8話
結果として、私は午前中のうちに、辺境伯と一緒に魔物の棲む森へと出かけることになった。
騎士たちは驚いていたが、私が辺境伯の誘いに頷いたからだ。
……辺境伯はわかってくれたのだろう。
私が昨日、眠る前に伝えた言葉。そこにほんのわずかな真実があったこと。
魔物の棲む森と魔物に興味がある。
本で読んだことのある世界が、そこにあるのならば――
「怖くないか?」
馬に乗った辺境伯は、そう言って、そっと私を引っ張り上げた。
ぐっと手を握られ、腰を支えられたと思ったら、私はもう馬の上だ。
「視線が高いですが……怖いという感覚はないです」
私が収まったのは、辺境伯の前。
一頭の馬に二人で乗っている形だ。
馬に乗るのははじめてだが、こんなにも目線が高くなるとは思わなかった。怖くないのはきっと……。背中にやさしい温度を感じるから。
マチルダにはとても心配されたし、コニーも不安そうな顔をしていたが、私は辺境伯のことを怖いとは思わない。
たしかにあまり表情は変わらないし、鮮やかな赤い髪と鋭い金色の眼というのは、一般的には恐れをいだいてもおかしくないのだろう。魔物を一太刀で倒してしまうような力強さも。
「では動くぞ」
辺境伯の合図で馬が前へと進む。
馬の一歩一歩は大きくて、乗り慣れていない私の体は前後に揺れた。
でも、その度に背中にいる辺境伯は私をさりげなく支えてくれて……。
……辺境伯のことを『冷酷だ』と噂を流した人物は、まったく見る目がなかったのだろう。
社交マナーよりも、実利を取るところや、端的な言葉遣いなど。貴族の中にいれば浮くこともあるのかもしれない。けれど、それは魔物からこの地を守るために必要なものだ。そして、魔物からこの地を守ることは、ひいてはこの国を救うことにもつながる。
辺境伯の地位は確固としており、国王からの信頼も篤いのだという。
だから……なのだろうか、と思った。
貴族たちとは違うルールで生きる辺境伯。その辺境伯が国王から覚えがいいということは、貴族たちのプライドを刺激するのだろう。
そして、実際よりも酷い噂を流されているのだとすれば……。
「閣下は……こんなにも優しいのに……」
ぽつりとこぼれた言葉は無意識だった。
小さな独り言は風に溶けて流れてしまうはずだったが、馬上で背中越しにいた辺境伯には聞こえてしまったらしい。
私の言葉に、ぴくりと体が動いたのがわかった。
「閣下……か」
「あ……ごめんなさい……」
どうやら、内容よりも呼び名のほうが気になったらしい。
騎士たちがそう呼んでいたから、使ってしまったが、私が使うには失礼だったのだろう。
慌てて謝罪をすれば、辺境伯はずれた私の体を直し、そっと呟いた。
「……名前を呼んでほしい」
「名前……ですか?」
辺境伯の名前……。たしかハイルド・ナイン辺境伯。
私は頷くと、すぐに言葉にした。
「ナイン辺境伯様」
「……そっちではなく」
「そっちではなく……?」
はて? と首を傾げる。
すると、辺境伯は「ああ」と頷いた。
「ハイルド、と呼んでほしい」
まさかの提案に思わず「えっ」と声が漏れる。
どうしていいか、目を泳がせて、ちらりと背中の辺境伯の顔を見た。
そこにあるのは鮮やかな赤い髪と鋭い金色の眼。表情はとくに変化はない。けれど……。
私の背中にある大きな体。わたしの腰のあたりから前へと伸び、手綱を握る手。そこから緊張のようなものが伝わってきて……。
辺境伯にとって、「名前を呼んでほしい」というのが、とても勇気のいる提案だったのだろうと感じられた。
だから――
「……ハイルド、様」
辺境伯の緊張が移ったのか、名前を呼ぶだけなのに、胸がドキドキと高鳴る。
これで、良かったのだろうか……。
消え入りそうな声で呼んだあと、もう一度、辺境伯の顔を窺う。
すると……。
「ああ。これからはそう呼んでくれ」
私と目が合った辺境伯がうれしそうに笑う。
金色の目はやわらかくて、そのままとけてしまいそうだ。
すると、私は胸が熱くなって――
「俺も名前を呼んでいいか?」
「は、い」
「――リル」
――体の芯がじんと痺れた。
慌てて前を向き、それを誤魔化すようにきょろきょろと目をさまよわせる。
すると、ちょっとしょんぼりしたような声が響いた。
「……怖かったか?」
「あ、いえ、……違います……。あまり、その……慣れていなくて」
「そうか」
私の変な答えにも、辺境伯――ハイルド様は受け取ってくれたらしい。ハイルド様はほっと息を吐くと、私の体のずれを直した。
そして、話を続ける。
「リルは、なぜ魔物の森に興味があるんだ?」
「あの……本で読んだのです」
「リルは勉強家なんだな」
「いえ……そんなことは……」
カポカポと鳴る馬の蹄の音。ハイルド様の低く落ち着いた声。
午前中のやわらかい陽の光は斜めに私たちを照らしていた。
風が頬を撫でていって……。はじめての体験は私の心をほぐしていく。
「魔物は……午前中は活動していないと読みました」
「ああ、朝日が苦手なのだろう。午後から夜にかけて活発になり、深夜を過ぎるとまた落ち着く」
「……私が魔物に襲われたのは、昼過ぎでした」
「……ああ。助けられてよかった」
ハイルド様はそう言うと、私の体を抱きしめるように包んだ。
でも、きっとそれは気のせいで、鞍からずれてしまう私の体を直してくれたのだろう。
そこからは、無言で魔物の棲む森を目指した。
お互いに言葉はないが、そこに居心地の悪さや、雰囲気の悪さはない。
馬の背に揺られて、二人で進んでいくのは、心地よくて……。
「入るぞ」
馬でしばらく進んだあと、見えたのは深い森だった。
私が馭者とともに馬車で入った道を、今度はハイルド様とともに辿っていく。
魔物の棲む森はやはり鬱蒼としていた。ここを馬車で進んでいった馭者は気味が悪かったことだろう。
でも、なぜだろう。私はあまりそうは感じない。
馬車から出たときも、今、こうして進むときも。
……本で読んだ景色がここにある。
そう思うと、わくわくしている自分がいるのだ。
「リルは……怖くないんだな」
興味深くあたりを見回していると、ハイルド様がそっと声をかけてくる。
なので、それに「はい」と頷いた。
「……わくわくしています」
「そうか」
魔物に襲われた現場に戻っていくことにわくわくするなんて……。
きっと、おかしいと思われるだろう。
でも、ハイルド様はそっと呟いた。
「……リルが楽しそうで、良かった」
楽しい……のだろうか。本で読んだ知識と実物を照らし合わせること。……それは、たしかに、楽しいのかもしれない。
……伯爵家にいたときは気づかなかった。
私は本を読むのが好きだった。知識が増えることも、違う世界を覗くことも。
そして、さらに、本で得たものを現実でも活かすことができるなら……。きっと、それが楽しかったのだ。
――妹の身代わりとなり、死ぬために訪れた魔物の棲む森。
それは私の『楽しい』を見つけてくれて……。
「リル、着いたぞ」
どうやら目的地は私が襲われた場所だったらしい。
私が休憩しようと体を預けた木。そして、ぼこぼこと不自然に割れている地面が、木の根のあとだとわかった。
ハイルド様は馬から降りると、私へと手を伸ばす。そして、私を抱きしめるようにして、地面へと降ろしてくれた。
「大丈夫か? 馬がはじめてだと足が疲れただろう」
ハイルド様に言われて、たしかに私の足に疲労が溜まっているのがわかる。
ハイルド様はそんな私を支え、「ほら」と地面を指差した。
そこには私を襲った木に擬態した魔物がいたはずだが……。
「……塵?」
「ああ。魔物は斃されると塵へと変わる。これを見ると、魔物は俺たちとはべつのものなのだと感じる」
「……近づいてもいいですか?」
「ああ」
ハイルド様と二人、地面に積もる塵へと近づく。
ハイルド様が切り払った木の根も、太い幹もなく、あるのは紫色に光る塵。……これが魔物の最期。
「これは魔塵と呼んでいる。水にも溶けず、草木も生えない。とくに利用価値はないが、積もると森が枯れてしまう」
「……はい」
魔物は……。普通の生き物とは違うのだろう。
普通の生き物であれば、死んだあとその身が腐り、土へと還る。それが栄養になり、次の命へ繋がる。
でも……魔物はこのまま塵として積もるだけ。役に立たない邪魔者だ。
まるで――私のよう。
「すぐに燃えるから問題ない」
そう言うと、ハイルド様は馬へと近づき、鞍に括り付けてあった革袋から石を二つ取り出した。きっと火打石だろう。
ハイルド様は塵の前へと屈むと、その火打石を叩き合わせる。飛び散った火花で簡単に火が付き、紫色に光る塵はボッと音を立てて燃えていく。
「低温でそのまま燃える。周りの生木を焼くほどの温度には達しないから処理は楽だな」
紫色の塵から、黄色い炎が立ち上がる。どうやら煙も少ないようで、ただ塵だけが燃えて消えていった。
なにも……残さない。
この世界になにも残さず、消えていく。
私はその炎を見つめて、ふと呟いていた。
「……マッチにでも、なればいいのに」
「マッチ?」
小さな呟きだったが、ハイルド様には聞こえていたらしい。
ハイルド様は立ち上がり、私を見つめる。
「それは摩擦で火がつくものだな?」
「あ、はい……。摩擦で簡単に火がつくと普及しつつあります」
「ああ。だが、あれは発火点が低すぎる。持ち歩くだけで発火する危険があるはずだ」
「はい……火事も起きている、と……」
「有毒ガスも発生すると聞いた」
本で読んだだけの私なんかより、ハイルド様のほうがマッチに詳しい。そんな人の前で不勉強なことを発言した自分が恥ずかしい。
しどろもどろに答えると、ハイルド様はふむ、と考え込んだ。
「いくら便利といっても、火事が起き、有毒ガスが出るものなど、この土地には不要と無視していたが……。たしかに魔塵を原材料にすれば……」
ハイルド様は私の言葉を真剣に考えているらしい。
ただ私は……。利用価値のない魔塵に自分を重ねただけなのだ。
せめて、なにか役に立つものになれれば、と。
でも、ハイルド様はそんな私の荒唐無稽な発言を拾い上げてくれて……。
「リルは素晴らしいな」
そう言って、私をぐっと抱き上げた。