No.02 イソギンチャクの毒
真後ろから響くヴィントの声が、カノラの背中を押した。
「ははっ、カノちゃんらしいね。諦めずにがんばれ」
頑張りたい。でも、どうやって頑張れば良いのだろう。
そこで美しい銀髪が目に入り、急に視界が開ける。なぜ、今までこの人を頼ろうと思わなかったのか。
「……あの、ヴィンくん。協力してくれませんか? 人生三周目ですーみたいな顔してるし、恋愛も得意そうですよね」
「まさか。恋愛は門外漢だよ」彼は肩をすくめる。
「そんなこと言っちゃって。お兄ちゃんの恋愛がやたら上手くいくのも、ヴィンくんのおかげだって知ってますよ」
「ダンの恋愛は半年も続かないけどね」
「半年でもいいから恋人になりたいんです」
しかし、答えは返してもらえず、彼は手のひらを向けてくる。それはお菓子を欲しがる子供のような仕草だった。
「俺はイソギンチャクだよ。クマノミのカノラは何をくれるの?」
何の話かしらと頭をひねる。そういえば、ヴィントに勧められた本で読んだような。
イソギンチャクは毒をもってクマノミを守り、代わりに海水をもらう――とかなんとか。
回りくどい言い方をするなんて意地悪な人だ。見返りが欲しいんですねハイハイ。
そう思ったところで、はたと気付く。
彼の欲しいものが、わからない。
「ちなみに、一つだけ言うことを聞くっていうのは、どうですか……?」
「それ採用。じゃあ、この無駄な押し問答をやめてもらおうかな」
彼は口の端をあげる。この意地悪な笑み、交渉決裂だ。
「ま、待って――」
「じゃあね、ちょびヒゲ令嬢」
営業終了。カラカラぴしゃり。窓もカーテンも閉められてしまう。ガラスに映った顔には、白い絵の具がべったりとついていた。
ヴィント・スノラインは難攻不落だ。
糸口を探ろうにも、彼について知っていることは三つだけ。伯爵令息であること。兄の親友であること。
そして、好きなことは絵を描くこと。それは趣味に留まらず、名もなき画家・アノニマスという筆名を使い、身分を隠して活躍する売れっ子の画家だ。
三つだけって。どう考えてもおかしい。
だって、休日はカノラの家――スプリング子爵家のアトリエに入り浸りなのに。思い返してみると、出会って二年半、くだらない会話しかしてこなかったかもしれない。
でも、悩みを抱えて初めて気づく。
どうしてだか、彼の隣にいると心の内側を垂れ流してしまうのだ。彼には、そうさせる何かがあるのだろう。
結局、翌日の放課後。
カノラは懲りずに美術準備室を訪れていた。
「――それでね、フォル様って浮ついたところが一つもなくて、すごく素敵なんです。どうやったら仲良くなれるか悩んでいて……ヴィンくんはどう思います?」
「よく感情を垂れ流す口だなぁって思う」
「聞き流すのやめてもらえます?」
心の内側を見せたところで、彼のアイスブルーの瞳は冷たいまま。
いつもおしゃべりしながら絵筆を握る彼だが、今日はそれを放すまで待った方が良さそう。カノラは張っていた肩肘をゆるめ、彼の手元を見る。
「今日は何を描いてるんですか?」
「猫と魚」
なにもない空間に、二匹が寝転んでいる。まるで手を繋ぐように触れ合っていた。
「わぁ、かわいい! 芝生でひなたぼっこ? なんか魚が可哀想ですね」
「今、カノは魚を殺したんだね」
「え?」
ヴィントは絵の上で指を滑らせ、残酷だねと言う。
「ここは水中かもしれないのに」
「え、これ何かの心理テスト? よくわからないうちに人間性を否定されて驚いてます」
彼は笑いながら、絵のタイトルを入れる。
作品No.72【相容れない、二つの存在】と。
そこでやっと絵筆を置いて、目を合わせてくれる。
でも、何も言わずにまた手のひらを向けてくるだけ。ここで間違えれば、この手は即座にひっくり返され、扉の外へ追い払われるのだろう。
だが、カノラは一つの策を持ってきていた。日焼けのない彼の手に一枚の紙を乗せる。権利書だ。
「わたしはクマノミ。ヴィンくんには【海水】をあげます」
海水――カノラの祖父、画家アゼイ・スプリングの未発表作。ヴィントが愛してやまない絵画四連作の一枚だ。
奔放な兄ダンテのやらかしのせいで、この度、その所有権がカノラに回ってきたのだ。
効果抜群。四連作の名前を出した途端、彼の雰囲気が変わる。
「ふーん? 四枚すべて、カノラが所有してるのかぁ」
「もちろん、模写でも贋作でもない”本物”を差し上げます」
今、大陸中でアゼイの贋作が出回っていると聞く。
カノラが本物だと強調すると、彼は満更でもなさそうに片眉をあげた。
「いいよ、交渉成立」
「本当!?」
難攻不落のヴィントを落とした。カノラは手をあげて喜ぶ。ハイタッチの相手がいない……と寂しく思っていると、彼は笑ってそこに手を合わせてくれた。
そして、絵筆を握り、紙に文字を書き始める。器用で達筆だ。
「フォル・ハーベスとの恋に協力する代わりに、海水の権利書を俺がもらう」
「契約書?」
「うん、口約束は信じないし守らない主義だから」
「最低なしっかり者ですね」
出来上がった契約書を前に、よしと気合いを入れてペンを握る。なるべく美しい文字で、カノラ・スプリングと綴った。
「それで、カノは俺に何をさせたいの?」
騎士科は男性しかいない。そこに女性が割って入って仲良くなるのはなかなか難しい。
「ヴィンくんがフォル様と仲良くなってくれたら自然かなって……でも、気が進まないなら他の方法を考える!」
彼は権利書に視線を落とす。五拍ほど沈黙を置いて頷いた。その代わり、と言いながら指を二本立てる。
「一つめ。全くの脈無し――可能性がゼロだと俺が感じたら、そこでオールオーバー。完全な終わりにして、潔く諦めること」
筋は通っている。いつまでもズルズルと友人関係を続けてはもらえない。
「それから、もう一つ。念のため釘をさしておくけど、俺には恋愛感情を向けないようにね?」
まさかの釘。言われてみれば、彼は女性から好意を向けられる側の人間だ。秘密の共有なんてした日には――怖すぎる。カノラは力強く頷いた。
「それなら安心だね。俺、カノと恋愛する気ないから」
「……それはどうも。こちらこそ?」
そこまではっきり言われると、少しむくれてしまう。彼は笑いながら、その頬を指でつついてくる。ぷしゅうと空気が抜けたのを見て、彼もサインを入れた。
「契約完了。フォル・ハーベス、だっけ? 早速、敵情視察をしようかな」
敵。敵はフォルではなく、彼を射止めた女子生徒なのでは……。
カノラの疑問には答えてくれず、彼はまた絵筆を握ってしまった。




