9話
私の腰のあたりを持ち、抱き上げたハイルド様はその場でぐるりと一回転した。
ハイルド様より高くなった私の視線。そのまま世界が廻る。
驚いて目を瞠れば、ハイルド様は、なにかにはっと気づいたようで、ぴたりと体を止めると、慎重に私を地面に下ろした。
「……怖かったな」
「いえ……あの、……驚きました」
私を地面に下ろしたハイルド様が一歩下がり、しょんぼりと私に声をかける。
怖かった……わけではない。ただ……びっくりした。
こんな風に……まっすぐに気持ちを伝えられたことがなかったから。
こんな風に……私の提案を褒めてくれる人はいなかったから。
ハイルド様は「そうか」と呟くと、「時間をくれ」と言って、まだ残っていた魔塵へと歩み寄った。
そして、腰のあたりについていた革袋に、魔塵を一掴みほど入れる。
「持ち帰って、ジャックに言おう。上手くいけばいい」
「……そう、ですね」
ハイルド様は、私の言葉を聞き、うまくいくかどうかを試してみるようだ。
ハイルド様が「素晴らしいな」と言ったのは嘘ではない。私を持ち上げてぐるりと回ったのも、パフォーマンスというわけではなく、本当にそうしたかったのだろうと伝わって……。
「上手くいき利益が出るようになれば、リルにも配当が行く」
「えっ……」
突然のハイルド様の言葉に目が白黒する。
利益の……配当?
「魔塵がマッチに適しているならば、それはリルの発案だ」
「あ、……いえ、でも、私のはただの思いつきで……。上手くいったとしても、それはハイルド様の手配によるものです。ですので、私に利益の配当なんて……」
「俺だけでは考えられなかった。リルの功績だ」
「そんな……」
当然のこと、とハイルド様は言い切った。
でも、私にはそれがわからなくて……。
「……私はハイルド様に輿入れしました。ですから、もし発案者が利益をもらえるとしても、それはハイルド様のもののはずです」
「……なぜだ?」
「えっと……私はハイルド様に輿入れした身です。ですので……私の功績は……その、……ハイルド様のものになるのでは……ないでしょうか……」
しどろもどろに答えたのは、ハイルド様があまりにも不思議そうに疑問を呈したから。
これまでの私の常識、考えが、ハイルド様の態度によって、ぐらぐらと揺れる。
でも……。
――私は、そう言われてきた。
お前はエバーランド伯爵家の娘なんだから、お前が家族のために尽くすのは当たり前だと。だから、当たり前のことに配分など発生しない。お前が働いて得たものはエバーランド伯爵家に渡すのが当然なのだ、と……。
だとするならば。
『リル・エバーランド』はナイン辺境伯家へと輿入れした。
だから、私のものはナイン辺境伯家のものになり、私に配分などあるはずがないのだ。
手をぎゅうと握りしめ、俯きながら答える。
そう……だから、この手にはなにも残らない……。
すると、ハイルド様が私へと近づき、手をとった。
ハイルド様の手は大きくて、私の手が簡単に収まってしまう。
「リル」
低く落ち着いた声。
つられるように顔を上げれば、そこには真摯な金色の目があった。
「俺とリルは別人だ。リルの功績は俺のものではない。もちろんナイン辺境伯家のものでもない」
「……っ」
「俺はリルの功績を奪わない。リルは自分の能力の分、配分をもらう権利がある」
まっすぐな言葉。温かい手。
それに触れた瞬間、心が悲鳴を上げたのがわかった。
――そんなわけはない、と。
私のものは……なくていいはずなのに。家族のために尽くすのは当然のはずなのに。
ハイルド様はそれは違うのだ、と言う。
でも……、だって……。それを認めてしまえば……。
それならば、私のこれまでは……。エバーランド伯爵家で働き、父の名義で仕事をしたこと……すべて、私は……。
「リルはエバーランド伯爵家で、どんなことをしていた?」
「……最初は……字が書けるなら、手伝え、と」
父に言われるがままに、書類をまとめる作業をした。転記の作業も多く、ペンを持つ手に痛みが走る日も多かったが、言われた量を終えるまで、私は休むことを許されなかった。
「次は……計算ができるなら……これをやれ、と経理をするようになりました」
父が部下に頼むべき仕事。家のことを取り仕切る母がやらなければならないこと。気づけば、私がそれを担うようになっていた。
「今は……それらをしながら、父が新しく始めた商売の手伝いを……しています」
「……今日みたいに、リルの発案から商品にしたものはあるのか?」
「……はい」
ハイルド様は「そうか」と呟いた。
そして、それ以上はなにも言わない。ただ……包まれた手が温かくて……。
「ハイルド様……私は……っ」
『間違っていない』と、『私が普通であなたがおかしいのだ』と、そう叫びたい。そう言って、自分が正しいのだ、と。
悲鳴を上げた心は必死で、自分を守ろうとする。
痛みから逃れようと、言い訳を作り、ハイルド様の言葉を否定する材料を探す。
でも……。
「リル」
ハイルド様の落ち着いた低い声と温かな手。
心を守るために、否定したいのに。自分は正しいと叫びたいのに。その声と手はそれを許してくれない。
そうして、残ったのは……。
――家族という名のもとに、搾取されていた自分。
愛されるために努力をしているつもりだった。努力を続ければ愛されると夢見ていた私は……。ただ……。
「リル。……俺はあなたが聡い女性だと感じる」
……だから、わかるはずだ、と。ハイルド様はそう言っている。
そう。ハイルド様の言う通りだ。……私はわかってしまった。
答えを見つけてしまった心は、そのことに怯え、体が震え始める。
ここは魔物の棲む森。
死ぬためにやってきた場所。
見つけた答えは、魔物に対したときと比べ物にならない恐怖を生んだ。
私の手を取るのは鮮やかな赤い髪に金色の鋭い目をした男性。
私を魔物から助けてくれた人は――。
……怖い。
私の心を壊そうとする。
思わず一歩引けば、手が離された。
それが……悲しいと思った。
怖いのに……。自分から離れたのに、温かい感触がなくなり、手が震えた。
すると――
「……抱きしめるぞ」
――ハイルド様は引かなかった。
むしろ、私が離れた一歩よりも大きな一歩で私へ近づいた。
そして、そのまま、力強い腕と広い胸に抱き留められて――
「ハ、イルド様」
「リル」
落ち着いた低い声。震える私の体全体に伝わる優しい温度。
ぎゅうと包み込まれるように抱きしめられて……私の心は……。
「ハイルド……様」
「リル」
「ハイ、ルド……さま……っ」
……溶けていく。すべて。
悲鳴を上げる心も、正義を叫びたい心も、反抗する心も、否定する心も。
自分を守るために必死に立てたトゲを、すべて。すべて溶かされて……。
「私の……私の愛は……っ」
愛されたいと願った、幼いころの私の思いは――
「っ……叶わな、い……」
――満たされることはない。
どんなに努力をしても。
どんなに身を尽くしても。
父の代わりにやり続けた仕事。母の代わりに女主人の役割もこなした。妹が言えば、どんなことも言うことを聞いた。
そして……こんな場所まで一人で来たのだ。
妹の身代わりになって嫁ぐことにも反抗しなかった。
『お前が代わりに死ね』と言われても、それを粛々と受け入れた。
そうすれば……。
「私は……愛される、と……」
いつか、きっと。
今ではなくても。
私の努力によって、叶う愛があるはずだった。
でも……。
「ない……っ、そんなものは……」
悲しい。
……悲しい。悲しい。
魔物の棲む森に一緒に入った馭者。私は馭者に『待ち人が来るから大丈夫』と伝えた。
もちろん、それは嘘。
待ち人なんていなかったし、私は魔物に殺されるだけの運命だった。
でも……私の心には待ち人がいたのだ。
――私の待ち人は家族だった。
『お前がいないと仕事が回らん、帰ってこい』
『あなたがいないと、困るの』
『お姉さまがいないと張り合いがないわ』
そう言って、家族は私を連れ戻す。
そこで私は『必要とされていた』と感じ、足早に帰るのだ。
……これが私の望みだった。
そして――
「無駄……でした……」
――全部きっと、なにもかも。
ハイルド様に話すことで、自分の状況を客観的に捉えることができた。
なんの報酬を与えなくても、便利に使える人間。
私はただそれだけの人間だった。家族にとって都合がいいだけ。そして、私は都合がよくなるよう努力を続けた。
……最初から叶うはずのない愛を夢見て。命まで捧げた。
なにもない私を愛する人間などいるはずがないのに。
愛を夢見るだけの私が、なにかを手に入れることができるはずがないのに。
気づけば、目からは大量の涙があふれていた。
いつからかはわからない。ただ、流れ出した涙は止まらず、子どもみたいに声を上げて泣いてしまう。
そして、それはハイルド様の胸に染みていって……。
「無駄ではない」
ハイルド様ははっきりとそう言った。
「リルの努力は、決して無駄ではない」
落ち着いた低い声は私の胸に響く。
でも……。
――叶わない愛に身を捧げた私は無駄ではないのだろうか。
――叶わない愛は必要なのだろうか。
涙が止まらない。あとからあとから出てきては、ハイルド様の胸を濡らしていく。
ひっくひっくとしゃくりを上げて泣く私を、ハイルド様はずっと抱きしめてくれた。
悲しいと泣く私。
願いが叶わないなんて酷いと泣く私。
努力が無駄だったと嘆く私。
涙と一緒にこぼれおちていくそれを、ハイルド様はすべて受け止めてくれた。
そして……どれぐらい時間が経っただろう。
ようやく私が落ち着くと、ハイルド様はそっと呟いた。
「リル。一緒に行きたい場所がある」
そうして、魔物の棲む森から出て、向かったのは緩やかな斜面の丘だった。
青紫色のコインサイズの花がたくさん咲いている。
丘のすべてを花が覆っていて、空と丘の境目まですべてがブルーに染まっていた。
「……きれい」
その景色にほぅとため息を漏らす。
たくさん泣いたあとに見た景色はきらきらと輝いて見えて――
「リル。愛は消えてしまうと思うか?」
ハイルド様はそう言って、花を一つ詰んだ。それを私へと渡す。
私はじっとハイルド様の顔を見上げて……そして、そっと目を逸らす。
愛は……きっと……。
「……返してもらえなかった愛は消えると思います」
そう。この花のように。
「ハイルド様は……今、私に花を渡してくれました。……だから、私は花を持っています。そして……ハイルド様の手から、花は消えました」
ハイルド様の花。それを私が受け取った。
もし、このままにしておけば……ハイルド様は花をなくしてしまったことになる。
俯いて答えれば、心に痛みが走った。
返してもらえない愛は消えるのだ。そして、愛を捧げた人間から愛はなくなる。そして――
――なにももたない人間になる。
愛を与えることも、与えられることもない。この手になにも持たない、私のように……。
「リル」
低く落ち着いた声で呼ばれて、そっと顔を上げる。
そこにあったのは――
「愛は消えない」
――やわらかく私を見る金色の瞳。
「愛はな……増えていく」
そう言って、ハイルド様はそっと手を開いた。
そこにあったのは……かわいらしいブルーの花。私にたしかに渡したはずなのに……。
「俺はリルに花を渡した。だが、俺から花は消えない」
「……は、い」
こんなのは……手品みたいなものだろう。
ハイルド様は花を一つ摘んだように見えて、実は二つ摘んでいた。そのうちの一つを私に渡してくれただけ。だから、私が愛を返さなければ、二つから一つに愛は減っているはずなのだ。
「この丘に咲く花は一年草だ。時期が過ぎればすべて枯れる。だが、次の季節には必ずまた咲く」
「……はい」
「愛は消えない。愛はまた生まれるからだ」
そう……なのだろうか。また……生まれるのだろうか。
私は家族に愛を捧げ、愛されることを願った。
だが、家族は私に愛を返すことはない。これまでも……これからも……。
だから、私はなにもないのだ。なにも手にできない、家族に愛されない姉。
「愛は受け取ってもらえる保障はない。同じだけの愛が返ってくる保障もない」
「っ……はい」
悲しい……酷い世界だと思う。
努力すれば報われたいし、愛を捧げれば返してほしい。でも、それはただの願望で、真実ではない。
……努力は報われず、愛は返ってこない。
ハイルド様はそれを否定しない。でも、それでも……『愛は消えない』と。
「リルの持っている花をだれかに渡す。すると、リルの手からは愛が消えるのか?」
「……私は、そう思っていました」
私にとって、愛は一定量なのだ。
生まれたときから持っている花。それを渡す相手がいる。それを受け取った相手は持っている花が増える。
……たくさん愛された妹はたくさんの花を持っている。
だから、人に渡すことができるし、だからこそ人から愛されるのだろう、と。
そして、花を失くしてしまった私は、だれからも愛されない。
「リルが俺に花を返す必要はない。俺はリルに花を渡した。それは俺の意思だ」
「は、い……」
「俺は……愛は広がると思う」
「……は、い」
ハイルド様は愛は増えると言った。それはつまり、人に渡せば渡すほど増えるものなのだろう。
ハイルド様は……強い人だ。
今、こうして、出会ったばかりの私にも愛を渡してくれている。
「……だれかに渡した愛を、その人がまた次へ繋ぐ。愛は生まれ続けるからだ」
「はい……」
「きれいごとだが」と、ハイルド様は小さく付け足した。
……きれいごと、なのかもしれない。
けれど……私は……。
「素敵な……考えですね……」
――私の願っていた世界は来なかった。
代わりにあったのは『願いは叶わない』という厳しい現実。
でも、悲しみと痛みの中で見た世界は……その景色は……。
――鮮やかな赤い髪に鋭い金色の眼。
――ブルーの花に覆われた丘。
ああ、なんて……。
なんて、きれいな色だろう。
「……ここに来れて、よかったです」
――私の胸に、たしかに小さな花が咲いた。