2話
輿入れするために用意された馬車は質素なものだった。
それもそうだ。この馬車は魔物に襲われるのが決まっている。
「……さようなら」
見送りはだれもいなかった。
伯爵家の輿入れだというのに、豪華なドレスも調度品も用意されず、名残を惜しむ家族もいない。
だれもいない庭に一人で呟くと、私は馬車へと乗り込んだ。
そして、ガラガラと音を立てて馬車が走り出す。
辺境伯領までの旅路は一週間ほどだった。
馭者と私だけの旅はとくに問題もなく進んでいく。
馭者はこれまで伯爵家で雇っていた人物ではないようで、見覚えはない。
ただ、一人で伯爵家を出た私に対して思うことはあったようで、とても親切にしてくれた。
途中、父が用意した刺客に襲われたり、事故と偽って殺されるのではないかと思ったが、そんなこともなかった。
……父が見逃してくれた。
なんて、そんな甘い考えは持たない。
父はただ途中に通過する他領で問題が起きたり、想定外のことが起こるのを嫌ったのだろう。
その予想通り、辺境伯領へと入ると、馬車は中心部ではなく、森を目指すように進路を変えた。
……私はやはり、辺境伯に会うことはなく、魔物と出会い、そこで命を終えるのだろう。
石畳を進んでいた馬車は舗装されていない、土の道へと進んでいく。
馬車はこれまでより大きく揺れ、ときおり石を踏んでいるのか、大きく傾くこともあった。
それでも進み続け――ようやく馬車が止まった。
そして、馭者から声がかかる。
「申し訳ねぇ、お嬢様。これ以上は、馬車では進めそうにねぇんだ」
「……わかりました。降ります」
座席の下に置いていた小さなトランクを一つ持ち、馬車から降りる。
馬車は予想通り、森を進んでいたようで、見えた光景は一面の木だった。
鬱蒼としている……と言えばいいのだろうか。
柔らかな木漏れ日は入るような、人の手が入った森ではない。
それぞれの木が陽の光を求め、競争をしながら、上へ上へと伸びている。そして、その命を絡めとるように、蔦が木の幹を絞めていた。
「こんなことを言ってもあれなんだが……。お嬢様、目的地は本当にここでよかったんですか?」
「……ええ」
いい……。はずだ。
この森がきっと魔物が出没する森だろう。もっと奥へと進めば、地下迷宮の入り口があるのかもしれない。
「こんな気味が悪い森、儂は来たことがねぇ。……悪いことは言わねぇ。お嬢様。こんなところで待ち合わせをするヤツなんざ、信じちゃなんねえよ」
「……あなたは、私がここで人を待つって聞いているの?」
「ああ。伯爵家のお嬢様の待ち人のことを悪くいいたかねぇが、あんまりだ」
「……そう、ね」
馭者の言葉に曖昧なことしか返せない。
きっと、この馭者はなにも知らずにここにいるのだ。……この森に魔物が出ること。今もその危険があること。それを知らないまま……。
「お嬢様。儂には孫がいるんだ。孫は病気であんまり動けねぇ。お嬢様を送れば、薬の金が手に入るから、とここまで来た。……でも、金のために、儂はお嬢様を変なヤツに会わせたくねぇ」
「……お孫さんがいるの?」
「ああ。しょうがねぇ息子がいい嫁さんをもらってな。孫を見たらかわいくてなぁ。なんとかしてやりてぇと思ったんだが……」
「……ご家族を愛してるのね」
そう言うと、馭者はいやいやいや! と手を振った。
「お嬢様みてぇなきれいな言葉で言われると照れちまうよ!」
……私にはその照れた顔がまぶしくて。
愛したり、愛されたりする人は、とても素敵な表情をしているから。
「ここまでありがとう。歩いていくから、心配しないで」
だから、私は努めて明るい声を出した。
一刻も早く、この馭者をこの森から出さなくては……。
「それなら儂が送ります! それで、相手に一言、言ってやらないと……!!」
「大丈夫。……とっても素敵な方なの」
会ったこともない辺境伯。
冷酷と噂されるその人がどんな人かはわからない。
……そして、会う前に私は生を終えてしまうのだけど。
「あなたのおかげで、ここまでとっても快適な旅でした。父には私をちゃんと森へ送り届けたと伝えてください。馬車が使えなくなったので、そこで別れた、と」
「でも……」
馭者は心配そうに、瞳を揺らす。
私は笑顔が上手ではない。けれど、意識して口角を上げ、ふふっと声を上げた。
「森で待ち合わせするのはね、相手が姿をあまり見られたくない方だからなの。だから、あなたがいると、会えないかもしれなくて……」
「そりゃ大変だ……!」
「ええ。だから大丈夫なの。あなたはちゃんと仕事をし、私は待ち人に会える。だから、父にちゃんと伝えて、契約したお金はしっかり受け取ってくださいね」
……そのお金で、愛された小さな子どもが助かるのならば。
それはきっと、私の命の対価として、とても素晴らしいものだ。
「わかりました。では、儂は行きますよ。……本当に大丈夫なんですね?」
「ええ。大丈夫よ。必ず来てくれるわ」
笑顔が……ちゃんとできているだろうか。
ここで、恐れや不安を出せば、きっとこの馭者は私を置いていってはくれない。そして、そのうちに魔物が現れれば、私も彼も死んでしまうだろう。
父は馭者が死のうと構わないはずだ。
この森の危険性を知っていれば、こんなことを頼める人間は少なく、法外な賃金が必要だ。
父は、私にそんなお金をかけることを嫌い、なにも知らない者に頼んだのだろうから。
この馭者が私に巻き込まれる必要はないのだ。
「それじゃあ、お嬢様! お元気で!!」
男が私に手を振る。
私はその姿がうれしくて……。
「ええ。ここまで本当にありがとう」
最期に見た人が……私に手を振ってくれる人でよかった。
「さよなら」と告げた言葉を、受け取ってくれる人がいてよかった。
ゆっくりと小さくなる馬車に、私もそっと手を振ってみる。
人との別れのときに手を振るなんて慣れなくて……。振っていた手のてのひらを自分に向ける。
なに一つ、大切なものを掴むことができなかった手。
私にとって、愛は手から零れ落ち、だれかに与えられることも、だれかに与えることもできないものだから。
ぎゅっと握りしめた右手にはなにもない。
「よし……」
左手に小さなトランクを持ち、馬車が来たのとは反対側を向く。
森の奥深く。歩いていけば魔物に会えるだろうか。
一歩一歩、歩いていく。
が、舗装されていない道に足を取られ、なかなか前へ進まない。
そのうちに、父とのいざこざでくじいていた右足首が熱を持ってしまった。
「魔物……本当にいるのだろうか」
木の幹を支えにし、持っていたトランクを一度地面に置く。そして、ふぅっと息を吐いた。
この森に魔物が棲むというが、果たしてそれは本当なのだろうか。
あの馭者がこの森に魔物が棲むことを知らなくても無理はない。
魔物はすべての人に認識されているわけではない。
国家機密のような扱いとも違うが、ある程度の教養があるか、辺境伯領にでも住んでいない限り、地下迷宮の存在も知らないだろう。
私が知ったのも、ある本を読んだからだ。
居場所のない伯爵家で、私はいつも読書をしていた。
知識を蓄えるのはおもしろかったし、想像の世界へ旅立つことができるのも好きだった。
「たしか……木の姿に擬態した魔物もいるのよね」
一見すれば、ただの木。
けれど、よく見れば、その木は根が動くのだ。そして、その根が地面から湧き上がり、動物や人間を襲う。
「私……あの森にいるんだ」
本で読んだ、あの魔物の棲む森。
そこにいると思うと、自然と頬が緩む。すると――
「えっ……」
地面がボコッと盛り上がった。
しかも、それは一か所じゃない。同時に何か所もの地面がボコボコボコッと盛り上がる。
「あっ、トランク……っ!」
その勢いで、私の持ってきていた小さなトランクが空中へと舞い上がった。
その勢いは強く、壊れかけていた留め金はあっけなく壊れる。そして、中身が散乱していった。
入っていたのは数枚の書類と、少しばかりの衣類。
その書類や衣類は地面から飛び出してきたものに、グサッと串刺しにされた。これは――
「……木の根だ」
地面から出現したのは木の根。
何本も地面から飛び出したそれが、うねうねと動物のしっぽのように動いている。
「ここが、……私の見た最期」
本で見た魔物の棲む森。本で見た木の魔物。
それが最期になるのならば、それで……。
ゆっくりと目を閉じる。
あの木の根にグサッと刺されるのは痛いだろうか。できれば、その痛みが一瞬であればいい、と。
願っていた体に、痛みは走らない。
それどころか、なぜか、優しくふわっと持ち上がって――
「……ここでなにをしている」
低く落ち着いた声がして、ぱちりと目を開く。
すると、目に入ったのは、鮮やかな赤い髪と鋭い金色の眼。
「ここは……危険だ」
――気づけば、私は、大柄な男性に抱きかかえられていた。