求婚されながらも、振られたかのような謎の感覚だもの」
「侯爵家からの求婚なのに?」ヴィントは意地悪な顔で覗き込んでくる。
「スプリングさん家のカノラちゃんは、常識知らずな子だね」
「そうかしら。あれが非常識な求婚だったと分かるくらいには、常識があるつもりですけど?」
「言えてる」
笑い声と共に、少し風が強まる。寒いからここでいいよ、と言って、ヴィントは足早に行ってしまった。
カノラは一瞬だけ迷った。でも、たしかに寒いし風邪でも引きかねない。コンクールも近いから、ここで屋敷に引き返そうと背を向ける。
「カノ」
振り向くと、アイスブルーの瞳がこちらを向いていた。
「好きだ――って、フォルくんに言いなよ」
ヴィントは張り詰めたような声で、そう言った。割れかけたガラスのような儚い声に、カノラの胸がぎゅっと痛くなる。
「でも、フォル様はリエータさんのことを――」
「だからだよ。カノの一途な気持ちを知ったらどんなやつだって絶対に揺らぐ。一度は振られるかもしれないけど、そこから頑張ればいい。まだ可能性はある」
彼は少し眉を下げて、笑った。
「大丈夫、俺が全力で支えるから」
彼が作るピースサインは、不思議なくらい頼もしい。でも……告白なんて――。
「じゃあ、また明日。おやすみ、カノ」
◇◇◇
「おかえりなさいませ、ヴィント様」
黒い空を突き刺すような柵門。青白い外灯は光度が足りず、その先にあるはずのスノライン邸は輪郭すら見せてくれない。
屋敷まで続く直線的な道。歩き慣れたそれは、どんなに暗くとも躓くことはない。侍従に報告をさせながら、ヴィントは歩を進める。
「画家フークリンの調査結果は?」
「軽く洗ってみましたが、やはり模写で生計を立てている画家のようです。ですが、本名は不明。全ての経歴を把握するとなると、もう少し時間がほしいところですね」
侍従ランタは手帳をパタリと閉じる。
「あの男、なんか気になるんだよなぁ。出身は?」
「各国をフラフラと回っていますが、ノーザランドで間違いないかと」
フークリン本人もそう言っていた。嘘はついていない。
「……わかった、一旦引き上げる」
珍しいですね、と侍従は訝しげな視線を寄越す。
「実はセイルド・ノルドの方に時間を割きたいんだ。ちょっと面倒なことになりそうで。父さんと話さないと」
「先ほど帰宅されて、書斎にいらっしゃいます」
侍従に上着を預け、その足で書斎に向かった。
トン、トン、トン。硬い扉を三回叩く。
子供の頃は好奇心をときめかせる部屋だったが、いつの頃からか――この扉を好きだと言えなくなってしまった。
ここは、まるで雪を詰め込んだような部屋だ。その凍土はヴィントの指先を凍らせて、血の巡りを止める。白い吐息は、自然に呼吸ができているのか客観視するのに最適だ。
春だろうが夏だろうが関係ない。
スノライン家の境界線をくぐれば、ヴィントの全ては凝固される。一年中、冬深しだ。
「ヴィント、帰ったのか」
「セイルド・ノルドのタウンハウスに行っていたんだ。絵画がたくさん置いてあったよ」
「趣味が合って良かったじゃないか。良い関係が築けそうだ」
趣味が合う。なるほど、たしかにそうかもしれない。ヴィントは小さく笑う。
そのまま革製のソファを素通りし、大きなデスクを回って父親の横に立つ。
彼の名前は、ロスカ・スノライン。ヴィントの父親であり、代々切れ者だと評されるスノライン伯爵家の現当主だ。
白髪混じりの黒髪をかきあげ、眉をひそめる。その鋭く黒い瞳には、目の前の書類の山だけが映っている。
「見てくれ、息子よ。この白い山々。一向に減らない」
「手伝うよ。何の仕事?」
ヴィントは、父親の目の前にある書類に触れようとした。
「あぁ、これは裁判資料だから大丈夫だ」
「いつもそれ言うよね。ほかの仕事は容赦なく振るのに」
「学生にはまだ早い。罪には罰を。それを判断するには経験が必要だ。どれも軽犯罪だから問題はないよ」
「でも、なにか問題があるから睨めっこしてたんでしょ?」
ヴィントが眉間を指差すと、父親は苦笑い。
「書類自体はサインをするだけで良さそうなんだが……。窃盗の件数が増加しているのが気がかりだ」
「あー、降雪量が平年より多い予測だから」
窓の外を見る。王都ではほとんど降らない雪だが、スノライン領のほとんどは豪雪地帯だ。越冬するための食料は足りているはずだが、それでも人々は不安に駆られ、余所から奪おうとする。
そういうときは実質的な対策よりも、人情的な施しの方が効果がある。
「母さんに街に出てもらえたらいいんだけど……体調が悪いもんね」
「私も動けないし、悩ましいな」
ここ最近、母ルミアの病状が悪化し、領地の屋敷にこもりきりになってしまった。ルミアがさばいていた王城からの頼み事は、父ロスカが対応している。
卒業したら、ヴィントもこの書類や悩み事の山々に埋もれるのだろう。ぼんやりと眺めながら、そのときが近付いていることを悟る。
窓の外には、白い雪も黄色の蝶も舞っていない。ただ冷ややかな暗闇があるだけだ。
欲は限りないから、業が生まれる。
もう、離れる準備をしなければならない。
「……父さん。セイルドから面倒事を頼まれたんだ。本気で取りかかろうと思ってる」
「どうせスプリング家に関わることだろう。傾倒しすぎだ。もう手を引きなさい」
冷たく、低い声。ヴィントは少し俯いて、背中の後ろで手をぎゅっと握る。爪が食い込んで、手のひらを静かに傷つけていく。
対峙するときは、心の中で繰り返さなければならない。クマノミとイソギンチャク。欲しいなら与えろ。恩には恩を、仇には仇を。
「じゃあ、こういうのはどう? 父さんの希望通り、ノルド侯爵家ともっと仲良くなってあげる。手始めに、隣国ノーザランドに滞在しようか。ついでに領地に寄り道して、さっきの悩み事も解決しておくよ」
「ははは、大盤振る舞いだな」
父親は余裕そうに口角をあげるが、先ほどよりも眉間は緩んでいた。ヴィントはそれを見逃さない。
「その代わり――スプリングの件は何をやろうが見逃してほしい。セイルドにも恩は売っておくし、悪いようにはしないから」
ロスカは先ほどよりもいくらか深く口の端を上げる。それでこそ、スノライン家の跡取りだと称えるように。
「優秀な息子を持って、私は幸せ者だな。ヴィント、私はお前を信じているよ。自由も責任も、すべてはお前の手の中にある。やりたいようにやりなさい」
「ありがとう、父さん」
理解ある親の鏡みたいな言葉。
でも、それは銀で作られた美しい装飾品ではなく、必死に磨いただけの凝固した氷だ。
ずいぶんと不自由な自由を与えられたものだ。そう思ったところで、思考がそれた。
―― どこかで聞いたフレーズ……あ、カノだ
不自由な自由。以前、カノラが同じことを言っていた。涙が出るほど笑った出来事だったから、たしか描き留めておいたはず。今度見返してみよう。
彼女の笑顔を思い出すだけで、じんわりと手のひらがあたたかくなる。
「父さん、やっぱり手伝うよ。もらってくね」
自然と緩くなった頬。ヴィントは中身を確認せずに白い山々の一つを抱える。氷の上を滑るように、軽やかに部屋を出た。
この穏やかな関係に、張り詰めた空気に、一つもひびが入らないように。
そっと重い扉を閉めた。




