5話
――助けられてしまった。
――出会ってはいけなかった辺境伯自身の手で。
清潔な部屋、清潔なベッド。
現実から逃げるように、頭まで布団を被り、私はぎゅっと目を閉じた。
「どうしよう……。どうしたら……」
魔物から助けられたあと、勅書が見つかり、私が辺境伯へと輿入れしようとした『リル・エバーランド』だと認識されてしまった。
本当は『メリル・エバーランド』と書かれていたはずだが、魔物により穴の開いた勅書では『メ』の部分が読み取れなかったのだろう。
森の中で一瞬考えた、別人になって生きていく道。
それはもう難しいかもしれない。
ここで……このまま、辺境伯の妻として生きていく……。それが一番いいのだろうか。父母と妹はそんな私をどう思うだろう……。
それに、私なんかが妹の代わりなどできるはずもない。
私が妹ではないとわかれば、辺境伯は怒り狂うだろう。俺が望んだのは出来損ないの姉ではない、と。
「逃げることは……」
ここから逃げ出し、どこか遠くへ。
でも……。勅書により輿入れした『リル・エバーランド』が逃げ出せば、それはエバーランド伯爵家の罪となるだろう。
……あのとき、辺境伯が私を助けた。
あの瞬間から、私が取れる道はきっともう一つしかないのだ。
逃げることはできない。
――妹の身代わりで辺境伯の妻となる。
私なんかが妹の代わりにはならない。だが、やるしかないのだ。
『お前が代わりに死ね』と言われた。その通りになればよかったのに……。
辺境伯に会う前に死ななければならなかった私が、助けられてしまったことが間違いだった。
「きっと……がっかりされたはず……」
布団の中で身を縮こまらせ、ぐっと手を握りしめる。
辺境伯は「あなたが、私の妻か?」と聞いた。私が「はい」と答えたとき、落胆しただろう。
私の存在が人の表情を翳らせることはわかっている。だから、私は「はい」と答えたあと、辺境伯の顔を見ないようにした。
想像の中の辺境伯は……金色の眼を伏せ、眉を寄せている。こんな女が妻だなんて、と思い……けれど、それを口にはせず、私を屋敷へと連れ帰るのだ。
大丈夫。私は自分の存在が迷惑なことはわかっている。
落胆するのが当たり前なのだから、それでいいのだ。
そして……我慢の限界が来た辺境伯は私を離縁するだろう。もしかしたら私が妹ではないことに早々に気づき、エバーランド伯爵家を訴えるかもしれない。
生き残ってしまった私。
妹の身代わりとしてきたのに、なにもできない私。
生き残ってしまったことで辺境伯を落胆させ、エバーランド伯爵家を窮地に追いやるのだ。
「あの木の根に刺されていれば……」
辺境伯の手によって、助けられなければ。全員幸せになれたのに……。
……私の手にはなにもない。なにも掴めない。
さらに強く手を握りしめると、コンコンと扉がノックされた。
「は、はい……っ」
ビクッと体を動かし、急いでベッドから降りる。
布団をきれいに戻し、髪を手櫛で直してから、扉へと向き直った。
「どうぞ……」
私の声を合図にし、扉が開かれる。
入ってきたのは――辺境伯だ。
うしろには制服を着た女性の姿もあった。
「休息中に失礼する。……話をしていいか」
「は、い。もちろん」
鮮やかな赤い髪に鋭い金色の眼。
私を魔物から助けたときと同じ様子で、辺境伯は現れた。
私が立っている場所まで近づき……あと三歩。そのぐらいの位置で辺境伯は立ち止まる。
「ここから先には進まない。無暗に近づくことはしない」
「はい……」
低くて落ち着いた声。
お腹に直接響いてくるような音は、端的にそれだけを告げた。
……言葉を、飾らない人なのだと感じる。
一見、冷たく酷いことを言っているようにも思えるが、そうではなく、きっと私を気遣っているのだろう。
……私にはそんな価値はないのに。
「俺の名前はハイルド・ナインだ。辺境伯の地位を賜っている」
「あ……私は……『リル・エバーランド』です。……王命により、こちらに参りました」
「……ああ」
辺境伯の名乗りを受け、私も急いでそれを返す。
告げたのは『リル・エバーランド』。勅書で読み取れた名前をそのまま使うことにした。
『メリル』と言わなかったのは……。
私なんかが妹になれるわけはないから。だから、きっと、そう告げてしまったのだ。
「突然の王命でこの地まで訪れ、心労も多いだろう。まずは休息を」
「は……はい……」
父母と妹から冷酷だと聞かされていた辺境伯に労わられ、思わず目が泳ぐ。
まだ会ってすぐだが、目の前の人が、父母と妹が話をしていた人物だと到底思えない。
聞いていた話はこうだ。
辺境伯は粗暴で人を人とも思っていない。自分の意に添わぬ者は殺してしまう。……魔物のような人物なのだ、と。
「王命について、対処が遅くなり、あなたに迷惑をかけた」
「い、いえ、そんなことは……っ」
「直に上手くいくだろう。安心してほしい」
「は……はい……っ」
『上手くいく』とはどういうことだろう。
もしかして、もう辺境伯は私が妹の身代わりで来たことに気づいていて、それをどうにかするということかもしれない。
ここからエバーランド伯爵領までは馬車で一週間。往復で二週間。辺境伯の部下が情報を集めたり、政治的な動きをしたりするとして、私がここで『リル・エバーランド』としていられるのは二週間とすこし……。
その後、私はどうなるだろう。いや、私は構わない。父母と妹は……。辺境伯は……。
胸がどくどくと鳴り、握ったてのひらには冷汗が溜まった。
緊張で体を固くすると、辺境伯のうしろに控えていた女性がこそっと辺境伯に告げた。
「閣下、怖がられていますよ」
「そうか……」
辺境伯の声がすこしだけしょんぼりと聞こえた。
そして、うしろに一歩下がり、私まであと四歩のところになる。
控えていた女性の隣に立つと、その女性をぐっと前へ押した。
「リル・エバーランド嬢。彼女はマチルダという。俺付きの騎士だが、しばらくはあなたの警護に当たる」
「はじめまして。リル・エバーランド様。紹介にあずかりましたマチルダです。閣下の妻として輿入れしてくださり、まことにありがとうございます。私はとても喜んでおります」
「……マチルダ」
辺境伯は低い声で女性の名を呼んだが、呼ばれた当人はどこ吹く風だ。
女性は榛色のポニーテールを揺らし、「万歳」と両手を上げた。
「閣下に女の影がなさすぎるせいで、大変迷惑しておりました。私にとって、まさに救世主。誠心誠意お仕えいたします」
そう言うと、右手を胸に当て、丁寧にお辞儀をした。
これまで騎士というのは本の中に存在する架空の職業だったのでぽーっと見惚れてしまう。
女性は礼をやめると、そんな私を見て、クスッと笑った。
そして、私のもとへと近づき、右手を取る。
「リル様とお呼びしてもいいでしょうか?」
「は、はいっ」
「では、私のことはマチルダと、そのままお呼びください」
「はいっ」
どぎまぎとする胸のせいで、いつもより勢いよく返事をしてしまう。
女性の騎士――マチルダはそんな私に呆れることなく、そのまま、ベッドへと腰かけさせた。
「閣下」
「ああ、そうだな。睡眠だな」
「はい。睡眠でしょう」
「え?」
二人は息ぴったりに頷き合っている。
マチルダはベッドの上の布団を剥がすと、私の足をベッドへとあげ、お腹まで布団をかけた。
「まずは寝ることだ。寝ていないと、悪いことばかりを思いつく」
「ええそうです。リル様は馬車の長旅であまり睡眠もとれなかったのではないですか? 目の下にクマができています」
マチルダがそう言って、私の目の下をそっと触る。
クマがあるかどうかなんて、気にしたことがなかった。伯爵家では夜中まで働き、朝が早かった。そして、休憩する時間を読書に当てていたから、これが私の顔だと思っていたけれど……。
「では、俺はもう出よう。……最後に一つだけ」
辺境伯はそう言うと、スッと金色の眼を細めた。
「あなたはなぜ、森にいたんだ?」
それは……当然の疑問。
魔物から助けられたときにも聞かれたが、答えることができなかった。
――家族に言われ、妹の身代わりとして嫁ぎ、それが露見しないよう、妹として死ぬためです。
……そんな答え、言えるわけがない。
一瞬、口籠って……。
私はそろそろと声を出した。
「……魔物の棲む森と、魔物に……興味があったのです」
告げた答えはほとんどすべてが嘘。真実を現さない言葉。
でも……。
それは、私の心にあった、ほんのわずかな本音だった。